1章-3  信仰の火を燃え立たせるには

それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(6~7節)

信仰の火、霊的炭火の原理

最近、BBQをするために火起こしをしました。着火剤に火をつけて、炭をくべ、うちわで扇ぎます。火が弱くなってきたらすることは、やはりうちわで扇ぐことです。

今日の箇所で、パウロが用いているイメージは、このイメージのようです。「再び燃え立たせる」という言葉は、消えかけた火に空気を送ることを意味しています。

「神の賜物」とは何でしょうか。この言葉は単数形です。パウロは教会を建て上げるために、クリスチャンに分け与えられる様々な賜物、能力を指す時は、複数形を使います。単数で言われるということは、クリスチャンが共通していただく神様からの贈り物のことであり、それはすなわち聖霊ご自身です。聖霊はしばしば、火に喩えられます。聖霊はまた風にも喩えられます。聖霊は私たちの内側にある私たち自身の霊と結びついて私たちの内側に火をともします。私たちの霊は、炭のようなものだと考えたらよいでしょう。炭だけでは燃えませんが、炭が十分に熱されれば、炭の内側から熱が発生します。その時、私たちの霊が燃えているとも言えるし、聖霊が燃えているとも言える。そして、私たちの内側にともされた火は、やはり聖霊という風によって、活気を与えられることになります。

炭火は、放っておいても、しばらくは勢いよく燃えるでしょう。けれども、永続するものではありません。適当なときに風を送り、炭を足して、世話をしていかなくてはいけません。聖霊によって与えられる信仰の火も同様です。

惑わしの力、思い起こしの力

信仰を「再び燃え立たせる」必要があったのは、誰でしょうか。テモテというのが一般的な答えでしょう。けれども、私たちはこの手紙を、テモテを引き合いに出しながら教会全体に、教会の中の心ある人に書き送った手紙であるととらえて読んでいます。若いテモテが信仰の低迷を経験していたことは想像できなくはありませんが、むしろ信仰が低迷していたのはエペソの教会でした。

まがいものの信仰が教会に入り込み、その道に進んだ人たちがさも幸せそうに見える、そんな中で教会は意気消沈していたのです。テモテもその流れに乗っていたのかもしれません。そんな教会にパウロは「再び燃え立たせる」ことを勧めるのです。

ここで「私はあなたに注意したいのです。」と訳していますが、「注意」という言葉は「思い起こす」という言葉です。それで「私はあなたが神の賜物を再び燃え立たせるために思い起こさせているのです。」と訳すほうが良いでしょう。パウロは三節から五節で、テモテに与えられた信仰がどこから来たのかを思い起こしていました。それを読んだテモテは、自分の信仰のルーツを思い起こしました。さらにパウロは、テモテに手を置いたこと、自分の後継者として任命したことを思い起こさせ、信仰が祖母、母だけではなくイスラエルの先祖からパウロを経由して彼のところに届いたということを確認しています。連綿と受け継がれてきた「まがいものでない信仰」をあなたは持っているのだと、パウロは語りかけるのです。

私の火は燃えているか

神の賜物が燃え立たせられると、どうなるでしょうか。力と愛と慎みに満ちることになります。そして臆病はどこかへ逃げていくことになります。力とは、ダイナマイトのような大きなエネルギーであり、愛とは惜しみなく与えることであり、慎みとは、力と愛を適切にコントロールすることです。

私たちは「目新しいもの」に心を奪われることがよくあります。確かに、私たちは聖書をよく学び、知識を増やし、知的に成長する必要があるでしょう。けれども、信仰の火を燃え立たせるのは、知ることではなく、思い起こすことです。すでに私たちは多くのことを教えられ、知らされ、体験している。それを思い起こすことが大切なのです。

© Masayuki Hara 2017