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祈祷会メッセージとお祈りの課題

分け合う心

心のきよさを愛し、優しく話をする者は、王がその友となる。
箴言22:11

箴言を続けて読んでいます。ソロモンの言葉が続いています。22:17から「知恵のある者たちのことばを聞け。」と始まり、その手前までがソロモンの言葉となっているように見えます。ソロモンはイスラエルの3代目の王様です。イスラエルの国はソロモンの治世に最も栄えました。ソロモンは神様から知恵を与えられ、その賢さは世界中に知れ渡っていたと聖書に記されています。ソロモンはその知恵の言葉をたくさん書き残しました。ソロモンは王と言う立場だったので、王としての視点からのアドバイスなども見受けられます。

またソロモンは、イスラエルの王たちの中でも、際立って多くの富を持っていました。富についての記述も多く見られます。22:2~22:16にも「富む者」と「貧しい者」について述べられています。興味深いことに22:2は「富む者と貧しい者が出会う。どちらもみな、造られたのは主である。」と述べています。まるで人間は生まれる前から神様によって、この人は富む者となる、別のこの人は貧しい者となると決められているかのようです。これは私たちからすれば納得できないような言葉に聞こえます。誰だって富む者になりたいからです。22:7にあるように、この世の中においての悲しい現実は「富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる」からです。このように感じるのは、私たちがお金こそが、最も大切なものと認識しているからです。しかし神様は別の見方をしています。神様はお金が最も大切とは考えていません。資本主義の私たちとしては神様の考え方を理解するのは苦労します。

22:4で神様はお金よりも大事な基準を一つ提示しています。「へりくだりと、主を恐れることの報いは、富と誉といのち。」神様を恐れることを富よりも上に置いているのです。お金よりも神様の方が大事と言う考えは聖書のいたるところにあふれています。しかしそれを本当に心の底から納得して生活するのは、なかなか難しいです。私たちは資本主義に染まり切っていますし、日常生活はそのように回っているからです。しかし日常生活はうまく回しつつも、心はいつも神様に向いて、へりくだって、誠実に、誰にでも優しく歩まなければなりません。なぜなら私たちの富は全て神様からのものだからです。もし私たちが今、生活に困らないだけの富があるとすれば、それは神様からの祝福です。そしてもし、私たちが困窮しているなら、あるいは困窮している人が周りにいるなら、それも神様からの恵みの機会となり得るのです。

17:1には「乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」とありました。どんなに貧しくても乾いたパン一切れを平和に分け合う方が大きな祝福です。私たちは富が大事だと考えます。富が無ければ分け合えないと考えます。しかし神様はそうは考えません。私たちの心に神を恐れ、分け合う心があることが先だと考えます。その心が無ければどんなに富があっても、分け合う事は無く争うことしかしないからです。私たちの心はどうでしょうか?22:11に書かれているように「きよさを愛し」ているでしょうか?分け合う心を頂けるように、神様に祈り求めたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 4-5月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 宣教礼拝(野尻師ご夫妻)、宣教祈祷会(新生宣教団)のために
  • 宣教地のために
  • みずほ台教会のために
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梅ジュース

今月初めに収穫した梅の実の続報です。

ジュースが完成しました。

7月1日と、8日の礼拝後に出す予定です。

昭島教会の花壇で取れた天然ものです。

農薬、添加物一切入っていません。

無くなり次第終了ですので、お早めに。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様の知恵は魂を飾る

わが子よ。父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭に戴く麗しい花の冠。首にかける飾りだから。
箴言1:8-9

旧約聖書箴言に入りました。箴言は、1:1に「ダビデの子ソロモンの箴言」とあり、途中からは他の「知恵ある者たち(22:17)」や「アグル(30:1)」、「レムエル(31:1)」などの名前が出てくることから、ソロモンの言葉を中心にまとめられたいろいろな知恵の言葉であると思われます。独特な詩的な表現が多く、1節、1節がとても奥深く味わい深い書物です。

初めの5-6章は、知恵を得ることの勧めが記されています。1:8に「父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。」と書かれています。父、母という言葉が出てきます。私たちは生まれた時は、何も持たずに、何も知らずに生まれてきます。両親から、そして多くの先輩たちから生きるための知恵を教わりながら成長します。それらの教えは時に、私たちに重くのしかかります。良い知恵は私たちの自己中心さ、弱さをあらわにするからです。そんな時、私たちは「父の言う通りにしたくない」「母の言ことなど聞きたくない」と考えてしまいます。しかし聖書は、両親の教え、その他、人生の先輩方の教えを捨てず、従うように教えています。沖縄の民謡に「てぃんさぐぬ花」という歌があります。1番は下のような歌詞です。

てぃんさぐぬ花や
爪先(ちみさち)に染すみてぃ
親(うや)ぬゆしぐとぅや
肝(ちむ)に染みり

「ホウセンカの花は爪先に染めて 親の教えは心に染み渡る(Wikipedia訳)」という意味だそうです。沖縄ではホウセンカの花から取った染料をマニキュアのように使います。マニキュアは爪先を飾るものですが、親の教えは心に染み込ませなさい。それは魂を飾るものとなるという事を教えています。箴言1:9も知恵は「あなたの頭に戴く麗しい花の冠。首にかける飾り」と言っています。

聖書が教える知恵とは、神様の知恵の事です。神様は全ての人の父です。箴言1:8が言う「父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。」とは自分の親の言う事を聞きなさいと言う意味です。それは私たちの創り主である神様も含まれます。神様の知恵こそ最高の知恵です。箴言1:7は「主を恐れることは知恵の初め。」と言っています。「主が知恵を与え、御口から知識と英知が出るからだ(箴言2:6)」と言っています。まことの神様を知ること、私たちの創造主を知ることが知恵の第一歩です。この世界、そして私たちの全てを壮大に、細かく造り、整え、治めておられる神様に聞き従う事こそ、私たちの生きる知恵です。私たちは日々、聖書を読むことで神様の知恵を頂くことができます。聖書には神様の知恵がたくさん書かれています。それらは私たちを時に優しく教え、ときには厳しく教えます。その教えを私たちは日々感謝して受け取り、捨てないようにしたいと思います。神様の知恵は私たちの魂と心を整え、キレイに飾ってくれる花の冠のようなものです。神様の知恵を日々蓄え、身も心も美しくして頂けたら幸いです。

箴言は神様がソロモンや他の知恵ある者たちを通して語られた知恵の言葉です。これから子の箴言を通して神様の知恵を日々頂いていきましょう。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 4-5月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 会堂椅子補修、宣教礼拝のために
  • 川越教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

心を神様に変えて頂く

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ローマ12:2

ローマ人への手紙を続けて読んでいます。前回、7章では自分の心を顧み、罪と向き合う事をパウロは勧めていました。イエス様は、私たちの罪のために十字架で贖いをなしてくださいました。私たちは自分の罪と向き合うことで、その御業の大きさを改めて実感することができます。自分はたいして悪い人間では無いと思っていれば、イエス様の贖いに興味を示すことはないかもしれません。しかし自分の罪深さを自覚している人は、イエス様の贖いを本当に感謝して受け止めることができます。

自分の罪、弱さと向き合うことは、良いこと、正しいことは何かを考えることでもあります。良いことの裏返しに、自分の罪深さがあるからです。そして自分の罪の故に、その良いことに達することができないと言う限界を知ることになります。そのような時にこそ、私たちは神様に目を留めたいと思います。神様は私たちを罰し、滅びに招くために罪と向き合わせるのではありません。私たちの罪を赦し、解決し、良い方向へと導くために罪と向き合わせるのです。より良いこととは神様のうちにあります。そして私たちがより良いことに向かうためには神様の力が必要です。

パウロは言います「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。」キリスト教会でよく使われる「悔い改め」という言葉は、「悔いる」という言葉と、「改める」という言葉の合成語です。私たちは自分の罪深さを悔います。そして自分では良いことに達することができないと自覚します。それでも「救われたい」と願うのであれば、神様の力によって変えて頂きたいと心を改めるのです。パウロがこれまで手紙の中で、律法について述べてきました。私たち人間は、正しいこと、良いことが何かしっかりと見極めることができません。神様から律法が与えられた時、良いことと悪いことの区別ができるようになりました。そして良い方向へ進みたいと願ったのです。それならば私たちは良いことと示して下さる神様の御手に私たち自身を委ねるようにしたいと思います。自分では良いこと、悪いことの区別ができないですし、自分の力で良い方向へ向かう事もできません。今までは何事も自分の力で解決しようとしてきたかもしれませんが、これからは神様の力で変えて頂こうと、心を改めるのです。

神様から変えて頂くということは、私たちにとっては大きなチャレンジかもしれません。自分の思うように変えるのではないからです。ローマ12章以降にはたくさんの良いことが書かれています。中には実行が難しいと感じることもあるかもしれません。いっぺんに全ては変わらないかもしれません。しかし神様に信頼したいと思います。神様は私たちの事を何よりもよくご存じです。そして私たちに聖く、正しくあって欲しいと願っておられます。神様の思いを受け止めて、日々教えられながら、悔い改め、変えて頂く生活を続けていきたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集われている方々、ご家族のために
  • 4-5月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 教会運営会議、家族セミナー、椅子改修作業のために
  • 甲斐師CGNTV撮影のために
  • 守谷教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

自らの心を顧みる

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。
ローマ7:14

ローマ人への手紙を続けて読んでいます。パウロはこれまで律法による義と信仰による義について話を進めてきました。私たちはユダヤ人ではないので「神様から与えられた律法を持っている」ということがどういうことなのか、今一つ実感として湧きません。パウロがローマ人への手紙で語っていることはとても難しい事のように感じてしまいます。パウロが7章で説き明かそうとしているのは、「律法が正しいから人は正しくいられる」とか、「人の生活が悪いのは律法が間違っているから」ということではないということです。また「信仰によって救われるなら律法は要らない」と言おうとしているのでもありません。そのような観点の議論ではなく、「律法は良い物、聖なる物だが、人は罪深い」ということを示そうとしているのです。

例えば、私たちは今、民主主義の社会で生きています。民主主義の社会では、みんなで考えてより良い法律を作ります。より良い法律をつくればより良い社会になると信じているからです。しかしより良い法律があるから即、より良い社会になるでしょうか?あるいは社会がなかなか良くならないは、法律が悪いからでしょうか?そのような議論は一つ、決定的に見落としている部分があるのではないか?とパウロは言います。どんな法律があろうとも、人の心に罪(悪)がある限り、社会は良くならないのです。人の心の罪は、たとえどんなに良い法律であったとしても、抜け道を探って、自分だけ得をしようとするからです。たとえ律法が神から与えられた聖なる物であったとしてもです。

パウロは自らの心も省みて嘆いています。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています(7:19)。」「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか(7:24)。」私たちは良い法律、律法を見れば、それが良い物であると心の底から賛同します。そしてそのように生きたいと願います。しかし同時に私たちの心のうちには、その法律、律法を守りつつも、他の人よりも得したい、あるいは法律、律法に書かれていないことならやっても悪くないと考える心があります。聖書でいう罪とは過去の過ちのこともそうですが、むしろ自己中心的な考え方、心の在り方です。ですからそのような心を持ち続ける限り、私たちの間に平和はありません。常に騙し合いの社会になるからです。そしてその心は神様に対しても、ある程度の悪さは出し抜けるのではないかと考えるようになります。パウロは。この罪の心が解決されない限り、本当に惨めだと言っているのです。

イエス様はこの罪の心を解決するために十字架に架かって下さいました。続くローマ8章以降に詳しく書かれています。イエス様は私たちの罪の心を十字架の上で処罰し、代わりに神の聖霊、御霊を与えてくださいます。御霊は常に私たちと共にいて、何が良い事で、何が悪い事か語りかけてくださいます。8:4にあるように御霊に従って歩むなら私たちは、良い物である律法、私たちも良いと認めている律法を十分に全うして生活できます。良い法律があるか無いかが問題ではありません。問題は私たちが自分の罪の心を自覚し、神様の解決を求めているかどうかです。私たちは今一度、自分の心を顧みて、神様の解決を求めて生きたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
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  • 南平教会のために