1章-6 大丈夫だから

私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。(11~12節)

自分の立ち位置を受け取り直す

苦しみをも、殉教をも受け入れる信仰、パウロが持っていた信仰は、これでした。そのような信仰は、人間中心的な信仰理解からは生まれません。「私」が基準になっているときに、その基準に合わせて福音を聞いたとしても、そこから神中心の信仰理解にシフトすることが重要であると、前回学びました。聖なる立場へと私たちを招こうとする神のご計画が先にあり、恵みによって私たちはそこに巻き込まれた、という神中心の信仰理解です。さらにいえば、この恵みの計画の中で、自分の今の具体的な立場、状況を理解することです。パウロにとってそれは、宣教者、使徒、教師という役割でした。

私たちも、ただ漠然としたクリスチャンという立ち位置ではなくて、神様のご計画の中に生かされ、いま教会との結びつきの中で、役割をいただいているということを理解することが重要です。宣教者、使徒、教師ではなくても、神様の計画に、一人ひとりは大切な部分を担っています。私はこの福音のために「○○」に任命された、祈り手に任命された、掃除当番に任命された、と自分の状況を受け取り直すことが重要なのです。

パウロの直面していた苦しみ

十字架によって「死が滅ぼされた」(十節)とは「無効にされた」という意味です。死はありますが、信仰者には希望を奪うものでも、働きが中途半端で終わる時間切れの合図でもありません。ほんのわずかな中断であって、永遠への入口です。そのような新しいいのちと不滅、これを私たちは生きるようにされたのです。そして、その力を証しする生き方こそ、神様が私たちに経験させたい人生なのです。死の力を骨抜きにする福音に生きる者には、苦しみが来ないのではなくて、どんな苦しみにも耐え抜くことのできる力が注がれるのです。

パウロが直面していたのは、ローマに囚われ、まもなく処刑されるという状況です。犯罪者として牢に入れられることは一般的には恥でしょう。けれども、彼の苦しみの直接の原因はこれではないと思われます。人間的な不名誉や死は、彼にとっては栄冠への入口でした。十字架で死なれた主は、不名誉の死を遂げたのであり、それは神からの栄誉を受ける道だったのですから、彼はそこに苦しんでいたわけではない。彼が苦しんでいたのは、自分が指導した教会のメンバーが、信仰から離れていくのを見聞きすることだったと思われます。かれらの信仰は神中心ではなく、人間中心だったのでしょう。パウロはそのような信仰を伝えたわけではありません。受け取る側の問題でした。パウロが囚われたことによって、身の危険が予想された中で、多くの人たちが自分の身を守るために信仰を捨てて、自分の都合のよいことをいう異端の道に進み始めていました。そういうなかで、パウロは悪魔のささやく声を聞いたかもしれません。「おまえの仕事は失敗に終わった。お前さえいなくなれば、教会なんてあっという間に壊せるのだ。」

信じてきた方を知るときに

けれども、パウロの信仰はぶれませんでした。パウロは自分がいなくなっても、神様が働いてくださる、パウロの代わりに働く者を必ず起こし、教会を守るということを確信していたのです。「ゆだねたもの」とは、パウロが導いてきた信仰者、教会であると考えられます。教会は、神からパウロにゆだねられ、パウロは神にゆだねる、そのような関係のあるものでした。

パウロが囚われたということは、教会を揺さぶり、ある意味で信仰者をふるいにかけました。そして、一時的にそこからふるい落とされたように見える人たちもいました。けれどもパウロはその出来事が、神の守りを疑わせるものにはなりませんでした。かの日、歴史の終わりの日には、神様はパウロの目に、喜びをもたらす公正な報告をしてくださるでしょう。本当に、神のものとされたのなら、必ず信仰に立ち返るでしょう。救いは神のものです。

それにしても、教会が散り散りになっていくのを見るなかでも、確信を持てたパウロの強さを思いますが、その秘訣は「信じてきた方を知る」ということに尽きます。みことばを学び、それを体験として知っていくなら、いかなる苦しみの中でも、大丈夫だと確信できる強さを身に着けることができるのです。

© Masayuki Hara 2017