神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(9~10節)
人間中心のアプローチに潜む危険
「イエス様を信じると、こんないいことがあります」そういうタイプのメッセージを、私もすることがありますし、実際にイエス様を信じるとき、与えられるものは数多くあるので、間違ってはいません。けれども、このアプローチには危うさもあります。真理を語る上では、「イエス様を信じると、こんな大変なこともあります」ということも言わなくてはなりません。もし「いいこと」だけを並べて「大変なこと」を言わなかったら、一種の詐欺だと言われても仕方ないかもしれません。下手をすると、「いいこと」と「大変なこと」を天秤にかけて、「大変なこと」の方に軍配が上がれば、さっさと信仰を捨ててしまうということにもなりかねません。
もっと良くないアプローチは「イエス様を信じないと、こんな悪いことが起こります」というタイプ。これは一種の脅しです。けれども、実は私はこのアプローチで最初の信仰の一歩を踏み出したので、完全に否定もできません。しかし、いまの私はできるだけ、このアプローチは使わないようにしています。というのは、裁きを恐れるから、イエス様を信じるというのは、神様への愛よりも自分への愛を助長してしまう可能性が高いのです。そして、このアプローチも、イエス様を信じてもなお、悪いことが起こるとき、破たんする可能性があります。
困難に直面できる信仰とは
どちらのアプローチも、完全な間違いではありませんが、パウロに宿っていた信仰とはずいぶん距離があると言わなくてはなりません。前回学んだように、この信仰は、イエス様の証しのためにいのちを投げ出し殉教する、そこまで人を神様への愛に駆り立てるものです。「いいこと」「大変なこと」なんて人間の目線で信仰が左右されてはいません。一方のテモテ、あるいはエペソ教会の一部には、困難に直面して、弱ってしまうような信仰者もいました。そこでパウロは、どんなアプローチをしたのでしょうか。
「イエス様を信じてきて、あなたにはこんないいこともあったでしょう。その恩に報いて命を投げ出しなさい」といったでしょうか。「あなたが本当に救われているなら、これができるはずだ」と挑発したでしょうか。そんなことはしていません。
パウロのアプローチは、神様のみわざから語ることでした。神様が、私たちを招いた。だから私たちは救われたのだとパウロはまず言います。「聖なる招きによって」とは「聖なる立場へと」とも訳せるのです。人にとっていいとか悪いとかではありません。あなたは神様の聖なるポジションに招かれている、招かれた、話はそこからです。そして、そのポジションに人を招こうという神の計画が、永遠の昔から、歴史の始まる前から立てられていて、その栄光ある立場に、無償で、恵みによって、なんの功績もなく入れてもらえる。いや神の側で、キリスト・イエスという大きな犠牲まで払ったうえで、招いてくださっている。私にとっていいとか、悪いとかいう話ではなくて、この世界を死が牛耳っているということが、神にとって悪いので、イエス様の十字架と復活によって、この死を無効にし、世界を、人類を救い出そうとされた、この神様の計画に、あなたは恵みによって巻き込まれたのだ!パウロはそのようにアプローチします。すなわち、信仰を私中心にとらえるのではなく、神様中心にとらえていく、主人公は私ではなく、神であり、主導権は私ではなく、神であるということなのです。実に、救いとは、神と一つになっていくことであるので、私に神が合わせてくださるのではなく、神に私が合わせられていく、そのこと自体が救いなのです。
神と一つにされたなら、神が私にどんな人生を用意されるのか、どこに召されるのかは、はっきり言ってどうでもよいことになります。大切なことは、神が招かれたところに居続けることを光栄と思えるかどうかなのです。それは、もちろん神が愛であり、最善をなさる方であり、人を駒のように邪険に扱う方ではないという信頼があってこそのこと。そのようにして、「私自身の人生」という見方から「神がくださる人生」という見方にシフトする、実にこれこそ、自己に執着する罪からの解放なのです。
© Masayuki Hara 2017
