2章-6 神のタイミングの不思議

これが時至ってなされたあかしなのです。そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ──私は真実を言っており、うそは言いません──信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。(6節後半~7節)

パウロがテモテに、またエペソの教会に「すべての人のために祈れ」と勧めました。そして、教会の信仰告白を引き合いに出して、神の唯一性、そして仲介者の唯一性が提示されました。パウロはさらに、「これが時至ってなされた証しなのです。」と続けます。今回は、この部分を詳しく学ぶことにしましょう。

旧約聖書のフォーカスと神の計画

まず「これ」が何を指すのか、ですが、神の唯一性と仲介者の唯一性、そしてキリストのいのちがすべての人の贖いの代価として十分であるということ、この全体です。これが「証しである」すなわち「証拠」であるというのです。何の証拠かというと、「神がすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」ことの証拠です。だから、すべての人の救いのために祈るということが、要請されるのです。

確かに旧約聖書を読んでいると、神様の関心がとても狭いような印象を受けるかもしれません。実際、旧約聖書はほとんどヘブル語で書かれていましたから、ヘブル語を知らない人には読むことさえ難しいのです。創世記11章9節までは、神様のフォーカスは広く、全体に行き渡っていると思われますが、ここからアブラムが登場し、話のフォーカスは一気に小さくなります。例外がないわけではありませんが、アブラハムの子孫であるイスラエルとまったく無関係に、別の国の話が出てくることはありません。

ですから、イスラエル人の神はイスラエルだけに関心がある、と思い込む人が出てくるのも無理はありません。実際、使徒の働きは、このことに教会が葛藤していたことを物語っています。使徒11章18節「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と彼らは大発見する。それほどまでに、わかりにくくなっていたのです。

けれども、神様ははじめからずっと、全人類を祝福する計画を持っておられました。そのことは創世記で、まさに物語のフォーカスが小さくなる、そのところに証しされています。創世記12章3節の後半「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」とあります。神様は、全世界を救うためにイスラエルを救うという計画をお持ちだったわけです。そして、アブラハムに委ねられたこの使命、正確にいうと、神様とともに担うようにと与えられたくびきをイスラエルは、担いきれませんでした。けれどもイエス様はこれを担われた、完全に成し遂げられたのです。それゆえ、ここでもう一度、聖書の物語が全世界というフォーカスに広がることになります。

神様の時にゆだねて

そうすると問題は、もっと早くイエス様が来るということはできなかったのか、ということになるでしょう。アブラムが召されてから2000年以上の時が流れています。その問いへの答えは、YesでありNoです。可能性という意味では、イエス様が来ることはできました。けれども、神様の目に、あの時、今からおよそ2000年前の、あのクリスマスの夜が、ベストタイミングでした。それがここで「時至って」という言葉にこめられた意味なのです。

人間的な観点からは、どうしてあの時が、ベストなのか、いろいろと言うことができます。たとえば、当時知られていた世界は、すべてコイネー・ギリシャ語という共通語をもっていたこと、これで伝道するのがどれだけ便利だったか、計り知れません。ローマ帝国によって、道路網がしっかりと築かれて、安全な旅行ができるようになっていたこと、これも宣教旅行を助けました。それ以外にも、あの時だったから、良かったことはたくさんあるのです。けれども、すべては「神様の時」だったから、と言う以外に答えはありません。「時至って」とは「ご自分の時に」というのが直訳なのです。

世界的な宣教が始まる以前に、イスラエル以外の場所で生きた人々の救いについては、聖書は多くを語っていません。神様のいつくしみ深さと、公正さに期待して、ゆだねることが賢明なことです。そこを詮索するのではなく、今は救いの時、恵みの時なのですから、神様の心を知った者として、パウロとともに福音を伝える使命に生かされたい、そう願い、祈りに導かれたいのです。

©Masayuki Hara 2016