これまでを振り返っての感謝

彼らはエルサレムの城壁の奉献式のときに、レビ人を、彼らのいるすべての所から捜し出してエルサレムに来させ、シンバルと十弦の琴と立琴に合わせて、感謝の歌を歌いながら喜んで、奉献式を行なおうとした。
ネヘミヤ12:27

城壁が完成しました。6:15には52日かかったことが記されています。完成までの間、様々な妨害があり、工事は困難を極めたことが記されていました。前回も触れましたが、ネヘミヤはいつも神様に祈り、導きを仰ぐ人でしたので、事あるごとに神様に祈り、知恵を頂いて対処してきました。全てのことを神様がしっかりと導き守って下さったので、城壁は完成しました。城壁が完成すると、イスラエルの民は、城壁の奉献式を行いました。その様子は、工事の様子を記した記事と負けないくらいのボリュームがあります。城壁の完成に際して、イスラエルの民が様々な感情を抱いたことが8:9-10などにも記されています。城壁が完成して律法の朗読がされている時、イスラエルの民は泣いていたことが記されています。それは苦しかった事の涙でもあり、それが終わってほっとした涙でもあり、捕囚の苦しみを思い出しての涙でもあり、解放された喜びの涙でもあります。

12:37には、この城壁の奉献式の時に、聖歌隊が賛美しながら完成した城壁をぐるっと一回りした様子が描かれています。谷の門という場所から、城壁を右回りしていくグループと、左回りしていくグループがありました。それぞれのグループは城壁を半周ずつして、ちょうど神殿の前で合流しました。そして全員で神殿に入っていったことです。城壁を1周しているのですから、町を1周したことになります。町中挙げてのパレードだったという事です。神様に感謝し、ほめたたえながら賛美をして行進しました。

このパレードは、神様への感謝のパレードでした。城壁の工事は様々な困難に見舞われました。それらは人間の知恵ではとても手に負えないものでした。神様が助けてくださったからこそ、城壁は完成されたのです。改めて行進して城壁を見渡す時に、それらの困難も思い返されたことでしょう。困難の最中には、もう城壁は完成できないのではないか?と思ったことは何度もあったと思いますが、しかし今はこうして城壁はしっかりと建っています。それらの道のりを思い返す時に、城壁の再建は人間業ではなかったことを、イスラエルは改めて思い返しました。だからこそ、イスラエルの民は心から神様に感謝し、神様の大きな御力をほめたたえることができました。

私たちも、城壁を1周ではないですが、時折、自分の歩んできた道を振り返るといいと思います。その時、思い返されるのは、「ここまで主が私たちを助けてくださった(Iサムエル7:12)」だと思います。そのような時、私たちは心から神様に感謝することができます。また神様の偉大な力を改めて知ることができ、明日の一歩を神様と共に踏み出す勇気を与えられると思います。神様は生きて働いておられ、私たちの歩みを着実に進めて下さっています。その神様に感謝し、次の一歩を踏み出す勇気を頂きたいと思います。これから祈る一つ一つの祈りの課題にも、ここまで私たちを導いて下さった神様の大きな力によって、導いて頂けるようにお祈りしたいと思います。

*インマヌエル中目黒教会のホームページにある地図を参考にすると、奉献式の聖歌隊の行進の様子がよく分かります。

→聖歌隊の行進(インマヌエル中目黒教会ホームページ)

 

お祈りの課題

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  • 女性リトリート、JHA関東聖化大会のために
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神に祈ってから

そこで私は、天の神に祈ってから、
ネヘミヤ2:4

ネヘミヤ記に入りました。エズラ記、ネヘミヤ記には、バビロンからの帰還したイスラエルの民のお話が書かれています。エズラ記には、ゼルバベル率いる第一次帰還民のお話と、エズラを含む第二次帰還民のお話がありました。王の子孫であったゼルバベルは神殿の再建を指揮し、祭司であったエズラはイスラエルの民の心を真の神に立ち返らせるという働きをしました。イスラエルの民は長いバビロンでの捕囚生活を終え、もう一度神様との関係を回復し、歩み始めていました。

ネヘミヤ記は、ネヘミヤがエルサレムの街の様子を聞くことから始まります。年代的にはネヘミヤはエズラの少し後になるので、ネヘミヤは、エズラと共に帰還したイスラエルの民からエルサレムの様子を聞いたのかもしれません。ネヘミヤが聞いた報告は悲しい報告でした。エルサレムの城壁は破壊され、エルサレムにいる民は周りの他の民族からそしりを受けていました。1:4には報告を受けたネヘミヤが断食をして、神様に切実に祈っている様子が書かれています。

ネヘミヤはよく祈る人でした。よく祈り、神様の導きを常に仰ぐ人でした。「神の前に祈って」「神に祈り」というような言葉がネヘミヤ記にはたくさん出てきます。エズラと同じようにネヘミヤも、強引に事を進める人ではなく、神様のタイミングを待てる人でした。またどんな事も自分の判断だけでは進めず、神様の知恵を求める人でした。箴言3:5には、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。」という言葉がありますが、ネヘミヤはまさにその通りのひとでした。

ネヘミヤの特徴的な行動が2:4にも表されています。ネヘミヤはペルシャの王様に仕える献酌官でした。王の飲むお酒を注ぐ係です。食べ物、飲み物と言うのは、体の中に入れる物ですから、王はそれらを扱う係には信頼できる人間を雇います。ネヘミヤは王からの信頼を得ていたことがうかがえます。エルサレムからの報告を受けて以来、ネヘミヤは暗い面持ちでした。暗い面持ちで王の酒を注ぐようなことは、毒を注いでいると言っているようなものなので、本来あってはならないことです。しかし王からよほど信頼されていたのか、ネヘミヤは王から心配の声をかけられます。そこでネヘミヤは、はっと我に返り、恐れながらも王に本当のこと、エルサレムからの報告のゆえに悲しんでいることを言います。すると王はネヘミヤに何を願うかということをきてくれました。王に一人の家来の願いを聞いてもらえるとは、これは本当に神様からの祝福であると言わざるを得ません。そこでネヘミヤは「天の神に祈ってから」王にエルサレムに行きたい旨を伝えました。

ネヘミヤは、きっと短く心の中でお祈りをしたのでしょう。何を祈ったのか、それは分かりません。そんなに長く祈るような時間は無かったと思います。短く「主よ。お導き下さい」と祈っただけかもしれません。これはネヘミヤのとっさの行動だったと思います。とっさの行動とは、普段行っている事、いつも通りの事が出てきます。ネヘミヤがここでとっさに短く祈ったという事は、ネヘミヤがいつも神様と会話しながら過ごしていたことを物語っています。神様はどんな時でも、神様と会話する人を求めています。文字通り、「絶えず」祈る人を求めています。ネヘミヤはそのような人でした。2:8にあるように「神の恵みの御手が」働いて、王はネヘミヤの願いを聞き入れてくれました。私たちもネヘミヤのように絶えず神に祈りながら生活したいと思います。

*ネヘミヤの城壁建設について、インマヌエル中目黒教会のホームページにある地図を参考に見ながら読み進めると、よく分かります。

→インマヌエル中目黒教会説教

 

 

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神様の愛によって愛する

万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
Iペテロ4:7-8

ペテロの手紙に入りました。ペテロの手紙は第一と第二に分かれいます。第一は、どちらかと言うと、教会外からの苦難、迫害や困難に対する励ましの便りとなっています。第二は、どちらかと言うと、教会内の苦難、偽預言者や、反キリストに対する警戒が書かれています。いずれにしても、教会に宛てた手紙であり、キリストの真の福音に留まり続けるように励ましている手紙です。使徒ペテロは、イエス様から「わたしの羊を牧しなさい(ヨハネ21:16)」と言われました。ペテロがイエス様の言葉を忠実に守り、教会を見守り、十分なケアをしようとしていた事が手紙からも分かります。

ペテロは4章の最初で、人間の欲望に従ってではなく、神のみこころに従って歩むように勧めています。そしてそのようなクリスチャンの姿を見て、世の人々は不思議に思うかもしれないという事を述べています。しかし世の流れに乗らずに神様に従ってあゆむように勧めています。迫害というと、肉体的な苦痛、「燃えさかる火の試練(4:12)」をを連想させます。この時代の教会は、そのような迫害も実際に体験していましたし、これからも体験するであろうことをペテロは示唆しています。しかし迫害は、肉体的な苦痛だけでなく、精神的なストレスの迫害もあることが、このペテロの言葉から伺う事ができます。「愛」の反対語は「無視」であると言われます。気にかけてもらえないこと、無視されること、全く価値のないもののように捉えられてしまうことは、私たちにとって苦痛です。キリストの福音、神のみこころに従って歩むことが、他の人から見て全く価値のないもののように捉えられてしまうのは、苦しい事です。ましてクリスチャンが少なく、周りに仲間がいないような時にはもっと苦しいはずです。日本の現状が正にそうかもしれません。肉体的には迫害に会っていなくても、精神的に追い詰められていることはあり得ることです。ペテロはそのような教会に対して、キリストにあって励ましを与えています。4:14にあるようにもし私たちがキリストの名のために非難を受けたとしても、神様の御霊が私たちの上に留まって下さいます。神様は公正な裁きをしてくださるお方ですから、私たちが迫害に耐えて信仰を守りとおすなら、必ず私たちに報いてくださいます。

精神的な迫害は、苦痛を与えている側は自覚が無いという事がよくあります。私たちも気をつけなければ精神的なストレスを周りの方に与えてしまいかねません。愛は教会でもよく説かれている大切な教えです。4:8でも「互いに熱心に愛し合いなさい」と勧められています。しかし愛にも種類があることを押さえておく必要があります。母性愛は子どもを思う親の愛として素晴らしい愛であると言われます。しかし母性愛も人間の愛に根ざした愛であれば、他の人との対立を生みだします。母性愛は「わが子」を愛する愛ですが、人間は「わが子」と「あの家の子」を区別してしまうからです。ひとたび「わが子」と「あの家の子」が対立すると、「わが子」を愛する愛が「あの家の子」を傷つけてしまうことがあります。

しかし神様にとって「わが子」とは全ての人を指す言葉です。神様の母性愛は、全ての人を分け隔てなく愛します。私たちはキリストによって救われ、神様のみこころに従って歩もうとしているのですから、「互いに熱心に愛し」あう時にも神様の愛によって愛し合いたいと思います。神様の愛は罪の力に屈することはありません。神様の愛は多くの罪をおおいます。ペテロが神様の愛によって教会を愛し、牧したように私たちも周りの方々と愛を持って接していきたいと思います。

お祈りの課題
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すべては神様の導きのままに

私たちの父祖の神、主はほむべきかな。主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった。私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。
エズラ7:27-28

エズラ記に入りました。エズラ記、ネヘミヤ記はもともと一つであったと言われています。列王記、歴代誌の終わりで、ユダヤの民は国を失って、バビロンへ連れていかれました。その後、バビロン捕囚という苦しい期間を通りますが、もともとの神様の計画通り、ユダヤ人たちはバビロンからエルサレムへ帰ってきます。バビロンからの帰還がエズラ記、ネヘミヤ記の主題です。エズラ、ネヘミヤを見ますと、バビロンからの帰還とは、単に引っ越しをするというだけのことではありませんでした。神殿の再建と、真の神様への信仰の回復という民の心の内面も変革されなければいけませんでした。

エズラ記の前半は、ゼルバベル率いる第一次帰還民のお話です。この時にはエズラはまだ出てきていません。7章に入り、エズラが登場します。そして7:27からは、「私」という一人称の言葉が使われて、まるでエズラ本人の日誌のように書かれています。このような書かれ方はネヘミヤ記も似ています。

エズラ記とネヘミヤ記は「私」という言葉が使われていることも似ていますが、7:28にあるような、「主の御手が私の上にあった」という表現に見られるように、神様の導きに感謝しながらことを進めている様子も似ています。エズラ記7:1によると、ペルシャの王はエズラの願いを聞き入れたという事が書かれています。エズラはペルシャである程度の地位があり、王に願い出ることができるような立場だったようです。エステル記などを見ますと、ペルシャでの王の権限はとても大きな絶対的な物でした。ですから、エズラは決して強引な要求はせず、ペルシャの王と平和を保ちながら、ことを進めようとしていたようです。それはエズラがこの世の権力社会にすっかりはまってしまっているからというわけではなく、7:27にあるように、神様は、ペルシャの王の心を用いることができるからという確信の故でした。ペルシャの王がどんなに大きな力を持っていたとしても、神様はそのペルシャの王をも従わせることができます。神様は預言者を通して、ユダヤの民をエルサレムに帰還させることを約束してくださっていました。エズラはその約束を信じて、神様のタイミングを待っていたのだと思います。そしてそのタイミングが訪れた時には、エズラはまず神様に感謝をささげています。「私たちの父祖の神、主はほむべきかな。」

このことは、現代に生きる私たちにも通じるものがあると思います。確かに神様は、全ての人が神様を求めるようになることを願っておられます。そのために私たちをも用いてくださるかもしれません。しかし私たちは、自分の力で強引に事を進めようとせず、神様のタイミングを祈り待ち望む必要があります。すべては神様の導きのままにというエズラの姿勢を見習いたいと思います。そうすると自然と肩の力が抜け、のびのびと信仰生活を送ることができると思います。また神様の背後の働きにもすぐに気づくことができ、喜びをもって感謝をささげることができると思います。

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二心

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
ヤコブ4:7-8

ヤコブの手紙のテーマは、信仰と行いについてです。ここで言う行いというのは、善行をするかしないかというよりも、普段の生活の中で神様を意識しているだろうかと考えた方が手紙の内容を理解しやすいかもしれません。ヤコブの手紙が問題としているのは、1:8、4:8で出てくる「二心」です。善行を行うことは良い事であると誰でも認める所です。しかし2:8-10にある通り、ある人に良い事を行っても、他のところでえこひいきをするなら、その人は罪人です。律法の一つを守っても、他の律法を守らないならば、律法を守ったことにはなりません。私たちの実際生活は煩雑で、常に良い事だけをして生きている人は少ないかもしれません。しかし神を信じ歩んでいる人がそのような生活を続けて良いのでしょうか?というのが、この手紙の意図するところです。

手紙の著者ヤコブによれば、それは心の問題であるという事です。心が二つに分かれてしまっている状態なので、神様に対する賛美と、兄弟姉妹への呪いの言葉が、同じ口から出てきてしまいます(3:9参照)。人は心に無いことを口にはしません。また心に思ったことの無いことを実践することもありません。心の中に、苦い思いと、神様に対する篤い信仰が同居してしまっているのです。ヤコブは言います。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」私たちはこの二つに割れてしまっている心を、神様に清めて頂く必要があります。

ヤコブの手紙は、よくパウロの手紙と対立しているかのように言われてしまいます。パウロの手紙は「信仰による義」を説いているのに対し、ヤコブの手紙は「行いによる義」を説いているかのように言われるからです。しかし、この二つの手紙は対立しているのではありません。一つの律法を守りながら、他の律法を守らないということは、ローマ2:21-23にも出てきます。パウロもヤコブも最終的に行き着くところは、人間はみな罪人であるということです。そしてこの罪の心、ヤコブによれば二心をきよめて頂かなければならないという点において、パウロの手紙も、ヤコブの手紙も一致しています。

私たちにとって自分が罪ある存在であると認めるのは、苦しいことかもしれません。しかしそれを認めない限り、神様に清めて頂くことはできません。神様の赦しと癒しを期待して、素直に自分の罪を認めて、告白したいと思います。そしてこの二心を清めて頂いて、常に神様にあって歩む生活をしたいと思います。それが私たちにとって素晴らしい祝福だからです。いつも神様への賛美を口ずさみながら歩んでいければ幸いです。

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