2章-4 パウロの言いたいこと、言えないこと

また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。(五~六節)

悟りへの招き

今日の箇所には私たちの励ましになる言葉があります。「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。」という言葉は、テモテでさえ、パウロの言葉を理解するのに苦労があったことを思わせます。そして、私たちも主によってみことばを悟らせていただくということが必要ですし、また主はそれを願う者に、そのようにしてくださるということも確かです。

ともに苦しむことの意味

テモテの手紙第二で繰り返しテモテに命じられているのは「ともに苦しむこと」でした。私たちはこれを、エペソを離れ、ローマでパウロとともにキリストにあるいのちを証して死ぬこと、であるととらえています。ある学者は、そういうふうには考えないで、ただ福音宣教に、パウロと同じくらい熱心に献身的に取り組むことが「ともに苦しむこと」だと考えます。

けれども「ともに苦しむ」という言葉の「ともに」という部分は、まったく同じことに取り組むという意味をもっています。ギリシャ語には、「ともに」を表す2つの言葉があって、違うけれども一緒にというときの「ともに」と、まったく同じ「ともに」とがあるのです。ここでは後者が使われています。ですから、ここでパウロは自分の苦しみと同じものを、同じ場所で「ともに」と考えていたのです。それは、殉教の道でした。

殉教が明示されない理由

それではなぜ、テモテにはっきりと、キリストを証してともに死のう、と言わなかったのでしょうか。それは教会の事情です。エペソ教会にはまだ、偽教師がいました。パウロに反対する人がいたのです。そして、信仰をしっかりとらえられていない人もいた。そういう人に「私と一緒に死にましょう」という言葉が届いたらどうでしょう。「キリスト信仰は、危ない」「パウロの教えはいのちを軽んじている」そういう非難を受ける可能性がありました。それで、パウロは、直接的な表現を避けて、テモテなら、そして悟りのある人ならわかるような言葉遣いをしているのです。ここでいくつもの譬えが重ねられ、「理解するように」と言われていることも、それで納得できます。表面的な言葉の奥に、パウロとテモテの間にある文脈をつかんでパウロの言いたいことをつかむようにというサインなのです。

いずれにしても、エペソを離れてローマに行き、パウロと「苦しみをともにする」ことは、大きなチャレンジでした。それゆえ「キリスト・イエスにある恵みによって強くされる」ことが必要でした。エペソを離れるためには、自分がいなくなった後も、福音が正しく語られ続けるように、人を選び訓練しなくてはなりません。テモテがこれまで続けてきた「日常の営み」を、誰かにゆだねなくてはならなかったのです。死に勝利するキリストに従うキリスト・イエスの立派な兵士になるという譬えは、二節の自分の働きを委ねることの譬えになっています。

逆戻りしないこと

パウロはこの譬えに続いて、二つの譬えを並べます。どちらもパウロが好んで使うもので、一つは陸上競技、アスリートの譬え、もう一つは農夫、お百姓さんの譬えです。譬えを並べながら、パウロはテモテの視線を次第に、エペソからローマへ、そしてその先へと移していくことがわかります。

兵隊の譬えは、今のエペソの生活を整理することに中心がありました。アスリートの譬えは、「規定に従って競技する」ということに中心があります。それは、逆戻りしないこと、ゴールを目指して邁進することです。私たちは、救われたとき、この世から取り出され、この世に仕えるために遣わされます。けれども、この世はゴールでもふるさとでもない。この世に執着するのは、キリスト者のあるべき姿ではありません。召されて主イエスといつまでもともにいることこそ私たちの願いである。しかし、早死にを望むのでもない。早く行きたいけど、早まらない。この板挟みの中に生きているのが私たちです。けれども、ともするとこの世での働きが、イエス様のところに行くより魅力的に思えてしまうことがある。偶像化してしまうのです。テモテはいざ、ローマ、そしていざイエス様のところへと招かれたとき、エペソに気持ちを残してしまう可能性があったでしょう。私たちも同じです。この地上での主のわざに熱心になり、そしてそれは楽しいことでもあり、やりがいがあります。けれどそこに執着して、主を見失ってはいけないのです。

苦労の先にある報い

農夫のたとえは、苦労の先にある報いということがポイントです。エペソを離れることも、ローマで苦しむことも、人間的には大変なことです。しかし、その大変なことに目を奪われてしまっては、収穫にあずかれません。農夫は、農作業の苦労の先に、豊かな収穫があることを知って、それに励まされて仕事をします。私たちには、収穫の主が、再臨のときに、素晴らしい報いを、ごほうびを用意して待っていてくださる。そのことを忘れずにいることが、地上のことに執着せず、主にある苦労に臆せずに、生き抜くための秘訣なのです。このことを覚えて、今日という日に託された主のわざにいそしみたいと願います。

© Masayuki Hara 2017