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祈祷会メッセージとお祈りの課題

最後の時もイエス様を信じて

第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した」と言った。
黙示16:17

15章からの続きで、7つの鉢を持った御使いが、神様の怒りの満ちた鉢をぶちまける様子が描かれています。この7つの鉢についての描写は、「神の激しい怒りの7つの鉢」や「地に向かってぶちまけよ。」という激しい表現が使われています。15:1にも「神の激しい怒りはここに窮まるのである」と激しい表現で書かれています。これらは神様の正義を表した怒りです。世の中には、悪い事が横行しているように見え、悪人も神様の裁きなど無いかのようにふるまっています。しかし黙示録は、神様は正義のお方で、全てのことは神様の前に記録され、悪い事はちゃんと裁かれることを示しています。今、まだ私たちがこの裁きの時を迎えずに昨日と同じ生活を続けているのは、神様が悪事を全て見逃しているからではなく、悔い改めるチャンスを与えているからです。私たちは誰でも蒔いた種の刈り取りをしなければなりません。

16章に記される災いは、神様の裁きの時の恐ろしさを描いています。そしてこの恐ろしい時にも終わりはあります。16:17で聖所からの大きな声が「事は成就した」と言っています。これは神様の裁きが滞りなく執行された宣言でもあり、災いの時が終ったことの宣言でもあります。神様は何物にも邪魔されることなく、必ず正しい裁きを執行されますが、その裁きの時も完了する時が来ます。神様がこの災いの期間を短くして下さらなければ、誰一人として生き残ることはできません。しかし神様はいつまでも怒っておられるお方ではありません。神様の願いは私たちを滅ぼしつくすことではなく、神様と私たちが共に生きていくことだからです。イエス様の再臨の目的は裁きだけではなく、この後の章で描かれる新しい天と地のためでもあるのです。

黙示録16:17の「事は成就した」という言葉は誰が放った言葉でしょうか。黙示録は「大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て」と記しています。声を出した人物については詳しく記されていません。もしかしたら声だけが聞こえてきた可能性もあります。しかしこの言葉は、ヨハネ19:30の十字架上のイエス様が仰った「完了した」という言葉を連想させます。もしかしたらこの時、「事は成就した」と仰ったのはイエス様かもしれません。イエス様が十字架で仰った言葉は、私たちの罪の贖いの業が滞りなく行われたことを宣言された言葉でした。渡司たちはイエス様の十字架の贖いが無ければ誰一人救われることはありません。自分たちでは罪の清算をすることができない程、私たちの罪は重いからです。イエス様はそんな私たちの罪を十字架によって完全に贖って下さいました。私たちはイエス様の十字架のゆえに救われたのです。黙示録に記される裁きの時、私たちはこの恐ろしい光景を前にどうしていいか分からなくなるでしょう。しかしこの裁きの時にあっても、自分の力でその時を乗り切る必要はないのです。むしろ自分の力で乗り切れる人は一人もいません。私たちはこの時にあっても、やはりイエス様を信じて、イエス様の力によって乗り越えさせて頂く以外に無いのです。イエス様は小羊を抱くように信じる私たちを集めて、額に小羊の印を押し、守って下さいます。最後の最後まで私たちはイエス様を信じて歩みたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 9-10月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • クリスマスの諸準備のために、新聞折り込みのチラシが用いられるように
  • 八王子教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

今いまし、昔いまし、もう来られた方

万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
黙示11:17

8章から7人の御使いがそれぞれ7つのラッパを吹き鳴らしている様子が描かれています。9章で第六の御使いがラッパを吹き鳴らしてから少し間が空いていますが、この間に11章の前半では神殿の様子が描かれています。神殿には神の聖所があり、祭壇があり、礼拝している者たちが集まっています。しかしその外側は異邦人が踏み荒らしていると記されています。ここでの異邦人とは、単に外国人と言う意味だけではなく、神様を信じていない人々のことです。外国人であっても、神様を信じている人は誰でも救われるというのが聖書の教えです。イエス様の時代、エルサレム神殿には神殿の建物の周りに、異邦人の庭と呼ばれる場所がありました。外国人であっても、神様を信じる人々は異邦人の庭で礼拝を捧げることができました。神様の救いは異邦人にも開かれているのです。黙示録11:2で、異邦人たちが踏み荒らしていた聖所の外の庭と言うのは、おそらくこの異邦人の庭のことと思われます。彼らは神様が彼らの救いのために開かれた場所を踏みにじっていたのです。

紀元70年にローマ軍とユダヤ人の戦争が起こり、ローマ兵によってエルサレム神殿は完全に破壊されます。イエス様の時代からエルサレム神殿の礼拝の形骸化は問題とされてきて、イエス様はエルサレム神殿が破壊されることも預言されました。しかし実際に神殿が破壊された時には、多くのユダヤ人たち、クリスチャンたちは悲しんだことと思います。またローマとユダヤ人が敵対したこともあり、クリスチャンたちへの迫害の手も一層厳しくなりました。黙示録11章にはそれでも神様を信じて礼拝する民がいて、その中から2人の証人が起こされることが描かれています。この2人の証人たちは、祈ると雨が降らなくなったり、水が血に変わったりと、まるでエリヤやモーセのような力強い証人たちでした。しかし獣がこの証人たちも殺してしまいます。そしてあらゆる国の人々が、その証人たちが死んだことで喜んで贈り物を贈り合っていると書かれています。このような記事は神様を信じない人々が神様を信じる人々を迫害する様子と重なります。

しかし黙示録はそのような迫害の期間がごく限られた期間であることを語っています。11章に出てくる数字は42ヶ月、1260日という数字です。42ヶ月×30日=1260日となるので、これは数え方を変えただけで同じ日数です。42ヶ月と言うのは、3年半です。3.5という数字は7の半分です。聖書では7という数字が完全数ですので、数えきれない大きな数字を意味したりしますが、3.5はその半分なので、不完全数、終わりのある数字、限りある数字と言う意味を含んでいます。商人たちが踏みにじられる期間、また証人たちが殺されて復活するまでの3日半というのは、必ず終わりが来るという事を意味しています。

そして11:15で第七の御使いがラッパを吹き鳴らし、キリストの支配の時が来たことを知らせています。苦難の時代、迫害の時代は必ず終わりが来て、キリストの時代が来ることを教えているのです。キリストの支配は3日半や3年半のような限られた期間ではなく、11:15にあるように永遠です。迫害下にある時には、その苦しみがいつまで続くのかと本当に絶望的な気持ちになります。またキリストの時代がいつ来るのか、いつ来るのかと不安になります。しかし黙示録は、苦難の時代が必ず終わることを告げています。そしてキリストの時代が必ずやってきます。黙示録1章や4章でイエス様は「今いまし、昔いまし、後に来られる方」と紹介されていました。「後に来られる方」というのは、その時が来ればイエス様が来られて全てを支配し、新しい天と地が来るという希望を表しています。その「後に来られる方」という表現が11:17では使われていません。それは11:17の時点ではもうその時が来てしまったからです。11:15の言葉を借りれば、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものと」、これからなるのではなく、もうなったのです。神様は黙示録を通して、迫害に苦しむクリスチャンたちに、その希望のメッセージを知らせているのです。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです(ヨハネ16:33)」と仰るイエス様に感謝し、信頼してこれからも歩みたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のご健康、信仰の成長、救いのために
  • 9-10月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • スマイル合唱団のために
  • 南平・昭島の交流会のために
  • クリスマスの準備、飾付、チラシ配布のために
  • 守谷教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

地上の支配と天の支配

彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
黙示6:10

ヨハネの黙示録6章には、小羊が巻物の7つの封印のうち、6つを解いていく様子が記されています。1つ1つの封印が解かれていくたびに、段階的に地上での変化が起こってきます。ヨハネはその1つ1つを記録しています。ヨハネの黙示録は7つの巻物の封印を含めて、7つのラッパ、7つの鉢と、7段階に分かれている物が3つ出てきます。それぞれが何を意味しているのか、解釈の難しいところではあります。7という数字は聖書では完全数ですので、神様のさばきの完全さを表しているように見えます。神様の計画は必ず成し遂げられるということを物語っています。

小羊が巻物の第五の封印を解いた時、ヨハネは「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましい(6:9)」を見ました。つまりキリストの福音のために殺された殉教者たちと思われます。ヨハネの黙示録が書かれた背景は、キリスト教徒が迫害され、日々たくさんの殉教者が出ていた時代でした。真実の神様を信じ、仕えて日々を過ごしているはずなのに、いつ殺されるか分からないような生活を送っていたのです。この黙示録を記したヨハネ自身も、島流しにされていた先で、この幻を見たのです。そのような時代の人々にとって、神様のさばきとは正義の時です。神様が迫害する者を罰し、迫害されているクリスチャンを救って下さる日なのです。神様のさばきとは彼らにとって希望の時だったのです。ヨハネの黙示録を読む時は、このような現代の私たちと当時のクリスチャンたちの温度差を考慮に入れる必要があります。

ヨハネの黙示録4~5章には天の御座におられる神様への賛美と、ほふられた小羊イエス様への賛美が記されていました。力と、富と、栄光とはあなたのものですというような賛美の言葉です。これは当時、キリスト教徒を迫害していたローマ皇帝への賛美の言葉でした。ローマ皇帝は自ら神と名乗り、力と、富と、栄光を受けるに相応しいものであると自負していたのです。その皇帝によってキリスト教徒は邪教徒扱いされ、殺されていました。当時のキリスト教徒にとってローマ皇帝の支配は目に見えるものであり、日常的な光景でしたが、神様は目に見えませんでした。黙示録に記されている様子は、地上ではこのようなローマ皇帝による支配が続いているが、天においてはローマ皇帝よりももっと偉大な神様がちゃんと宇宙全体を支配しておられるという事を記しているのです。キリスト教徒は神様が正義を行う時を待っていたのです。

神様はそのようなキリスト教徒たちに、正しいさばきは必ずやってくることを示しています。さばきが始まり、天変地異が起こると、6:15-17にあるように地上の王たち、それまでキリスト教徒を迫害し続けてきた者たちは、自分たちの支配が永遠ではなかったこと、真の神様がおられたことを知って恐ろしくなります。そしてほら穴に隠れ、神様の御怒りから匿ってくれるようにと嘆いています。

神様は目には見えないお方なので、私たちも神様が守って下さる、救って下さるという約束を信じ続けるのは大変です。しかし神様の約束は絶対であることを黙示録は教えてくれています。

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栄光のキリスト

それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。
黙示1:17-18

ヨハネの黙示録に入りました。ヨハネの黙示録は、世界の終末に関する預言が書かれています。再びキリストが来られること、さばきが行われること、新しい天と地が来ること等が記されています。ヨハネの黙示録は、終末に関して書かれているだけに、どのように解釈したらよいのか様々な議論を呼び起こしてきました。終末と言えば、私たちのいのちに関わる重大な問題だからです。

黙示というのは「覆いを取り除いて明らかにする」という意味です。黙示録が記された時、キリスト教会は大きな迫害に会っていました。12弟子の一人であるヨハネは捕らえられ、パトモス島に幽閉されていました。そこでヨハネはキリストに出会い、黙示録を記すように示されたと書かれています(1:9-11参照)。キリストが示されたのは、7つの教会に対するメッセージと終末に関する預言でした。この時、ヨハネがキリストから示されたメッセージを書き記したのがヨハネの黙示録です。黙示録の記述の仕方について気をつけねばならないのは、それが迫害の時代に書かれた書物であるという事です。キリスト教会が迫害に会っていたということは、おおっぴらにキリスト教の文書が出回ることができない状況だったという事です。ですので、比喩や暗喩が多く用いられています。それらを文字通りに解釈しようとしても、大変難しいです。

またもう一つ最も大事なことは、この黙示はキリストからの黙示であるということです。終末について神様の計画を人に伝えるために書かれた黙示録ですが、計画全体のどこまでを明らかにし、どこまでを隠したままにしておくのか、それはキリストが決定権を持っているという事です。黙示録の中にも御使いがヨハネに、書き記すべきものと、書き記してはならないものを命じ分けているところがあります。このことは黙示録が書かれた目的と関係しています。黙示録が書かれた目的の第一は、教会が信仰に留まり続けることを励ますことです。終末についていつ、どこで、何が起きるかを詳細に記すことが第一の目的ではありません。

そこで私たちは黙示録を読み進めるにあたって、1:17-18のキリストの言葉を再確認したいと思います。キリストはこの時、ヨハネが良く知っていた地上での人間としてのイエス様の姿ではなく、神の聖と力と栄光を帯びた姿でヨハネの前に現れました。1:12-16にその様子が記されています。あまりにも聖く、あまりにも恐ろしい姿だったので、ヨハネは目にした時、「足もとに倒れて死者のようになった」と記しています。しかしキリストは「恐れるな。」とヨハネに声を掛けました。この時の声は、ヨハネが良く知っているイエス様の声であったと思います。その時、イエス様はこのように言っています。「死とハデスとのかぎを持っている。」イエス様は人をさばく権威を持っておられます。イエス様は地上生涯においても何度か、神様がイエス様にさばきの権威を与えられていることを仰っていました(ヨハネ5:22参照)。そしてイエス様は、私たちの事をよく知っておられ、私たちの罪のために十字架で贖いをし、救おうとされるお方です。イエス様を救い主として信じ歩む人は誰でも救われます。終末のさばきというのは、とても恐ろしい響きを持ちますが、さばくのは私たちの良く知っているあわれみの神であるイエス様なのです。私たちは今、イエス様を信じて歩み続けているように、終末の時にも同じようにイエス様を信じて歩み続ければよいのです。

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背後で働かれる神

王はほかのどの女たちよりもエステルを愛した。このため、彼女はどの娘たちよりも王の好意と恵みを受けた。こうして、王はついに王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。
エステル2:17

エステル記になりました。エステル記は、捕囚中の物語です。イスラエルの民はバビロンによって連れ出され、バビロンの国に連れていかれました。それから時代は進み、バビロンはペルシャに支配されます。ペルシャの時代に入ってしばらくするとペルシャのクロス王がイスラエルの民に自分の国に帰っても良いと言われます。イスラエルの民は何度かに分けて、イスラエルに帰って行きますが、ペルシャに残る者もいました。エステル記はペルシャに残った民が中心の物語です。

一部のイスラエルの民がエルサレムに戻らなかった理由は様々だと思います。エステルの父親代わりだったモルデカイはペルシャの王宮の門番でした。王宮の仕事を辞めてエルサレムに帰ることはなかなか難しかったのかもしれません。しかしペルシャに残ったからといって、神様の恵みから外れてしまうという事ではありませんでした。エステル記はペルシャに残ったイスラエルの民に対する神様の導きと恵みが表されていると思います。

ペルシャの王アハシュエロスは、前の王妃ワシュティを退け、新しい王妃を探していました。新しい王妃の候補にモルデカイのおじの娘エステルが加えられます。1年に及ぶ準備期間の後、エステルはアハシュエロス王に会い、王の目に留まりました。エステルはイスラエル人でありましたが、ペルシャの王妃となったのです。このことは、モルデカイたち、イスラエルの同胞にとっても大きな慰めとなったことでしょう。イスラエルはペルシャの国で捕囚の民として惨めな生活を続けるのではなく、一市民として平和に暮らしていけるかもしれないという希望を与えた事と思います。それ以上にエステルが王妃に選ばれたことは、後に起こる大事件のための神様の特別な計らいであったのです。

エステル記にはある興味深い特徴があります。「神」という言葉が一切出てこないのです。しかし物語を最後まで読むと、物語の背後に働いておられる神様の存在を大きく感じることができるはずです。一見神様は出てこないように感じますが、神様はちゃんとモルデカイ、エステル、イスラエルの民を導いておられるのです。一つ一つの出来事に神様の計画があり、一切の無駄が無いことが分かります。そして神と言う言葉は出てきませんが、モルデカイもエステルも真の神様への篤い信仰心を持っていました。神様の導きを信じて信仰の一歩一歩を歩んでいったのです。

神様は目に見えるお方ではないので、私たちも日常生活において神様の臨在を感じられないような時があるかもしれません。しかしそれは感じられないだけであって、神様はちゃんと共にいて導いて下さっています。良い事があると当たり前のように感じ、悪いことがあると神様がいないように感じてしまうのが私たちの弱さでもあります。しかし良い事にも、悪い事にも、全ての背後に神様は計画を持って臨在してくださっています。私たちもエステルやモルデカイのように、全てのことについて神様を信じて歩んでいきたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 8-9月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 合同宣教祈祷会、聖書の学び会のために
  • みずほ台教会のために