2章-3 祈りの実はゆだねて

それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。(2節)

祈りがもたらす実りとは

エペソ教会の混乱に対処するため、テモテはまず祈るように、しかも差別なく祈るように勧められました。その理由として「私たちが敬虔に、また威厳をもって、平安で静かな一生を送るため」とパウロは書きます。祈るなら、これらのことがもたらされるというわけです。ここで、原文の言葉の順番は、ひっくり返っていて、「平安で静かな一生を送るため、敬虔に、威厳をもって」と続きますので、この順に平安、静か、敬虔、威厳という4つの言葉の意味それぞれに、注意を払いましょう。この4つは聖書の他の箇所には滅多に使われない言葉なのです。

「平安」と「静か」

まず「平安」です。これはエーレモスという言葉で、この当時、神殿で皇帝の健康のためにいけにえを捧げる慣わしがあり、その理由として、エーレモスのために、という言葉が使われました。このいけにえによってユダヤ社会は、皇帝礼拝を避けながら、皇帝に敵対する反社会分子ではないことを言い表したのです。ですから、この言葉が指すのは、心の問題ではなく、社会にあって教会が誤解を受けずにいられる状態を指すのです。

次に「静か」です。ヘースキオスという言葉で、混乱がないこと、秩序立った状態を言います。これも、心の状態ではなく、教会内部の状況を指す言葉です。ひっくり返して言うなら、エペソにおいて、教会は内部で混乱、騒ぎがあり、社会において教会とはそういう騒がしい集団なのだと誤解されていたわけです。そこから脱することが願われていた。そのための最初の取り組みが祈りだったということです。

そういうわけですから、ここで気をつけるべきは、平安や静けさの至上主義です。このみことばを足がかりにして、どんな関係にも、とにかく平安を保とうとする態度が導き出されるなら問題です。ここで問題なのは、誤解に基づく平安の乱れで、福音が正しく語られた上での反発は問題にされていないのです。和を大事にする日本社会では、和を優先して真理が妥協されてしまうことがあり得ます。それをこのみことばは正当化してはいません。また、静けさ至上主義とは、教会で、にぎやかな集会をすることを批判する態度のことです。これまた文脈の読み違い。確かに静まって、神に祈ることは大切ですが、タンバリンと踊りで主を褒め称えるなら、当然にぎやかになります。このにぎやかさを、このみことばによって禁じてはいけないのです。(こういうのを聖句信仰といって、聖書信仰とは相容れません。)

「敬虔」と「威厳」

3つ目に「敬虔」です。これはエウセベイアという言葉。意味は、神に対する非常に大きな尊敬、神を恐れること。献身的であること。これはテモテへの手紙、テトスへの手紙で10回も使われるキイワードです。言葉の意味は、難しいものではありませんが、何をもって「敬虔」と言えるか、となると簡単ではないでしょう。パウロはこの言葉を他の書簡では使いません。この言葉を頻発していたのは、実は偽教師たちでした。偽教師たちは、自分たちの教えを熱心に説き、教会に論争を巻き起こしながら、これこそ「敬虔」な態度なのだと自負していたのです。パウロは、そんなかれらに彼らの言葉を使ってカウンターパンチを繰り出す。敬虔というなら、すべての人を差別なく祈ってから言え、というわけです。

最後に「威厳」、セムノテースといいます。意味は、「尊敬を勝ち取るような真面目な振る舞いのこと」です。どんな人のためにも、落ち着いて祈りを捧げる姿は、キリスト信仰者でなくても、尊敬を集めるでしょう。反対に、誰彼構わず議論をふっかける自信屋は煙たがられます。どちらが本物か。一目瞭然です。パウロはテモテに、偽教師に巻き込まれないように、言葉を重ねて注意していることが浮かび上がってきます。

ところで、敬虔や威厳は求めるものというより、祈りの生活の結果、結ばれる実りです。私たちはすでに本物なのですから、実りは神様にお委ねして、差別のない祈りを続けてささげていくことが大切なのです。

©Masayuki Hara 2016