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祈祷会メッセージとお祈りの課題

主への捧げ物

感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。(出エジプト35:21)

いよいよ幕屋の建設が始まります。幕屋は先週もみましたように、神様とイスラエルの民が出会う場所です。一般の人は幕屋の建物の中には入れませんでしたが、幕屋はいつもイスラエルの民の中心にあり、捧げものを捧げるときは、この幕屋にやってきました。

そして出エジプト35~36章を見ると、この幕屋の建物自体もイスラエルの民の捧げ物によって作られていることが分かります。この幕屋建設のために、イスラエルの人々は自ら進んで持っているものを捧げました。ある人は、飾り物、ある人は布、ある人は木の板を持ってきました。またベツァルエルとオホリアブという人の名前が出てきますが、この2人を中心に、物を作ることが出来る人は、板を切り出し、機織りをし、刺繍をほどこしました。イスラエルの民から捧げられた材料を幕屋の形に仕上げていったのです。

これらはイスラエルの民の尊い奉仕でした。36:7を見ますと、イスラエルの民は有り余るほど、捧げものを持ってきたと書かれています。モーセがもう十分足りました。捧げ物はもう大丈夫ですと言わなければならないほどでした。昭島教会でも今、たくさん捧げものを頂いて、特に掃除用品や、トイレ用品はたくさんあります。しばらく大丈夫な量がありますね。イスラエルの人々も進んでそれらの捧げものを持ってきたわけです。ここから捧げ物、奉仕について分かることがあります。これらの捧げ物はみな、神様のために持ってきた捧げ物ですが、民のためでもあるということです。先週も見ましたように、神様は人の手によって助けてもらわなければならないようなお方ではありません。イスラエルの民は、そんな神様に「感動して(21節参照)」捧げものをもってきたわけです。そしてそれらの捧げ物は、幕屋というイスラエルの民が礼拝を捧げる場所のために用いられました。ですから、この捧げ物は神様のためであり、民のためでもあります。神様への捧げ物の不思議がここにあります。

幕屋で捧げる神様への捧げ物、いけにえについては、レビ記に詳しく書かれていますが、いくつか種類があり、その中には、イスラエルの民も食べてよいものがあります。神様へ捧げたうえで、それらの一部を民も一緒に食べる捧げ物です。教会の献金や捧げ物もそういった二面性を持っています。捧げ物は全て神様への捧げ物ですが、教会のみなさんのためでもあります。今は代表的な捧げ物の形として、献金というお金を捧げる事になっていますが、昔はお金ではなく、物を持ってきました。特に多かったのが、パンと葡萄酒です。礼拝で必ず使うものだからです。またある人は他の食べ物や衣類、教会の建物を建設するということを通して捧げ物をしました。それらは神様のためですが、教会の皆さんのためでもあります。今でも掃除用品、トイレ用品は教会のため、神様のために進んでささげられたものですが、同時に教会に集ったみんなで使うものです。まあそういう一面を持っているわけですから、教会の物はみんなの物ですから、遠慮せずに使ってほしいですし、同時にみんなの意見を聞きながら使っていく必要がありますね。ともかく献金というのは、礼拝説教を聞くための受講料ではないわけですね。奉献という名前を用いている教会もありますが、一週間守られたことに感動し、感謝して神様のため、教会のために進んでささげる捧げる捧げ物です。今日私たちも神様に感動して、自ら進んで献金と祈りを捧げたいと思います。

お祈りの課題

  • 改修工事のために
  • 体の弱さを覚えておられる方々のために
  • 甲斐先生ご夫妻のために
  • 川越教会のために