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祈祷会メッセージとお祈りの課題

愛を持って勧め合う

私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。IIコリント2:4

コリント人への手紙に入りました。コリント人への手紙を書いたのはパウロです。パウロは第2回目の伝道旅行、使徒の働き18章でコリントに伝道に行きました。そこで多くの人々が信じてバプテスマを受け、教会が建設されたことが記されています。その後、パウロはコリントを離れ、一度エルサレムに戻り、第3回目の伝道旅行に出発します。パウロは3回目の伝道旅行でエペソに行き約2年3ヶ月そこで活動します(使徒19:8, 10参照)。この時にコリント人への手紙第一、第二は執筆されたと考えられています。聖書に収められている手紙は2通だけですが、内容から察すると、パウロは他にもコリントへ手紙を送っていて、訪問もしているようです。今日はIIコリント2章を開きました。

コリント人への手紙は、パウロの手紙の中でも特に厳しい口調で書かれた手紙です。できたばかりのコリント教会は様々な問題に直面しました。それに対処するためにパウロは多少厳しい口調の手紙を送ったようです。コリント教会が直面した問題は、偶像崇拝や、イエス様についての異なった教え、復活の否定等、キリスト教の信仰を根底から覆すような問題であったため、パウロも厳しく対処せざるをえませんでした。私たちはたとえ同じ教会に集い、同じ礼拝に出席していたとしても、みんな同じ考え方をしているわけではありません。賜物が違うように、一人ひとり少しずつ違った考え方をして生きています。それは私たちがそれぞれ異なった環境で育ってきたことから生じているものです。中には自分ではちゃんとした聖書価値観だと思っていても、他の人から見れば聖書的ではないと映る可能性があります。パウロは何が聖書的で、何が聖書的でないか、根本部分をそれぞれ見直すように手紙に書いています。特に重要な偶像崇拝や異なった教え、復活の否定などは、イエス様の救いそのものを否定してしまうことになるので、厳しく対処せざるを得ませんでした。

しかしパウロの目的はコリント教会をつぶしてしまうことではなく、悔い改めて立ち直ってもらうことでした。神様は私たち一人ひとりを愛しています。だからこそイエス様の救いを備えてくださいました。有名な御言葉ですが「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである(ヨハネ3:16)。」とある通りです。パウロも神様の愛によって救われた一人です。神様の豊かな愛を体験した人です。ですからパウロは神様がどんな人をも、コリントの教会の一人ひとりをも、愛しておられることをよく分かっています。パウロは神様と同じように自分もコリントの一人ひとりを愛そうとしていました。一人ひとりを論破して打ち倒すためではなく、真のキリスト信仰に立ち返ってほしいと願ったのです。この後、パウロとコリントの教会がどういう関係になったのか、想像することしかできません。しかし双方が涙ながらに和解したのではないかという事はIIコリントを読むと想像できます。私たちがキリストへの信仰を堅持することは大切なことです。しかし一人で堅持することを神様は望んでおられません。神様は私たちがみんなで互いに励まし合い、ときには勧め合い、涙のうちに和解することを求めておられます。その全ての過程において、神様と同じ愛を持って接していくことが重要です。

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労苦を神と共に

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、
すべてのわざをさばかれるからである。伝道者の書12:13-14

 

祈祷会がお休みの間に伝道者の書の通読が終わってしまいましたので、今日は特別に伝道者の書を開きました。1:1に「エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。」と書かれているので、伝道者の書はソロモンが書いたとされています。ソロモンがイスラエルの王となった時、神様は何でも一つ、ソロモンの願いを聞くと約束しました。ソロモンは自分のことではなく、民の事を考え、民を治めていくためには、知恵が必要だと神様に願いました。神様はソロモンの願いをかなえ、大きな知恵を与えたと聖書に記されています。ソロモンはその知恵を存分に発揮し、箴言と伝道者の書を記したと考えられます。

伝道者の書は1:2-3の有名な言葉「空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」に代表されるように、人の空しさ、小ささを前面に押し出しています。私たちは日ごろ、自分たちの人生を俯瞰で見るということはあまりしないかもしれません。毎日そんなことをしていたら、それはに「地に足のついていない生き方」となり、生活すること自体が困難になります。しかし時には自分の人生を俯瞰で見ることは大事なことです。人生の目標を見つめて生活するのと、全く目標を定めずに生活することは大きな差になります。箴言はどちらかと言えば、生活する上での具体的な指導ですが、伝道者の書は人生を俯瞰してみて、人生の目標をどこに置くのか考えさせる書となっていると言えるかもしれません。

人生を俯瞰してみた時、伝道者は一つの事実に目を向けます。「すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも…来る(9:2)。」善人にも悪人にも同じように良いことも、悪いことも起こり得るということです。それだったら自分の好き勝手に生きた方が得ではないか。悪いことをいくらでもしようではないかと考えるかもしれません。ソロモンもそう見ていたようです。「そのうえ、人の子らの心に悪が満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところにいくということだ(9:3)。」そのような人生が本当に得でしょうか?

「しかし、人には拠り所がある(9:4)」とソロモンは考えます。神様は人が空しい、小さい生き物だと知っておられますが、人の一日一日の労苦の業を祝福しておられるということです。私たちの一つ一つの仕事に、私たちの目から見てそれが大きい仕事であろうと、そうでない仕事であろうと、神様は祝福しておられます。私たちの労苦を全てご覧になり、共に働き、実りを与えて下さるお方です。だから私たちは神様と一日一日の労苦を共に過ごすことが人にとっての全てであるとソロモンは結論します。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。 神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである(12:13)。」私たちはこの地上での働きの成果を、死後の世界に何一つ持っていくことはできません。そういう意味で私たちの労苦はとても空しいです。しかしその労苦一つ一つが神様と共に過ごしたものであれば、神様との関係は死後の世界に希望を与える持つ唯一のものとなります。この地上での小さな営みを神様との関係の内に、過ごしていきたいと思います。

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他人は救ったが、自分は救えない

同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを嘲って言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。
マルコ15:31-32

マルコの福音書も終わりに近づきました。イエス様が十字架にかけられる場面が描かれています。イエス様には何の罪もありませんでしたが、私たちすべての人のために十字架にかかり、代わりに刑罰を受けてくださいました。救い主イエス様はそのためにこそ、地上に来られたのです。イエス様の十字架と復活は一番大事なことですので、4つのすべての福音書にその出来事が記されています。

イエス様が十字架に架けられている時、ほとんどの人はイエス様の救いの意味を理解していませんでした。弟子たちを含めすべての人が理解していなかったと言ってもいいかもしれません。多くの群衆が、十字架上のイエス様を見て、自分と関係があるとは露ほども知らずにののしり、あざけりました。その一つとしてマルコの福音書は祭司長、律法学者の言葉を記しています。彼らはイエス様が救い主、神の子、イスラエルの王であるという噂を聞いていました。イエス様は数多くの奇跡を起こして、たくさんの人を癒し、救ったと聞いていました。しかしそのことを認めず、むしろ自分を神だというイエスは死罪にあたると考えていたのです。しかしもし今、イエス様が十字架から降りることが出来たら、それを信じると言っています。救い主であれば、神の子であれば十字架から降りる、そして何事も無かったかのように、傷一つ負っていないという奇跡を起こせるはずだと考えていました。たくさんの人を救ったというのだから、自分一人を救う位わけないだろうという考えです。

しかし、この祭司長、律法学者の言葉はとてもナンセンスです。「救い主」という存在をまるで理解していない言葉です。嘲る言葉ですから、わざとナンセンスにしたのかもしれませんが。確かにイエス様は神様ですので、やろうと思えば十字架からすぐに降りることができます。しかしそれはできません。なぜなら今、イエス様が十字架に架かって刑罰を受けているのは、自分のためではなく、他の人のためだからです。そして十字架にかかるためにこそ、イエス様は地上に来られたからです。もし今、イエス様が神の力を使って十字架から降りてしまったら「自分は救えるが、他人は救えない」ことになってしまいます。それはもはや「救い主」ではありません。

イエス様は「救い主」だからこそ十字架から降りないのです。他の人を救うために自分を犠牲にしているからです。他の人を救うためには自己犠牲の愛を持っていなければなりません。「他人は救ったが、自分は救えない」のではなく、「他人を救うために、自分を救わない」のです。祭司長、律法学者の論理は一見正しいように見えますが、自己中心の愛の論理です。神様の愛を正しく捉えていません。神様の愛は自己中心ではなく、自己犠牲の愛です。私たちはイエス様を救い主として信じ、その愛を受けています。感謝して神様の愛を受け取りたいと思います。そして私たちも自己中心からきよめられ、少しでも自己犠牲の愛を持つものへと変えられ続けたいと思います。

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「ワラをも」ではなく「イエス様だけ」にすがる

「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
マルコ5:28

通読は、新約聖書マルコの福音書になりました。福音書の中で最も短く簡潔にイエス様の福音が語られている書物です。毎章、たくさんのメッセージが詰まっていると思います。日々、神様の恵みをじっくりと味わっていきたいと思います。

5章は、イエス様がガリラヤ湖畔の町々で行われた奇跡が描かれています。イエス様は数多くの奇跡を起こされ、人々を助けました。本当に困窮していて、もはや誰も助けることができないような人々に癒しを与えてきたのです。イエス様の名前はガリラヤ地方で広く知れ渡っていきました。だんだんとイエス様の周りには人だかりができるようになりました。イエス様は主にカペナウムを拠点に活動していたようです。5章の前半では、湖を渡ってゲラサ人の地に行きましたが、5:21でもう一度湖を渡って自分の町に戻ってきました(マタイ9:1参照)。すでにイエス様の名前は広まっていて、たくさんの人がイエス様の周りに集まってきました。会堂司(新改訳第三版では会堂管理者)のヤイロがイエス様の許に来て、娘を助けてほしいと願います。同じ時、12年の間、長血を患っていた女性がイエス様の力で治してもらいたいと近づいてきました。本当にたくさんの人がイエス様の癒しを求めていた様子を福音書は緊張感を持って伝えています。

長血を患っていた女性は、イエス様の「衣にでも触れれば、私は救われる(5:28)」と考えていました。この女性はたくさんの医者に診てもらいましたが、逆にひどい目にあわされ、病気は治らず、持っている物全てを使い果たしてしまったと書かれています(5:26)。おそらくとても難しい病気であったのでしょう。医者も診てすぐに「これは難しい」と思ったに違いありません。現代ならば、お医者さんは患者さんに全てを説明する義務がありますので、ちゃんとしたお医者さんであれば、治せないのであれば治せないと言うと思います。しかし、当時は恐らく悪い医者もたくさんいたのでしょう。治せないのに「治せる」と言ってお金をだまし取っていたと思われます。彼女からすれば「ワラをもすがる思い」でたくさんの医者に診てもらったはずですが、とんでもない目にあわされてしまいました。

彼女は「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と考えていました。「思っていた(5:28)」の欄外注を見ると、直訳は「言っていた」であると書いてあります。自分に言い聞かせるようにして、それだけを考えて、イエス様に近づいたのだと思います。彼女は多くの医者に騙され、人間不信になってもおかしくないような状況でした。「どうせあなたも治せないかも。でも試しにやってみて。」という気持ちでイエス様に近づく可能性もありました。しかし彼女はそうではなく、自分に「イエス様なら!」「イエス様なら!」と強く言い聞かせながら近づいたのだと思います。彼女は今まで半信半疑で「ワラをも」すがる思いで多くの医者にあたりました。しかし今はそれをやめて「イエス様にだけ」すがることにしたのだと思います。私たちも「イエス様にだけ」すがりたいと思います。他の何かとイエス様の力を並べて考えるのではなく、イエス様こそが最も力のあるお方と信じたいと思います。イエス様の力だけを信じて、今日も祈ってまいりましょう。

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知恵を頂き、誠実に生きる

力と気品をまとい、ほほえみながら後の日を待つ。知恵をもって口を 開き、その舌には恵みのおしえがある。
箴言31:25-26

箴言の最後の章になりました。この章は、31:1によれば、マサの王レムエルのために、母親が語った知恵の言葉となっています。31:10から31:31までは日本語ではよく分かりませんが、ヘブル語では一纏まりの詩になっているようです。ヘブル語には22のアルファベットがあります。31:10~31は、それぞれの節の始まりの文字が1節はアレフ、2節はベイト…31節はタブ、というようにアルファベット順に並んでいます。この詩の部分を31:1-9の内容と区別することもできますが、31:3には「あなたの力を、女たちに費やしてはいけない。」とありますから、内容的に関連していると見ても良いと思います。

31:1によれば、レムエルは王でした。王は国の規模にもよりますが、平民に比べれば多くの資産を持っています。その資産をどのように使うかは王の気品と賢さによります。自分勝手に浪費すれば、たとえ王であっても破産するでしょう。王が破産すれば、国は平和ではなくなり、国民も苦しくなり、ついには滅びます。この箴言は王の母が、これから王が国の将来を担うためにどうしたらよいのか、熱心に教えている知恵の言葉なのです。横暴にふるまうのではなく、富は貧しい者に分配し、誰かが訴えれば、公正な裁判を開き、さばきを行うことを勧めています。これらの言葉は、王という職業の者へ向けられた知恵の言葉ですが、王ではない人も聞くべき言葉になっています。私たちは王ほどの資産は無いかもしれません。しかしその富をどのように用いているでしょうか。あるいはアルコールに関して、節度をわきまえているでしょうか。王ではなくても、この知恵の言葉は考えさせられます。

その中でも箴言31章は、妻に関する言葉が大半を占めていますので、王に対して、異性に対しての強い勧めがなされていることが分かります。31:10-31は、しっかりした妻とはどういう人だろう?と歌っています。これらの言葉は、31:3の言葉と関連していると考えれば、まず第一義的に「世の中全般の奥様方はこのようになりなさい」という教えではありません。第一義的には「王はこのような妻をめとりなさい」という意味です。男性が失敗しやすい欲は、お金、名声、女性だと言います。王はその全てを欲しいままにできる立場にありました。女性癖の悪い王は人類の歴史でたくさんいたことでしょう。王の母は、レムエルに対してそうなってはいけない。31:30にあるように見せかけの美しさであらゆる女性に手を出すのではなく、ちゃんと一人のしっかりとした妻をめとり、生涯その妻だけを愛し、誠実に生きるようにと教えているのです。つまりこの31:10-31は、まず第一に男性に向けての勧めであると言えます。そして意味を広げて解釈すれば、すべての人にあてはまる教えとなるでしょう。男性であれ、女性であれ、生涯一人の伴侶だけを愛し、誠実に生きるように勧めています。そのような人は自ずと周囲からも理解され、平和に暮らすことができます。これらの言葉は、私たちにはとてもハードルが高いように見えます。しかしその時こそ、箴言全体を貫いているテーマを思い出したいと思います。知恵は神様から与えられるものです。へりくだって神様を信じ、力と気品と知恵を頂きながら、歩みたいと思います。

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