1章-8 健全で「過激」な福音に立ち続ける

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(15節)

福音を管理する務めを任されたパウロは、それが恵みによるものであるということを証しし、神に逆らう結果になっている「ある人々」に残された神のあわれみを意識しつつ、一つの結論にたどり着きます。それが今回の箇所(15節)です。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた。」という主張です。

健全な信仰は普遍性をもつ

ただし、一つの結論といっても、パウロのオリジナルというわけではありません。この言葉は、初代教会で普遍的に用いられていた信仰告白の一つであったと考えられます。というのも15節をギリシャ語の語順にできるだけ忠実に訳すと、「信頼すべきは次の言葉であり、すべてが受け入れられるに価します。『キリスト。・イエスはこの世に来られ、罪人を救うためであった』」となるのです。新改訳が「そのまま受け入れるに価する」と訳しているところを、私は「すべてが受け入れられるに価します」と訳しました。というのは、ここには2つの意味が重ねられていて、1つには、新改訳が訳しているように「このセンテンスが、過不足のないものである」という意味ですが、もう1つ、この言葉が「すべての教会に受け入れられている」、普遍性を持っているという意味があると考えられるからです。福音は、エペソだけのものではなく、教会全体が共有するものであり、そこからの逸脱は真理ではないというのがパウロの一つの論点だということです。健全な信仰は普遍性をもつのです。

信頼すべき言葉へのカイロプラクティック

そして、それ以上にパウロの関心は、何が「信頼すべき言葉」なのか、ということにあります。それは、「信頼すべきでない言葉」が流布していたエペソにおいて、どうしても確認しなくてはいけないことであったのです。いつのまにか真理からそれてしまった人々に、霊的なカイロプラクティックを施していると言ってよいでしょう。

ここで、パウロが引用する信仰告白は、2つの強調点を持っています。第一の強調点は「この世」に来られたということです。この地球、この宇宙にと言い換えてもいいでしょう。というのは、キリスト教の初期から、この悪い世界に、聖なる方が来られるはずがないとか、肉体は悪なのだから、イエスは肉体をとるはずがないという間違った考えがはびこっていたのです。それで、この信仰告白には「この世」と言う言葉が入っています。

罪人を救うという「過激さ」を保つこと

もう一つの強調点は「罪人」を救うために来られたということです。エペソで流布していたのは「キリスト・イエスは、義人を救うために来られた」とか「キリスト・イエスは、知者を救うために来られた」というような教えだった可能性が高いのです。パウロはこれを修正して、健全な教えを再確認しています。「義人」や「知恵者」ではなく「罪人」。つまり、何か救われる側に資格が存在するかのような表現ではなく、まったく資格のない存在。その「罪人」を救うためにキリストは来られた、ということをパウロは言うのです。これが福音の素晴らしさであり、ある意味で過激なメッセージだといってよいでしょう。

大昔のエペソの人々だけでなく、私たちもまた、知らず知らずのうちに、この真理から外れてしまうことがあるのです。言葉の上では、この信仰告白に同意していても、実際のところ、神様の救いを自分の手柄にしてしまう、そういう考えにはまってしまうことがあるのです。例えば、キリスト・イエスは真面目なクリスチャンを救うために来られた、とか、キリスト・イエスはよく祈る人を救うために来られた、というように。こういう歪んだ信念は、その通りにできているうちは元気な信仰生活をエンジョイできますが、そのうち疲れてできなくなると、自分をことさら卑下する信仰生活に陥ってしまいます。

真面目に生きることも、よく祈ることも、神様の恵みへの応答としてふさわしいのですが、それが神の恵み、祝福を左右するものと考えられた瞬間、不健全な方向へと向かってしまう、ずれてしまうのです。ですから、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」という、この信頼すべきことばによって、繰り返し自分の信仰を正しい位置に戻し、感謝して歩む私たちでありたいのです。