そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(3~4節)
祈りが神の御前にもつ意味
エペソに起こっていた問題に向き合うテモテが、第一に取り組むべきは、祈ること、すべての人のために、差別なく祈ることでした。パウロは、その祈りがどんな実をもたらすのかを示して、テモテを励まし、さらに、その祈りが神様にとって、どのようなものなのかを教えます。「そうすることは、良いことであり、喜ばれること」だとパウロは言うのです。
ここで「良いこと」と言われるのは、善悪の次元ではありません。ここで「良い」と訳される言葉は「美しい」とも訳すことができる、そういう言葉です。創世記の冒頭で、世界が創造されたとき、神は見て「良い」と言われた、あの「良い」です。エペソの教会は、混乱しており、騒がしく、落ち着かない状況でした。神の御前に、「良い」とは決して言われない状況です。けれども、その真っ只中において、すべての人のために祈り始めるなら、そこに「良い」が生まれるとパウロは言うわけです。問題はまだ解決していません。けれども、祈りによって、祈りそのものが、「神の良し」とされる。これはすばらしい慰めではないでしょうか。
私たちはともすると、祈りと魔法を同じように考えてしまいがちです。状況が動くこと、問題が解決することの手段として、祈りを考えてしまいやすい。けれども、祈りそのものが、神の御前には、目的であり、良いものなのだと知るとき、私たちの祈りに新しい光が差し込むような思いがします。
神とひとつになる祈り
「良いこと」に続いて「喜ばれること」が続きます。これは、神様が、この祈りを大歓迎してくださっている、ということです。あたかも、神様がこの祈りに励まされて舞い上がっている、そんなイメージさえ起こります。
ある友人が、祈りは試合の応援に似ているという話をしてくれました。今、夏の高校野球のシーズンで、熱戦が繰り広げられているようですが、応援席で一生懸命応援する姿も、見る人の感動を誘います。その友人は、まさに高校野球の応援をしながら、祈りとの類似性に気づいたのです。彼女はこう書いています。
「チアがうまくても、頑張っても、それで勝てるわけじゃない。戦うのは選手だから。私たちじゃないから。でも、必死で戦っている野球部とひとつになることはできる。同じ思いになることができる。祈りってひとつになって、同じ思いで戦っている人と同じ目標を目指すことだと思う。だから、それができたら、チアはそれでいいんだと思う。」
そうです。差別のない祈りとは、神ご自身とひとつになる、神に調和する、そのような行為なのです。私たちの救い主である神は、すべての人が救われることを望んでおられる方、それゆえ、すべての人のための祈りは、神とひとつになる祈りなのです。それを美しいと言わずして、何といえばよいでしょう。そして、この祈りを教会が共有していくときに、乱されていた一致が、回復していくのです。もし、祈りに差別が混じるなら、共に祈れない人が出てくるでしょう。祈りに差別が混じらなくても、祈りに加わらない人はいるでしょうが、その人を取り扱うのは神様です。そこはゆだねつつ、人間に託された務めにいそしむことは、「良いことであり、喜ばれること」なのだと、改めて覚えたいと思います。
救われたことで終わらずに
パウロは「神がすべての人が救われることを望んでおられます」とは書きませんでした。「救われて、真理を知るようになる」と書いています。救われたけれども、真理の知識に至っていない、そういう人がいることを想定しています。ここで「知る」と訳された言葉は、「エピグノーシス」と言います。一般的な「知る」「知識」であれば「グノーシス」という言葉が使われますが、ここでは「エピ」という強調する言葉がついたものが使われます。その理由は、偽教師たちが報じていた教えが、「グノーシス」(6:20の「霊知」がそれ)と総称されるものだったからです。そういうわけで、この先、パウロは「グノーシス」に対抗する形で教えを説いていきます。そのことを念頭に、これからも読み進めていきましょう。
©Masayuki Hara 2016
