キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。(三~四節)
たとえとしての召集令状
戦争を体験した人には特別な思いがよぎるものの一つに、召集令状があるでしょう。私は想像しかできませんが、召集令状が来ると人の反応は二つにわかれたと聞きます。一つは、悲しみに暮れるという反応です。愛する家族を、一家の大黒柱を戦地に送る、戦争にとられる、生きて帰ってこられないかもしれない。強制される別れに沈む。もう一つは、喜び勇むという反応です。お国のために自分が役に立てるということを名誉に感じ、自分のいのちも顧みずに勇敢に立ち向かう、そういう場面も、戦争映画ではお決まりです。
戦争を聖書は肯定しません。けれども、戦争や軍隊がこの世界からなくなった時代はなく、身近なものでした。その現実のなかで、聖書がこういったイメージを用いることがあるのです。それは、当時の人たちが理解するためです。ここでイメージとして用いられていること、たとえとして用いられていることを、実際のことに読み替えてしまうと問題が起こります。ここで「キリスト・イエスの立派な兵士」という表現が出てきますが、これによって、教会が軍隊を持つこととか、キリスト教国が軍隊を持つということが肯定されるわけではありません。
ローマ世界で、兵隊になるということは、生計の手段はローマからの給与によるということです。そのかわり、兵隊は兵士の仕事に専念し、それ以外のことをしません。二十四時間フルタイムで兵士なのです。パウロはその部分をたとえとして用いています。テモテは今から、パウロとともに苦しみをともにする、殉教の道を進むことになっていました。死を通して、キリストの福音の素晴らしさ、真実さを証しするということに、彼はパウロと共に召されようとしていました。まさに、テモテへの手紙第二全体が、召集令状でした。そのような特別な状況で、このみことばが書かれていることをわきまえて、私たちは、この言葉を読まなくてはなりません。
ですから、この言葉から、クリスチャンはみな、いつでもキリストの兵士というような安直な結論は出せません。「日常生活のことに掛り合う」のをやめて、信仰だけに熱心になるべき、ということでもない。では、私たちにこのみことばは何を教えるのでしょうか。それは、死に直面するとき、私たちがどうあるか、ということです。
「日常生活」を脇に置くとき
ここに「苦しみをともにする」ということが、殉教のことを意味しているということを一章で学びました。とすると、ここでキリスト・イエスの立派な兵士は、何に立ち向かい、何と戦うのか。それは「死」です。死は、最後の敵と言われます。キリストは死に勝利し、その力を無効にしました。けれども、そのことを信じて最後まで生きられるか、信仰を確かにもって、勇敢に、死に直面する、そのプロセスにあるすべての苦しみに耐え抜く、それができるか、それは一人ひとりに問われることであり、まさに二十四時間休みのない戦いです。パウロもまさに戦っており、そこにテモテも呼び出されていく。そこで、「日常生活のことに掛り合う」という表現で示されているのは、普段通りのテモテの教会での仕事を指すことがわかります。普段通りの仕事というのは、明日も明後日も、しばらくずっと、今の生活が変わらないだろうという見込みの中で行うものです。けれども自分の死が近いということがわかったら、生き方は必然的に変わってくる。自分の仕事をたたみ、不用なものは処分し、責任をだれかにゆだね、自分がいなくなっても、周りが困らないように支度をするでしょう。これこそ、召集令状を受け取った兵士がすることです。
戦いのポイント、勝利の秘訣
ですから、私たちにとっては、例えば、がんの告知を受けて余命宣告、そういう事態です。あるいは、年を重ね、何となくそろそろだと感じる。大けがをして寝たきりになる。そういう事態です。遠いと思っていた死の現実が急にリアリティをもって迫ってくる。そのとき、最後まで信仰をもち、賛美と感謝のうちに歩めるか、死から逃げずに生きられるか。そこが「キリスト・イエスの立派な兵士」の戦いなのです。
ポイントは、その戦いに誰から召されるのかということです。死に招かれているのではありません。死との闘いに勝利するように、主イエスに召されるのです。余命宣告を超えて、そこに神様からの召集令状を受け取ることができれば、死を通して、神を証する勝利が私たちのものになるのです。
© Masayuki Hara 2017
