1章-7 教会を守るのは

あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。(13~14節)

危機の中での非常識な命令

初代教会において、柱となって支えていると思われたパウロがローマに囚われの身になったという知らせは、教会を揺さぶりました。パウロがローマに捕らえられたのは、二回目のことですが、一回目はユダヤ人からの迫害によるもので、どちらかといえば、パウロはわざとローマに捕まり続けたのでした。けれども、今回はその信仰をローマ当局から問われる状況になっている。これは単なるパウロ個人の問題にとどまりません。教会全体にローマからの迫害が及ぶ可能性がありました。そういうなかで、パウロの信仰が誤りであり、本当の真理は別にあると吹聴する偽教師たちが活動的になっていました。教会から人が一人また一人と去っていく、それがテモテへの手紙第二の書かれた状況でした。羊飼いが打たれると、羊が散り散りになっていく、そのような状況です。

そういうなかで、テモテがパウロのところに呼び寄せられるというのは驚くべきことです。このような危機に際して、常識的に考えればテモテ先生は教会にとどまり、教会の結束をもう一度強め、離れていった人たちを訪ねて、戻ってこられるように導く、そうすることではないでしょうか。けれども、テモテがすべきことはこれとは少し違うことでした。

第一に命じられているのは、パウロの模範にならうことです。パウロは、エペソの教会が荒らされ、おかしな状態になることを聖霊によって知らされていても、そこで自分が出て行って何とかしようとは言いませんでした。「神と、その恵みのみことばとにゆだねます」と言って、退いたのです。この潔さこそ、今のテモテに必要なことでした。

教会はどうやって立つのか

健全なことば、正しい教理に基づけば、教会の柱はパウロでも、テモテでもありません。教会は、一人一人のメンバーがみことばにしっかりと立つところに立つのです。確かに使徒や、みことばに仕える者たちの働きは重要です。それは、一人ひとりがみことばに、イエス様にしっかりと結びつく、イエス・キリストにある信仰と愛を持つということを促す働きだからです。けれども、みことばやイエス様と、一人一人の信仰者の間に、牧会者が中継ぎでいるということではいけない。もしそうだと、牧会者が倒れたら、その人も倒れる。牧会者がいなくなったら、その人もいなくなる、ということになっていまいます。

そして牧会者の側も、自分がいなくなったら、あの人はどうなる、この人はどうなると考えて、引くに引けないということになってはいけない、そういう牧会をするのは、パウロの模範にならうことではない。偽教師は、そうやって、自分を仲介者にする。それはイエス様の位置に、自分を置くことです。これは戒められなくてはいけない。牧師の仕事は、みなさんをイエス様に結びつけることであって、自分のシンパを作ることではない。教会は主のもの。牧師は柱ではなくて、建築中の足場なのです。

聖霊が働きやすくなるために

パウロは身を引く前に、エペソの教会でしていたことは何だったでしょうか。三年の間、みことばを教えたのです。そこで、テモテにもパウロは同じことをするようにと言います。テモテへの手紙第二には、このことについての勧めが続きます。

パウロにゆだねられ、テモテにゆだねられ、今日私たちにゆだねられている教会、これは罪の世にあって、神の目に「よい」と言われるもの。これを守るのは聖霊だと教えます。聖霊をコントロールすることは誰にもできませんが、聖霊が働きやすい状況を整えることはできます。聖霊は、みことばとともに働きます。みことばのないところに聖霊は力ある働きをすることはできないのです。聖霊が炎なら、みことばは薪のようなものです。ですから、私たちはみことばに熱心になることが重要です。みことばを一人で読み、自分の力にすること、みことばを教会の交わりの中で読み、互いを励ますために用いること、牧師がいなくても、教会の交わりの中で、ともに主を見上げることができるようになった教会は強い証の力、聖霊の宣教の力をいただくことができるでしょう。私たちが目指すのは、このようなみことばに基づく信仰の交わりなのです。

© Masayuki Hara 2017