そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1節)
祈りに始まるために
偽教師に混乱させられていたエペソ教会を、健全にするため、テモテが第一にするようにと勧められたのは、祈ることでした。「祈りで始め、祈りで終わる」ということは、私たちキリスト信仰者の基本でありながら、ついうっかり忘れられてしまうことです。「自立」ということが私たちの教育のプロセスにおいて重要視され、自分のことを自力でできるようになることが成長だと教え込まれているので、神の力を求めるのは、そのような性質に逆らうのです。確かに私たちにはある程度の力はあります。けれども、そこには限界があると認めるとき、神の力なしには何事もできない、祈らずにはいられないのだという悟りに導かれるのです。
人間である者すべてのために祈れ
さて、パウロが祈るよう勧めるのは「すべての人のため」であると前回学びました。パウロは原文の2節(新改訳では1節に合流)で、「また王とすべての高い地位にある人たちのために」と、説明を加えます。この人たちは1節の「すべての人」の中に当然のこと含まれます。ですから「また」という接続詞は誤解を招きやすい。彼らが人間ではないかのような印象を与えてしまうでしょう。けれどもパウロの意図はそのまったく逆です。原文にこの接続詞はありません。「すべての人」と「王と、すべての地位ある者たち」が並列されている。どんな王も、どんな高い地位にある者も、人間なのだ、救いを必要としている罪人なのだということがほのめかされている。これは、王の王である皇帝が神だとみなされていた世界で、実にインパクトのある表現です。
また反対に、すべての人が、ある意味で王の器であり、権威ある者であるという主張とも言えます。「王」という言葉は原文では複数形、「高い地位にある」という部分は「権威を受けている者」と訳しておいたほうがパウロの言葉遣いを感じとれると思います。そういうことを考え合わせると、ここは「王であろうと、どんな権威ある者であろうとも、人間である者すべてのために、願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」と訳すとよいのではと思います。
政治的秩序はすべての人の益になる
パウロがこの手紙を書いた時代、ローマ皇帝は、あの悪名高いネロでした。そうであっても、王のために祈る。それは文脈から2つのポイントがあるのがわかります。1つは王の救いのためです。そしてもう1つは、政治的秩序が保たれることによって、教会の中から外へと追い出された人が、正しく処遇される、ということのためです。
教会に混乱をもたらす人が、教会の外で評判がよい、ということになると、問題です。教会の中は、愛と赦しが第一原則ですから、一歩間違うと甘えが助長され、罪が放置されることがままある。けれども、教会の外は厳しい世界のはずです。ちょうど家庭と社会のような関係といったらよいでしょうか。家庭の中で親のお金を盗むのと、外で万引きするのとで、より厳しい罰が下るのは、当然、社会のほうです。これが家庭であったら、問題なわけです。
教会に混乱をもたらす人を、愛をもって戒めてもなお言うことを聞かない場合、教会が下すことのできる最終手段は、回復のために一時的に教会を出入り禁止にすることでした。この制裁によって、その人は社会的に厳しい目で見られることになります。そしてそこに悔い改めに導かれる可能性が出てくる。けれども、そのためには社会がきちんと良識を働かせている社会である必要があります。だから、王や高い地位にある人たちのためにとりなし、感謝をささげることは意味があるわけです。その人たちが健康で、きちんと自分の仕事をすることは、教会のためにも、偽教師のためにもなる、それは究極的に社会全体の益のためになるのです。
最後に、21世紀の今日において、「王たち」「すべて権威ある者たち」とは誰かということを考えておきたい。私たちの社会は、主権在民、国民一人ひとりに主権が与えられている社会です。政治家や官僚は、公僕、国民に奉仕する「しもべ」という位置づけ。この国に王はいませんし、「権威」はすべての国民に等しく委ねられているのです。投票率が著しく低下し、民主主義が放棄されている今日。パウロの命令は政治家だけでなく、国民の主権者意識の覚醒のための祈りとして、意味をなすのではないかと思います。
©Masayuki Hara 2016
