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祈祷会メッセージとお祈りの課題

万物の源なるキリスト

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロサイ3:1

 

今日は順番にいくと通読箇所は詩篇になるのですが、コロサイを開く機会がなかったので、コロサイを開きます。コロサイ人への手紙は手紙の中でも何度か、パウロが語っていますが、パウロがローマで軟禁状態であった時に書かれた手紙です。1:7-8によるとエパフラスという人がコロサイの教会の様子をパウロに知らせました。この時、何らかの贈り物を持って行ったのかもしれません。パウロはそれに感謝しつつ、返信する形でこの手紙を書きました。コロサイ教会の様子を知らせてくれたのはエパフラスでしたが、この手紙をコロサイに持って行ったのは4:8-9によるとティキコとオネシモのようです。余談ですが、オネシモはピレモンの手紙にも登場し、そちらでは渦中の人物です。おそらく、ピレモンの手紙と同時期に書かれ、オネシモはコロサイ教会を訪ねた後、ピレモンのもとへ帰る予定だったのかもしれません。

コロサイ人への手紙はキリストが万物の支配者であるという宣言から始まるスケールの大きな内容の手紙です。コリント人への手紙などを見ますと、当時からキリストの教えと、世の中一般の哲学との間で揺れ動く人々がたくさんいたようです。パウロが哲学の全てがキリストの教えに反しているとは言いません。実際、パウロの手紙の多くは、修辞学という当時の弁論学的な記述の仕方で書かれているようです。当時用いられていた哲学の一つ、より良く自分の意見を人に伝えるための技術をパウロは用いていました。パウロは、私たちが何を基盤として生きるのかをこの手紙の中で教えています。学問は、人間の知恵を集めたものです。学問は世界の仕組みを解明し、生活をしていく上で、より良い方法を提示してくれます。しかし世界は学問によって支えられているのではありません。世界の仕組みはすでに出来上がっていて、学問はあくまでその完成されている仕組みを理解しようとする試みでしかないのです。そしてパウロは、世界(万物)の仕組みを完成させ、今も成り立たせているのはキリストであると断言します。ですから私たちは学問とキリストを比べるようなことはしません。本来、比べられるものではないからです。キリストを全ての土台として据え、その上に私たちは自分の生活と、学問を置きます。キリストと学問は別次元の物なのです。

私たちを救って下さったのは学問ではなく、キリストであるとパウロは言います。ですから私たちはキリストを求めます。キリストの内に全てがあるからです。生活をしているとこういう時はどうすればいいだろうと悩むこともよくあります。学問や知恵に頼ろうと思うと、アドバイスがありすぎて混乱することもあります。また全くアドバイスが無い時もあります。最終的な判断を学問に頼ろうとすると、とても難しいです。しかし私たちはキリストにあって生かされているのですから、最終的な判断はキリストにあって判断したいと思います。「イエス様ならこんな時、どうするであろうか。」ということをいつも求めながら、一つひとつのことにあたっていきたいと思います。

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赦しを請う

主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ。
哀歌5:21-22

 

哀歌に入りました。哀歌は「エレミヤ哀歌」とも呼ばれます。70人訳聖書には、バビロニアによってエルサレムが陥落し、バビロン捕囚が始まった時に、エレミヤがこの哀歌を歌ったというような説明が書かれているからです。旧約聖書でもエレミヤ書の次に哀歌が並んでいますが、歴史の順番から言っても、この順番が良い位置なのかもしれません。エレミヤは南ユダ王国で活動した預言者です。神様がバビロン捕囚を計画されている事を人々に告げ知らせました。ユダヤ人たちは真の神様に仕えることを止め、他の神々や、諸外国の力を頼るようになりました。その結果、神様はバビロン捕囚を決めたのです。しかし人々は、エレミヤの言うことを信じず、他の預言者たちはエレミヤと逆のことを語りました。最終的にはエレミヤの言葉の方が正しく、エルサレムの町は攻め落とされ、徹底的に破壊されました。崩れ行く町を見て、苦しみ殺されていく人々を見て、エレミヤは嘆いています。自分の方が正しかったからと言って勝ち誇ることは出来ません。苦悩の言葉を語り、迫害を受け、自身の言葉の通りになって、また苦悩しているエレミヤの様子が伝わってきます。

エレミヤはこのような悲惨な結果になったのは、自分たちの罪のゆえであると、ユダヤの人々を代表して嘆きます。1:18にあるように「主は正しい方である。しかし、私は主の命令に逆らった」のです。神様はユダヤの人々との契約を守り、祝福を与えていました。しかしユダヤの人々は契約を破り、神様を捨てて罪をおかしたのです。そして今、エレミヤは神様に伺いを立てています。神様の前に自分たちの罪を悔い、赦しを求めています。そして可能であれば、もう一度神様の民として、神様と共に歩む事が出来ませんでしょうかと伺っています。「主よ、あなたのみもとに帰らせてください。そうすれば、私たちは帰ります。昔のように、私たちの日々を新しくしてください。あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ(哀歌5:21-22)」ここには、人の罪と神様の赦しの本質が描かれているように思います。罪をおかしたのは人間です。ですから赦す、赦さないは、人間の自由にはできません。赦されなかったとしても、文句は言えないのです。キリスト教会では、「罪を告白すれば赦されます」と教えますが、それは自動販売機にお金を入れればジュースが買えるというようなものではないのです。赦す、赦さないは、人が罪を告白したかどうかにかかっているのではなく、神様の判断なのです。ですからエレミヤは「あなたが本当に、私たちを退け、極みまで私たちを怒っておられるのでなければ」お赦し下さいと語ります。

ユダヤの人々は何十年にも渡って神様を拒み続けました。私たちも自分の罪を振り返ると、決して赦して頂けないのではないかと思います。しかし「主は あわれみ深く 情け深い。怒るのに遅く 恵み豊かである。主は いつまでも争ってはおられない。とこしえに 怒ってはおられない(詩篇103:8-9)」お方ですから、感謝します。神様の恵みのゆえに、赦されて、新しい日々を歩めていることを感謝します。

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キリストにすべてを知って頂く

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
ピリピ4:6

 

ピリピ人への手紙を開きました。ピリピ人への手紙は、パウロがピリピ教会に宛てて書いた手紙です。パウロは晩年、ローマで軟禁生活状態にありました。その頃、ピリピ教会は、エパフロディトという人に贈り物を託し、パウロに届けたようです(4:18参照)。この手紙はエパフロディトがピリピ教会に戻る際に、パウロが感謝の気持ちと共に書き記したものです。新約聖書にあるパウロの手紙は、厳しい口調の者が多いですが、このピリピ人への手紙は、割と穏やかな口調の、感謝の手紙となっています。

パウロは、当時、投獄され、軟禁生活をしていました。ですから、満ち足りた生活を送っていたのではありません。また自分の死が近いことをなんとなく悟っていました。死を前にしてパウロは、改めてクリスチャンの持つ希望について考えています。パウロにとって「生きることはキリスト、死ぬことは益です(1:21)」と語ります。死は人を絶望に追いやるものです。なすすべなく、後戻りもできず、あっという間にすべてを奪われるもの、それが死に対する人間の印象です。恐怖を覚えます。しかしパウロは、キリストに出会ってすべてが変えられました。すべてが変えられたという事は、生きる意味も、死ぬ意味も変わったという事です。パウロはこの地上生涯を終えたら、絶望なのではなく、キリストと共に永遠のいのちを生きることができると実感していました。早くキリストの許へ行きたいと思う程で、死というのはその通過点にすぎません。しかしこの地上生涯を長く続けられるのであれば、その分、多くの人に同じキリストという希望を教えことができるので、それも良いことだと思っていました。パウロは生きることも、死ぬことも、どちらもキリストに委ねてしまっています。自分では選べないし、選ばない。キリストが良きに計らってくださると信じているから希望なのです。

ですからパウロは言います。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」確かに地上生涯には困難もあり、辛いこともあります。何がおこるか予測できません。しかしキリストは全てご存知で、全てを導いて下さいます。だから私たちは自分の気持ちを素直に、キリストに祈り伝え、後はお委ねして任せましょうとパウロは言います。良いことも、悪いことも、願いも、愚痴も、何でも話し、後は神様の導きに期待しましょうと言います。「そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます(4:7)」パウロへ贈り物を届けたエパフロディトは、パウロの所に到着後、どうやら大きな病気にかかったようです。もしかしたらそのまま死んでしまうかもしれない程でした(2:25-30参照)。その知らせを聞いて、ピリピ教会の人々は心配しました。パウロも文字通り思い煩ったのだと思います。しかし、神様は悲しみに悲しみを増させまいと、エパフロディトを回復させてくださいました。神様の導きは私たちの幸せをねがってのものです。死も生も、私たちのためのものです。パウロはこの経験から実感をもってこの御言葉を語っていると思います。私たちも、何事もまず神様にすべてを祈り伝え、委ねて、思い煩わないようにしたいと思います。

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平安を語る預言者

わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
エレミヤ29:11

 

エレミヤ書には、エレミヤ以外の預言者の言葉が多く登場します。多くの場合、それらの預言者は神様の言葉をまっすぐに語らない偽預言者として登場します。神様はそのような預言者たちは自分が遣わしたのではないとまで仰っています。エレミヤ書は偽預言者の言葉と、真の神様の言葉が錯綜するので、読んでいる私たちは混乱します。おそらく当時のユダヤの人々も混乱したことでしょう。誰の言葉を信じればいいのか分からなくなってしまいます。

神様は23:16でこう仰っています。

万軍の主はこう言われる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは主の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。彼らは、わたしを侮る者に向かって、『主はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言い、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」

偽預言者たちは神様の言葉ではない平安を語っていました。実際は平和ではないし、神様の計画ではバビロン捕囚が確定していたのですが、「神様はあなたに平安を与えられる」と言っていました。誰でも戦争よりは平和の方が安心します。偽預言者たちは真の神様の言葉に聞くのではなく、人間の欲求に従って語っていました。しかし神様の本当の計画は別にあったのです。

エレミヤはそのような預言者たちに対して28:9のように述べます。「平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」預言者の言葉の通りになれば、その預言者は確かに神様から遣わされた預言者であると述べています。実際にはバビロン捕囚が行われ、多くのユダヤ人たちは平安ではなく、戦争で苦しむことになります。平安を語っていた預言者たちは偽預言者だったということになります。エレミヤの言うことは確かに辻褄が合っています。しかし私たちは事が起こってから判断するのでは、遅すぎるのではないかと感じます。

エレミヤは29章でバビロン捕囚に連れていかれた民に手紙を送りました。29:11はその手紙の中の一節です。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている──主のことば──。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」神様は、「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている」と仰います。しかし神様の計画は、偽預言者も多く、正確には私たちに伝わらないかもしれません。私たちがすべきことは計画の全容を知る事ではありません。計画を立てておられる主に信頼することです。例え計画の全容が分からなくとも、分からないなりに神様に祈り、後のことを委ねることです。極端な話ですが、もし私たちが神様の計画の全てを把握できたら、信仰は要らないことになります。信じても信じなくても、そうなるからです。私たちが信じる対象は、神様の計画ではなく、神様ご自身です。今日も神様を信じて、お祈りしましょう。

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厳粛な神様の言葉

そこであなたは、同行の人たちの目の前でその瓶を砕いて、彼らに言え。『万軍の主はこう言われる。陶器師の器が砕かれると、二度と直すことはできない。このように、わたしはこの民と、この都を砕く。人々はトフェトに空き地がないまでに葬る。
エレミヤ19:10-11

 

預言者エレミヤが活動した時代は南ユダ王国の末期です。神様は南ユダ王国をバビロニアの手に渡すことを固く決めておられ、それが起こるのが目前に迫っていました。エレミヤは「ユダの人々をバビロニアの手に渡す」という神様の言葉をストレートに語らなければならなかったので、多くの同胞のユダヤ人から嫌われ、迫害を受けました。20:2には祭司パシュフルに捕らえられ、打たれたことが記されています。エレミヤは神様の言葉を正確に伝えるという正しいことを行っているにも関わらず、悪者のように刑罰を受けていました。20章にはそのエレミヤの悲痛な叫びが記されています。20:14以降には「私の生まれた日は、呪われよ」という自分は生まれなければ良かったのではないかという言葉が記されています。尋常でい困難を受けたヨブも3章で同じようなことを語っています。もしかしたらエレミヤはヨブに自分を重ねていたのかもしれません。

南ユダの王はヨシヤ王の後、目まぐるしく入れ替わります。エホアハズ(シャルム22:11)が3ヶ月、エホヤキム(22:18)が11年、エホヤキン(エコンヤ22:24)が3ヶ月と10日、ゼデキヤが11年で南ユダ王国は陥落します。神様はこのようにして南ユダ王国を破壊することを決めていました。神様はそれを示すためにエレミヤに町の門のところで、焼き物の瓶を砕いて示すように言います。焼き物の瓶は一度壊れると、元には戻りません。パズルのピースのように元の形に復元できても、穴はふさげないので前のようには使えません。この砕けた瓶を通して、神様は南ユダ王国に対する裁きの確実性と恐ろしさを示しています。

しかし神様は神様が選んだイスラエルの民を完全に滅ぼしてしまおうとはされませんでした。一つ前の章の18章では、神様はエレミヤを陶器師が粘土を使って器を制作しているところを連れて行かれます。陶器師は一度器の形を仕上げますが、気に入らなかったのか、もう一度粘土を練り直して器を作り直しました。神様はエレミヤに言います。「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか(18:6)」神様は南ユダ王国を破壊することを決めていましたが、それはもう一度、イスラエルの人々を練り直すためでした。バビロニアがユダの人々を捕囚の民として連れて行くことも、神様の計画のうちに含まれているのです。22章には、シャルム、エホヤキム、エコンヤの王たちに災いが預言されています。どれも悲しい預言です。しかしエコンヤに対する預言には、バビロンの王ネブカドネツァルがエコンヤをバビロンに連れて行くことが書かれています。エコンヤはエルサレムに帰ることは出来ませんが、その地で生き延び、彼らの子孫は再びエルサレムに帰ることになります。そしてもはやイスラエル王国としての王座につくことはありませんが、ダビデの血筋は絶たれず、その子孫としてイエス・キリストが生まれることになります。この時すでに神様はそこまで計画をなさっているのです。神様の言葉はどのような言葉であっても、必ず語られた通りになります。人間はその計画の全てを見通すことは出来ません。しかし神様が私たちに対する愛をもって計画を立てておられることを信じたいと思います。

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