神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。 (5節~6節前半)
神の唯一性と救いの普遍性
差別なく、人間である限り、誰のためにでも祈るように、とテモテに勧めるパウロの姿を学んでいます。そのように祈るのは「神がすべての人の救いを望んでおられる」ということに基づきます。そしてパウロはさらに、なぜ、神はそのように望まれるのか、その理由を説いて、「神は唯一です。」と筆を進めます。
この節の冒頭には、理由を表す接続詞がついています。ですから「神は唯一だからです。」と訳すことができます。神の唯一性と、救いの範囲の普遍性が結び付けられています。もし、神が複数いるとしたら、たとえばギリシャ人担当の神、ユダヤ人担当の神、というように、それぞれの受け持つ範囲の人間だけが救われればよい、ということにもなるでしょう。もしそうなら、差別なく祈るというのはナンセンスです。けれども、神が唯一であるなら、その方は、だれにとっても神であり、あがめられ、その救いの恵みを必要とするということになります。
この「神は唯一だからです。」というフレーズは、パウロが考えたことではなく、教会の信仰告白からの引用だったようです。5節から6節前半までが、引用であろうと考えられます。この信仰告白は、さらに源流をさかのぼると申命記6章4節にたどり着きます。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」
「聞きなさい」と始まるこのフレーズは、ヘブル語で「シェマ、イスラエル」という音になり、通称「シェマ」と言われ、ユダヤ人が一日に幾度となく繰り返すものです。
「主はただひとり」「神は唯一です」という信仰告白は、2つの方向性を持っています。1つには、多神教を認めないということです。霊的存在はあまたいるとしても「神」と言い得るのは一人だけ、ということです。エペソで問題になっているグノーシス(霊知)と言われる異端は、旧約聖書の神と新約聖書の神を、異なる神であると教え、神を分割しました。旧約聖書の神は、怒りっぽくて、低俗な神、新約聖書の神イエスは、愛の神という具合です。そうやって、聖書の中に多神教的な要素を認めようとする動きにも、ここでパウロはくさびを打ち込んでいるわけです。もう1つが、ここまで論じられてきた排他主義を認めないということです。ユダヤ人たちは、神が唯一であり、自分たちだけが神の民であって、ほかは救われないと考える傾向にありました。これは誤った推論でした。正しくは、神が唯一であるので、あらゆる人が救われるために、神は行動されるのだということだったのです。
キリストの二性一人格による贖いの尊さ
パウロの引用する信仰告白は、つづけて「また、神と人との間の仲介者も唯一」と言います。ここで唯一という言葉が強調されています。この「唯一性」、すなわち他に比べるものがない存在、というのは神の性質ですから、これを仲介者に当てはめているということは、この仲介者も神であるということが、ほのめかされていることになります。それでいて、この仲介者は「人間キリスト・イエス」なのです。ここに、キリストの二性一人格が表現されています。つまり、イエス様は100パーセント神、100パーセント人間、分離することも融合することもできない、そのような特別な方であるということです。むしろ、そのような方だからこそ、仲介者になり得るのです。この信仰告白は、複数の仲介者を否定しています。グノーシスの教えでは、たとえば十二弟子が、それぞれ仲介者になるというような教えがあったようです。
さらに「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになった」と続きます。これは、すべての人がすでに救われているという意味ではなくて、すべての人を贖うのに、十分な価値が、キリストのいのちにはあるのだ、という意味です。だから、仲介者は一人でよいのです。
私たちも、当然のこと、神は唯一であり、神と人との仲介者も唯一で、人間キリスト・イエスであるということを告白しています。この告白に生きると言いながら、排他的になったり、ゆがんだキリスト理解をいだいたりして、その実を否定するようなことにならないよう、心したいものです。
©Masayuki Hara 2016
