2章-5 いつも思うこと

私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。(八節)

空っぽの十字架にこめられた意味

たいていの礼拝堂には十字架が掲げられています。けれどもプロテスタントとカトリックでは十字架の状態が違うことをご存知でしょうか。プロテスタントの十字架は、空っぽの十字架。カトリックのほうは、キリストが磔になって苦しんでいる様がかたどられています。どちらが正しいということではありませんが、強調点が違うということははっきりしています。カトリックの十字架は、キリストの苦しみ、犠牲ということに重きが置かれています。それは私たち人間の罪の重さということを映し出しているともいえます。けれども、プロテスタントの十字架は、空の十字架です。すなわち、もうキリストはそこにいません。犠牲は捧げ終わり、そしてキリストはよみがえられたのです。ですので、プロテスタントの十字架は、キリストの勝利、復活という側面に重きを置いているのです。(最近の教会建築では、よみがえりへの強調から十字架を置かないというものも増えています。)

なぜこのような話をしたのかというと、私たちがイエス様をどのように思い起こすか、イメージするかということと、キリスト信仰者として、どのような生き方をするか、ということは密接につながっているからです。そして、この箇所でパウロがテモテに教えていることは、「死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」だからです。

十字架の主を思うことが間違っているのではありません。聖餐式では「わたしを覚えて」と言われます。そのときには、主の死や苦しみに強調点が置かれます。このときの「覚える」は、「再び思い出す」というニュアンスがあります。一方で、この箇所は「いつも思っている」「思い続ける」という意味です。

苦しみに立ち向かうために必要な「思い起こし」

テモテが置かれた状況から考えたら、十字架の主を思っているという勧めのほうが、ふさわしいように思えます。まさにこれから、彼はパウロとともに、十字架の苦しみに向かおうとしていたわけです。けれども、パウロはそれではこの苦しみには立ち向かえないということを知っていたのでしょう。私たちが苦しみに向かうとき、必要なのは、その先にある勝利をいつも思っていることなのです。

十字架の主を思い起こすのは、過去を振り返ることです。それは、私たちがどこから救われたかを確認するために重要ですが、そこにとどまってしまうと、別の危険があります。主の犠牲への感謝ではなく、申し訳ない気持ちにとらわれて、クリスチャンとしての歩みが罪滅ぼしのような歩みになってしまう危険です。これは主の十字架を尊んでいるようで、全く反対に主の十字架を無駄にする生き方になってしまいます。私たちが歩むように召されているのは償いの道ではなくて、償いが終わったことを感謝して、自分のためではなく、主と主の栄光のため、世界とその救いのために生きることだからです。

主のご真実に支えられた確実性

パウロはもう一つイエス様について言葉を補います。それは「ダビデの子孫として生まれ」ということ。これは何を意味しているかというと、イエス様がぽっと出て来た、思いつきのように現れた救い主ではなくて、旧約聖書で約束され、その実現、成就として来られたということを印象付けています。そこには一千年の時の流れがあります。これが何を意味しているかというと、神様は誠実に、真実に、ご自分の約束を果たされるということです。イエス様が来られたということが、そのように主のご真実に支えられているのだから、私たちの歩みもまた、神様の真実な約束によって支えられ、苦しみの先に勝利が、死の先によみがえりが確実にあるということをパウロは言おうとしています。

死者の中からよみがえられ、ダビデの子孫として生まれたイエスを思っているなら、私たちは、いつでも心強いのです。祈りのたびごとに、みことばを読むごとに、ことあるごとに、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス様を心にしっかり思い描いて、生きておられる主に拠り頼んで歩む。これが私たちキリスト信仰者の生きざまです。

© Masayuki Hara 2017