私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。(九節~十節)
福音ゆえの苦しみ、そこにある意味
キリスト信仰者として、福音のゆえに苦しみに遭うということは、多かれ少なかれ私たちの身近にあるものです。信仰を理解してくれない家族、親戚、軽蔑し侮蔑する友人の心無い言葉に傷つく。私たちの身近にあることです。それはまるで、犯罪者になったかのような扱いを受ける、そんな場合もあるでしょう。そこにどんな意味があるのでしょうか。
パウロは、「犯罪人のように鎖につながれている」とテモテに書き送りました。ただの犯罪人というより、極悪人、十字架に付けられるほどの悪人という言葉が使われています。ということは、ただ鎖に縛られて、自由を失っているというだけでなく、拷問にあい、力をそぎ落とされている、その状況が続いているということを意味しています。痛々しい現実の中で、パウロはこの手紙を書いているわけです。
その痛みの中で、パウロが体験したことは、いかなる状況の中でも「神のことばはつながれない」という事実でした。「神のことばはつながれない」というのは「神のことばがもつ力が失われることがなかった」という意味です。すなわち、神のことばは真実であったということです。パウロはこのことをもちろん信じていました。けれども、鎖につながれ、拷問を受け、死が近づいてくる、そのような状況でもそう言えるのか、体験してみるまでは実感としてはわかりません。けれども、パウロはここで証しするのです。この極限状況でも、神のことばは力を失うことがないぞ、テモテ、みことばはすごいぞ。そう言っているのです。
神さまは私たちに神のことばの力を示したくて、苦しみを与えるわけではありませんが、苦しみのときに私たちは神のことばの力を知るチャンスになることは確かです。そして、苦しみにはもっと積極的な意味があるとパウロは言います。
苦しみは、神の民のつながりの中で分かち合われている
それは「選ばれた人たちのためになる」ということです。「選ばれた人たち」というのは、旧約聖書ではおなじみの「神の民」を意味する言葉。こういう言い方をするのは、教会の中に本当の信仰者もそうでない人も混じっていた現実があったからでしょう。人の目には、教会のメンバーとして映っていても、神様の選びの民ではない偽物もいたのです。「選ばれた人」というのは、本物の信仰者のことだけを指す言葉遣いです。
パウロによると、イエス様は十字架で苦しみを受けられましたが、選ばれた人が苦しむべき苦しみを少し残していかれたのです。これを「キリストの苦しみの欠けたところ(コロサイ一・二四)」と言います。これがどれくらいのものかは、人には隠されていますが、無限ではありません。一定の量が定められている。そうだとすれば、人よりも多く苦しむなら、だれかの苦しみの負担が軽くなることになります。これがパウロを苦しみに耐えさせるモチベーションになっていました。パウロは自分に与えられた信仰の恵み、神の力、これによってより多くの苦しみを耐えることによって、選ばれた人々の苦しみを軽くし、イエス様による救いを受けやすくする、そういうことを考えていたのです。
そうです。福音に生きるとき、世の抵抗にあって、苦しむことは必然です。けれども、神の憐みによって、その苦しみは加減され、私たちは耐えられない苦しみにはあわせられません。そしてもし人より苦しい思いをしていると感じるなら、パウロのように考えたい。どうして自分ばかりではなくて、これによって他の人が楽になる、私はこれに耐えられるだけの恵みを受けられる、そう信じるのです。
キリストにつながるとき、私たちは時代を超えたキリスト信仰者とつながり、喜びも苦しみも分かち合う世界へと移されました。もし、自分に苦しみが少ないなら、どこかで苦しみに耐えてくださった兄弟姉妹がおられて、私を楽にしてくださったと受け止めて感謝しましょう。もし、自分に苦しみが多くきたなら、人のためになるのだと信じて、やはり感謝するのです。一人では苦しみの意味は解けません。けれども、選びの民のつながりの中にあって、意味が見出される、今日はそのことを覚えましょう。
© Masayuki Hara 2017
