1章-4  福音のために、あえて苦しい道を

ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(8節)

いのちよりも大切なものを証しする

殉教という言葉があります。宗教的な理由によって、いのちを落とすことを指す言葉です。私たちは、自分のいのちが何より大事という価値観の中で生きていますから、殉教というと、時代遅れで、なんだか怪しく危ないものだという印象をもつかもしれません。最近は、神のためと叫びながら自爆テロを行う人が増えており、それを殉教者、英雄として称える、そんなことも起こっているので、ますます殉教は人気がなくなっています。

けれども、殉教は、イエス様に従って歩む人にとって、ひとつのゴールとなり得ます。すべての人はやがて死にますが、すべての人が殉教の死を遂げるわけではありません。殉教は、召しなのです。

自分のいのちが、自分のものではなく、神のものであり、私たちの人生は、私たちの好きなことをするのではなく、神の願うことを行うことだと変化していくとき、そこには「自分に対して死に、神に対して生きる」という状況が生まれます。これは精神的、霊的な殉教の道。これはすべてのキリスト信仰者が招かれている道です。

けれども、肉体的な拷問や死刑というものをとおって、文字通り殉教することによって、主の証しをするという道に召される人がいます。ある意味で、私たちの救いの真価が問われる出来事です。本当に死に対して勝利しているので、死を恐れることなく、死に向かっていける。いのちを粗末にするのではもちろんありません。いのちよりも大切なものがあることを証する究極の手段が殉教です。そして、殉教を召しと受け取ってその道を歩んだ人は、たくさんいます。そして、殉教者の血は、大きな証しとなって、次の信仰者を生み出す種となるのです。証し、という言葉は少し後の時代には殉教を意味する言葉になりました。

パウロと苦しみをともにするとは

パウロは今や、殉教の死を遂げようとしていました。牢に入れられて、処刑の日を待つばかりの日々だったに違いありません。もう少し裁判が残っていたかもしれませんが、それとて流れが変わるものではないと悟っていたのでしょう。裁判で勝利することより、殉教することに導きがあることをパウロは感じ取っていました。そんなときに書かれたのがこの手紙。そしてパウロはテモテに「私と同じ苦しみをともにしてください」と頼むのです。

パウロはテモテに手紙の最後で、自分のところに早く来るように頼んでいることからして、「同じ苦しみをともに」ということは、つまり牢に入り、処刑される、この殉教の道をたどってきなさいという命令なのです。パウロは自分のことを「主の囚人」と言っています。目に見える事実は「ローマ皇帝の囚人」なのですが、パウロの意識のなかには地上の権力者を越えて、神にとらえられている、心もからだもすっかり主のものになっている、そう言っているのです。一般的にいって、身内が監獄に入れられたら、恥ずかしいと思うものです。けれども、主の囚人となることは恥ずべきことではない。あなたもそうなるようにと、パウロは招くのです。

本当の脅威

キリスト教の草創期、殉教は文字通り十字架を負ってキリストに従うということであり、一つの理想でしたから、あこがれから自発的に殉教しようとした人もいました。けれどもそういう人は挫折することになりました。殉教は、神の力によってするものなのです。

テモテに対してパウロは殉教への道を示しました。そして教会には大きな迫害が迫っており、殉教への覚悟を必要としていました。けれども肉体的な死や、圧迫はキリスト教にとって本当の脅威ではありません。本当の脅威は、信仰なしに生き抜こう、幸せになろう、神の力なしに殉教しようというところにあります。

テモテが招かれていたのは、福音のために、あえて苦しい道を選ぶということでした。私たちはたいていどちらが楽でうまくいくかを考えやすい。けれどもイエス様に従うとき、この価値観は挑戦されます。福音のためなら、あえて苦しい道を選ぶ。イエス様の十字架の跡についていくのなら、その人はそうすべきこともあるのです。

© Masayuki Hara 2017