2章-1 差別なく祈る

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1節)

心ある信仰者ならば、「信じている通りに生きたい」と願うものでしょう。「信じている通りに生きたい」けれど、現実はなかなかそう行かない、そうできない。その間に私たちは葛藤が起こります。エペソの教会も、テモテもそうだった。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」という信仰に同意していても、それを実際にどう生きるかということになると、心もとなかったのです。そこに、偽教師たちのはびこる隙が生まれた、と言ってもいいでしょう。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」のならば、私たちはどう生きるべきなのか。2章1節「そこで」と始まるパウロの勧めを聞きましょう。

すべての人のために祈れ

パウロの第1の勧めは「祈ること」です。ここでパウロは4種類の言葉を使います。「願い」「祈り」「とりなし」「感謝」これは、祈りには4種類があること、それぞれに違いがあることを伝えたいのではなくて、思いつく限りの祈りを尽くして、祈りを捧げることを強調している、そういうことです。願い、祈り、とりなし、感謝はそれぞれ独立して明確に分離できるようなものではないのです。

パウロの関心は、どんな祈りか、ということ以上に「だれのために祈るか」ということです。「すべての人のために」祈りなさい。ということが、明確に主張されています。原文では「また、王とすべての高い地位にある人たちのために」というのは2節に入るので、この部分を括弧に入れて読むほうが、パウロの手紙の雰囲気を感じやすくなるでしょう。「そこで、すべてのことに先立って、私が勧めるのは、祈り、願い、とりなし、感謝をすべての人ためにすることである。」これが1節です。

すべての人のために」とパウロが言う理由は、すべての人が罪人であるからです。そして「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」のですから、「キリスト・イエスはすべての人を救うためにこの世に来られた」ことになります。これが4節で改めて展開されます。この救いの実現のために、何にも増して、祈ることが重要なのだ、当たり前でありながら忘れられやすいことをパウロは知っているので、ここで「すべてのことに先立って」祈ることを勧めるのです。

この「すべての人のために」の中には、1章20節に出てくる「ヒメナオとアレキサンデル」も入りますし、今、テモテが扱わなくてはならない「ある人々」も含まれる。そういう人たちのためにも、そういう人たちのためにこそ、祈るように、願うように、執り成すように、感謝するようにとパウロは勧めるのです。

ある人々は「言い争い」を仕掛けていました。そこには悪意さえあった。テモテはその人たちに対処するように命じられていた。けれども、論争に論争で応えてはいけない。論争に対して、祈りで応える、パウロはそう言います。それが正しい「戦い方」なのです。

どんな人も神の愛の対象なのだから

とりわけ「感謝」をささげよと言うことは、人間業では難しいことです。自分に厄介なことをふりかけてくる人を、神に感謝する。けれども、これはイエス様が教えられた道です。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

なぜなら、すべての人が、神様の救いの対象、愛の対象であるからです。「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた」のですから、その人が存在することは、神にとって究極的には善なのです。いま、そのことが明らかではないとしても、神は目的をもってその人を生かしている。それゆえ、感謝すべきなのです。

これは非常に、非常に厳しい教えです。ある姉妹が率直に言いました。タバコのキツイ臭いをぷんぷん漂わせた人と電車で乗り合わせるとき、その人を感謝することなどできない、と。そうでしょう。けれども、そこで思いを神と私の関係に向けることが一つ大切ではないかと思います。神にとって私という罪人はそのタバコ臭い人以上に、耐え難い存在だったのです。けれども、そんな私をイエス様は救いに来てくださった。それゆえ、この人を感謝する心を与えたまえと、祈るべきなのです。