神様の知恵は魂を飾る

わが子よ。父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭に戴く麗しい花の冠。首にかける飾りだから。
箴言1:8-9

旧約聖書箴言に入りました。箴言は、1:1に「ダビデの子ソロモンの箴言」とあり、途中からは他の「知恵ある者たち(22:17)」や「アグル(30:1)」、「レムエル(31:1)」などの名前が出てくることから、ソロモンの言葉を中心にまとめられたいろいろな知恵の言葉であると思われます。独特な詩的な表現が多く、1節、1節がとても奥深く味わい深い書物です。

初めの5-6章は、知恵を得ることの勧めが記されています。1:8に「父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。」と書かれています。父、母という言葉が出てきます。私たちは生まれた時は、何も持たずに、何も知らずに生まれてきます。両親から、そして多くの先輩たちから生きるための知恵を教わりながら成長します。それらの教えは時に、私たちに重くのしかかります。良い知恵は私たちの自己中心さ、弱さをあらわにするからです。そんな時、私たちは「父の言う通りにしたくない」「母の言ことなど聞きたくない」と考えてしまいます。しかし聖書は、両親の教え、その他、人生の先輩方の教えを捨てず、従うように教えています。沖縄の民謡に「てぃんさぐぬ花」という歌があります。1番は下のような歌詞です。

てぃんさぐぬ花や
爪先(ちみさち)に染すみてぃ
親(うや)ぬゆしぐとぅや
肝(ちむ)に染みり

「ホウセンカの花は爪先に染めて 親の教えは心に染み渡る(Wikipedia訳)」という意味だそうです。沖縄ではホウセンカの花から取った染料をマニキュアのように使います。マニキュアは爪先を飾るものですが、親の教えは心に染み込ませなさい。それは魂を飾るものとなるという事を教えています。箴言1:9も知恵は「あなたの頭に戴く麗しい花の冠。首にかける飾り」と言っています。

聖書が教える知恵とは、神様の知恵の事です。神様は全ての人の父です。箴言1:8が言う「父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない。」とは自分の親の言う事を聞きなさいと言う意味です。それは私たちの創り主である神様も含まれます。神様の知恵こそ最高の知恵です。箴言1:7は「主を恐れることは知恵の初め。」と言っています。「主が知恵を与え、御口から知識と英知が出るからだ(箴言2:6)」と言っています。まことの神様を知ること、私たちの創造主を知ることが知恵の第一歩です。この世界、そして私たちの全てを壮大に、細かく造り、整え、治めておられる神様に聞き従う事こそ、私たちの生きる知恵です。私たちは日々、聖書を読むことで神様の知恵を頂くことができます。聖書には神様の知恵がたくさん書かれています。それらは私たちを時に優しく教え、ときには厳しく教えます。その教えを私たちは日々感謝して受け取り、捨てないようにしたいと思います。神様の知恵は私たちの魂と心を整え、キレイに飾ってくれる花の冠のようなものです。神様の知恵を日々蓄え、身も心も美しくして頂けたら幸いです。

箴言は神様がソロモンや他の知恵ある者たちを通して語られた知恵の言葉です。これから子の箴言を通して神様の知恵を日々頂いていきましょう。

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心を神様に変えて頂く

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。
ローマ12:2

ローマ人への手紙を続けて読んでいます。前回、7章では自分の心を顧み、罪と向き合う事をパウロは勧めていました。イエス様は、私たちの罪のために十字架で贖いをなしてくださいました。私たちは自分の罪と向き合うことで、その御業の大きさを改めて実感することができます。自分はたいして悪い人間では無いと思っていれば、イエス様の贖いに興味を示すことはないかもしれません。しかし自分の罪深さを自覚している人は、イエス様の贖いを本当に感謝して受け止めることができます。

自分の罪、弱さと向き合うことは、良いこと、正しいことは何かを考えることでもあります。良いことの裏返しに、自分の罪深さがあるからです。そして自分の罪の故に、その良いことに達することができないと言う限界を知ることになります。そのような時にこそ、私たちは神様に目を留めたいと思います。神様は私たちを罰し、滅びに招くために罪と向き合わせるのではありません。私たちの罪を赦し、解決し、良い方向へと導くために罪と向き合わせるのです。より良いこととは神様のうちにあります。そして私たちがより良いことに向かうためには神様の力が必要です。

パウロは言います「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。」キリスト教会でよく使われる「悔い改め」という言葉は、「悔いる」という言葉と、「改める」という言葉の合成語です。私たちは自分の罪深さを悔います。そして自分では良いことに達することができないと自覚します。それでも「救われたい」と願うのであれば、神様の力によって変えて頂きたいと心を改めるのです。パウロがこれまで手紙の中で、律法について述べてきました。私たち人間は、正しいこと、良いことが何かしっかりと見極めることができません。神様から律法が与えられた時、良いことと悪いことの区別ができるようになりました。そして良い方向へ進みたいと願ったのです。それならば私たちは良いことと示して下さる神様の御手に私たち自身を委ねるようにしたいと思います。自分では良いこと、悪いことの区別ができないですし、自分の力で良い方向へ向かう事もできません。今までは何事も自分の力で解決しようとしてきたかもしれませんが、これからは神様の力で変えて頂こうと、心を改めるのです。

神様から変えて頂くということは、私たちにとっては大きなチャレンジかもしれません。自分の思うように変えるのではないからです。ローマ12章以降にはたくさんの良いことが書かれています。中には実行が難しいと感じることもあるかもしれません。いっぺんに全ては変わらないかもしれません。しかし神様に信頼したいと思います。神様は私たちの事を何よりもよくご存じです。そして私たちに聖く、正しくあって欲しいと願っておられます。神様の思いを受け止めて、日々教えられながら、悔い改め、変えて頂く生活を続けていきたいと思います。

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自らの心を顧みる

私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉的な者であり、売り渡されて罪の下にある者です。
ローマ7:14

ローマ人への手紙を続けて読んでいます。パウロはこれまで律法による義と信仰による義について話を進めてきました。私たちはユダヤ人ではないので「神様から与えられた律法を持っている」ということがどういうことなのか、今一つ実感として湧きません。パウロがローマ人への手紙で語っていることはとても難しい事のように感じてしまいます。パウロが7章で説き明かそうとしているのは、「律法が正しいから人は正しくいられる」とか、「人の生活が悪いのは律法が間違っているから」ということではないということです。また「信仰によって救われるなら律法は要らない」と言おうとしているのでもありません。そのような観点の議論ではなく、「律法は良い物、聖なる物だが、人は罪深い」ということを示そうとしているのです。

例えば、私たちは今、民主主義の社会で生きています。民主主義の社会では、みんなで考えてより良い法律を作ります。より良い法律をつくればより良い社会になると信じているからです。しかしより良い法律があるから即、より良い社会になるでしょうか?あるいは社会がなかなか良くならないは、法律が悪いからでしょうか?そのような議論は一つ、決定的に見落としている部分があるのではないか?とパウロは言います。どんな法律があろうとも、人の心に罪(悪)がある限り、社会は良くならないのです。人の心の罪は、たとえどんなに良い法律であったとしても、抜け道を探って、自分だけ得をしようとするからです。たとえ律法が神から与えられた聖なる物であったとしてもです。

パウロは自らの心も省みて嘆いています。「私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています(7:19)。」「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか(7:24)。」私たちは良い法律、律法を見れば、それが良い物であると心の底から賛同します。そしてそのように生きたいと願います。しかし同時に私たちの心のうちには、その法律、律法を守りつつも、他の人よりも得したい、あるいは法律、律法に書かれていないことならやっても悪くないと考える心があります。聖書でいう罪とは過去の過ちのこともそうですが、むしろ自己中心的な考え方、心の在り方です。ですからそのような心を持ち続ける限り、私たちの間に平和はありません。常に騙し合いの社会になるからです。そしてその心は神様に対しても、ある程度の悪さは出し抜けるのではないかと考えるようになります。パウロは。この罪の心が解決されない限り、本当に惨めだと言っているのです。

イエス様はこの罪の心を解決するために十字架に架かって下さいました。続くローマ8章以降に詳しく書かれています。イエス様は私たちの罪の心を十字架の上で処罰し、代わりに神の聖霊、御霊を与えてくださいます。御霊は常に私たちと共にいて、何が良い事で、何が悪い事か語りかけてくださいます。8:4にあるように御霊に従って歩むなら私たちは、良い物である律法、私たちも良いと認めている律法を十分に全うして生活できます。良い法律があるか無いかが問題ではありません。問題は私たちが自分の罪の心を自覚し、神様の解決を求めているかどうかです。私たちは今一度、自分の心を顧みて、神様の解決を求めて生きたいと思います。

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自分の罪と向き合う

ですから、すべて他人をさばく者よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。
ローマ2:1

ローマ人への手紙に入りました。ローマ人への手紙は使徒パウロがローマの教会の人たちに宛てて書いた手紙とされています。この手紙は当時のローマの教会を励ますために書かれた手紙ですが、イエス・キリストの救いについてとても良くまとめられた手紙です。罪について、恵みについて、ユダヤ人の救いについて、教会の一致について語られています。当時の文化的な背景を良く知らなくても、私たちが共感できる部分も多いと思います。そのようなわけで、教会では入門的な学びのためによくローマ人への手紙を用いたりします。

手紙の最初でパウロは、「律法」について書きながら、罪についてどう考えるべきか語っています。ここでいう「律法」とは、真の神様がユダヤ人に与えられた律法のことを言っています。出エジプト記で神様はユダヤ人と契約を結び、律法を与えられました。神様が全世界に神様の聖を表すために、特別にユダヤ人を選び、神様の聖を守るための律法を与えたのです。しかし自己中心的な思いにとらわれやすい人間にとって、この律法の内容はとても守るのが難しいものでした。ユダヤ人たちも旧約聖書の中で何度も失敗し、律法を守れないどころか、神様を忘れ、他の神々を拝するようなことまでしました。しかしおかしな話ですが、どんなに律法を守れなかったり、他の神々に仕えたとしても、「自分たちは真の神から特別に選ばれて律法を与えられた民族だ」という意識は、多くのユダヤ人たちの中から消えませんでした。律法を持っている、知っているというだけで、自分たちは神様の前に正しい人間であると思っていたのです。

人間は弱い生き物で、「自分は正しい」と思いこみたいものです。そうでなければ生きる価値が無いと思うからです。ある人は律法を持っているから自分は正しいと考えます。またある人は昨日、律法が守れなかったとしても、今日守れれば大丈夫と考えます。またある人は、他の人と比べて、あの人よりは多く律法を守れていると自分を正当化してしまいます。そのような様子を見て、神様がどう思われるかは二の次になってしまいます。人間にとって神様のさばきに委ねることほど恐ろしいものはありません。うすうすと神様は私の罪をすべて暴かれると理解しているからかもしれません。

しかしパウロはあえて手紙の最初の2章でそのことに触れます。どうして人をさばきながら、自分は律法を守らないのですか?律法を持っていればOKだとでも思っているのですか?どうしてちゃんと自分の罪と向き合わないのですか?と語ります。パウロがこう語るのは、パウロは2:4で語っている通り、「神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導く」と知っているからです。神様は確かに私たちのすべての罪をご存知です。私たちがよく罪の性質に引っ張られてしまう弱さもご存知です。良く知っているからこそ、イエス様が十字架に架かって下さいました。そして罪の赦しを与えて下さったのです。神様が、隠そうとしている罪をあらわにされるのは、滅ぼすためではなく、その罪の解決を与えるためです。罪はそのまま隠してしまう方が滅びを招きます。私たちは他の人を批判する心を一旦とめて、まず自分の心をかえりみたいと思います。そして神様の前に罪を告白し、赦しを頂いて悔い改めてへと導いて頂きたいと思います。

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神様の正しいさばき

神よ 立ち上がって 地をさばいてください。あなたが すべての国々を ご自分のものとしておられるからです。
詩篇82:8

今日は詩篇82篇です。表題のアサフについては、前回の分を参照してください。アサフは、ダビデの時代に活躍したレビ人の一人です。

この詩篇には「神々」という言葉が出てきます。まことの神様はお一人ではなかったのですか?と思うような書き方です。もちろんこの表現は比喩であると言えます。神様が増えたわけではありません。現代の私たちでも、特に優れた人を指して「神のようだ」と言ったりします。詩篇82篇の中では、「さばき」という言葉が出てきます。特に「王」や「為政者」や「裁判官」などを想定して、「神々」と呼んでいるようです。これらの人々は、国の中での問題、課題に対して正しく公平に対応していくことが求められます。現代でもこんがらがった事態を見事に収束させると「神対応」などと言われます。当時もそれと同じような比喩が使われていたという事です。ですから、真の神様以外にも神がいるということではありません。82:7では神々が「人のように死に」と書かれているように、彼らは神々と呼ばれているかもしれませんが、本質的には普通の人間なのです。

イスラエルの国は神様から選ばれた国です。その国の為政者、裁判官たちも、神様からさばきの権威を与えられた人たちです。いわば彼らは、神の権威によって政治、さばきを行っていると言えます。彼らが本当に神様に従い、正しく公平なさばきを行うのであれば、彼らが人々から「神対応だ」と言われることもあるかもしれません。しかしどうやら現実はそうではないようです。彼らは人々から「神々のようだ」と言われるべき存在だと自負しているようですが、そのさばきは不公平で、不正を行っているという事が描かれています。それに対して、詩篇の作者は正義を行えを訴えています。人は、異性に対して、お金に対して、そして権威に対して、間違いを犯しやすいと言います。個人差はありますが、特に男性は支配欲が強いかもしれません。「神」と呼ばれなくても、「先輩」、「先生」、「師匠」と呼ばれること、褒められること、敬われる事でうれしいと感じます。ですからつい権威を欲してしまいますし、権威=絶対と考えてしまいます。そうすると正義も不正も混ざってしまいます。

82:1で真の神様は、そのような権威持つ者たち「神々」を集め、「神の会議」を招集します。そして彼らの不正をあばくさばきを下されるのだという事が書かれています。彼らは目に見える地上の世界においては誰も逆らう事の出来ない権威あるものかもしれません。しかし真の神様の前では死を迎える定めにある普通の人間です。詩篇の作者はその様子を描き、真の神様に正しい裁きを求めています。人間の支配者は不正を行うかもしれません。それによって民は苦しむかもしれませんが、真の神様はすべてをご覧になっています。そして必ず正しいさばき、公平なさばきを行って下さいます。「神のさばき」という言葉は、とても恐ろしい響きです。しかし正しい者にとっては救いであり、希望であることが詩篇82篇を読むと分かります。神のさばきが恐ろしいのは、地上のどの権力も逆らえないからです。しかし神様のさばきはどこまでも公正で、正義であるため、正しい歩みをする者にとっては、救いであり、希望であり得るのです。私たちも神様の前に正しく歩み、神様の正しいさばきに期待したいと思います。

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