7月27日 出エジプト記10:21-29 「光の中を歩みましょう」

導入 

 エジプト人は自分たちの神々を創造し偶像を作り、あらゆるものを崇拝していました。そしてファラオ自身を含む数百万人が、魔術と超自然的な力に頼っていました。そして、多くのイスラエル人をしいたげ、奴隷にし、生きておられる真の神に背を向け続けていました。

 しかし神様は、すべての人々に対して忍耐深くあられ、いかなる個人や民族も滅びることを望んでおられず、すべての人が悔い改めることを望んでおられます。ペテロは第二ペテロ3章9節で「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」と語っています。

本題

 出エジプト記でも、神は忍耐されつつ、エジプト人に対し八回も悔い改めを勧められました。しかし彼らは神様と断絶して、霊的な暗闇の中に生きることを選び、その暗闇が真実を見分けられないほどエジプト人の心の目を見えなくしていました。神様の忍耐は限界に近づいていましたが、そんな彼らに9回目の機会を与えることにされました。

イナゴの災いが終わった後、主は警告もなくモーセに「あなたの手を天に向けて伸ばし、闇がエジプトの地の上に降りて来て、闇にさわれるほどにせよ。」と命じました。しもべモーセが神様に従い手を天に向け伸ばすと、エジプトに濃い暗闇が降りて来て、その暗闇は3日間続きました。触れることのできるほどの濃い暗闇、3日続く真っ暗な闇とはどのようなものだったでしょうか。3日間、超自然的な真暗闇の中で生きることを想像してみてください。まるで、人々が暗闇の鎖に囚われてしまったような表し方です。その暗闇は、普段のように目が慣れることもなく、互いに見ることも、立つこともできないほど暗く、大きな恐怖に包まれました。

 それに対して、神様はイスラエルの民を守られました。神の民の住んでいる所は明るい光で照らし続けられました。ここに偉大な真理があります。光と暗闇を支配される神様はただ一人、主ご自身だけだということです。主は、ご自身を拒んだ者たちを暗闇で覆い、主が共におられると約束された者たちを光で満たしました。

 エジプト人は、古くからラーという名の太陽の神を崇拝していて、新王国時代に守護神アメンと融合したアメン・ラーを信仰していました。

 神の民は主によって守られていましたが、アメン・ラーはエジプト人を守るために何の役にも立ちませんでした。ファラオが、この点を理解しなかったはずはありません。モーセの神様は、裁く力と救う力の両方を備えています。そのお力は、太陽の神アメン・ラーを遥かにしのぐ、最高の力でした。

 神様がエジプトに示された最も素晴らしい真理は、主が唯一の生ける真の神様であること、主が全能であり、光と暗闇を支配する力を持たれること、主が人々を裁き、救う力を持っておられること、他のすべての神々は、主なる神様の御前では無力で絶望的であり、人間の想像の産物に過ぎないことでした。

 真の神様のみが光と暗闇を支配する力を持っておられる。しかし、それ以上に、今までの全ての災いを通して表されたように、神様は天と地、その中に存在するすべてのものを創造され、支配するお力を持っておられ、万物の主権者であり、全知全能のお方であり、主のような方は他にいないということでした。

 ファラオはこの暗闇がエジプトの国民の生活の動きを完全に止めてしまったことに気づきました。全国、すべての人と物が暗闇に包まれ、生活のあらゆる分野が機能停止に陥ってしまいました。真っ暗な闇に包まれた中、生命は長くは続きません。ファラオはどん詰まりとなり、モーセを呼び寄せました。闇の中をよろめきながら、部下たちはついにモーセにたどり着き、彼をファラオの元へ連れて行ったことでしょう。

 ファラオは、神の民を解放し、主を礼拝するために去らせることを提案しましたが、羊と牛を連れて行くことを拒否しました。災いにより家畜がいなくなり必要だったことや、家畜を残すことで、イスラエル人がエジプトに戻ってくることを確実にしようとしたのです。

  しかし、モーセはファラオの妥協案をいつも通り拒否しました。理由として、動物は神様にささげる犠牲として必要であり、どの動物が必要となるかは、目的地に着くまで分からないので、イスラエルはすべての動物を連れて行かなければならない、ファラオからも献げる動物をいただきたいと主張しました。

 神様に心を頑なにされたファラオは決してイスラエルを解放するつもりはなく、怒り狂って、自分の前から去るようモーセに命じ、もし再びモーセを見ることがあれば殺すと脅しました。そして神様の使者モーセも、「けっこうです」と再びファラオの顔を見ることはないと言い放ち、話し合いを打ち切りました。これがエジプトに対する神様の最終的な拒絶につながります。

結論

 エジプトに降りた暗闇は物質的な暗闇でしたが、霊的な意味も持っていました。暗闇は、無知や罪、反逆や死といった神様に反するすべてを象徴します。暗闇は罪の結果です。イエス様はヨハネ3章19節で「自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛した」と述べられています。闇は罪人の心と魂に宿ります。神様に逆らうことは「闇の中を歩くこと」です。9番目の災いは霊的な暗闇を象徴し、ファラオの硬く暗くなった心から広がった暗闇を表しています。

 イスラエル人の出エジプトの目的は、神様を礼拝するためでした。ファラオはこれらすべてを知りながら、神にすべてを委ねることを拒みました。彼の暗闇の核心は、神様に支配権を完全に譲り渡すことを拒んだことでした。

 ファラオは、神様のための家畜を自分に留める権利を主張することで、主権を放棄することを拒否していました。ファラオは神様に自分の条件を提示して取引しようとしました。しかし、神様と共に歩むことを拒む心は、暗闇の心です。

  神様はご自分の民とファラオの民を区別しました。23節に「イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。」と書かれています。これはゴシェンの全域です。真っ暗闇はエジプト人だけに降りかかりました。

 暗闇と同様、光にも霊的な意味があります。光は善と真理と神聖さと救い 、復活のイエス・キリストご自身を表し、 天から降る聖なる都エルサレムに輝くイエス・キリストにつながり、すでに与えられている永遠の救いが終わりに完成する確信につながります。

使徒ヨハネは「神は光であり、神には闇が全くないということです。」 と語り、ペテロは「預言のみことばは暗い所を照らすともしび」であると語っています。したがって、罪人が救いに招かれた時、「あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方」イエス様に招かれたとされ、パウロは、「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。」と励ましています。

 イスラエル人が光の子であった証拠は、ファラオとの最後のやりとりの場面で、全ての妥協を拒んだことでした。ファラオの提案を受け入れることは、誘惑的だったに違いありません。しかしモーセは、神様においては全てか無かであることを理解していましたので、妥協することなく、要求を受け入れ行うよう強く求めました。モーセはファラオと交渉していたのではなく、神様の命令を下していたのです。彼がファラオに語ったのは、まさに「あなたは私たちがいけにえを捧げることを許さなければならない」ということでした。

 神様はモーセにイスラエルの人々と家畜全てを連れて行くよう命じました。これが神様が常に求めておられるものです。私たちが持つ全てと、私たちが存在する全てです。モーセが神にすべての家畜を捧げることを主張した理由は、自分にもとめられているものを理解していたからです。ファラオは、ひづめ一つすら手に入れられないのです。

 第九の災いは、罪の暗闇と神の栄光の輝きの絶対的な違いを示しています。暗闇の中で生きることは恐ろしいことです。残念ながら、ファラオはこの時、モーセを追い出したことで、暗闇の中から脱出し光の中に入る最後のチャンスを無駄にしました。モーセは神様の預言者であり、命を守る言葉を蓄えていました。実際、ファラオを暗闇から救えるのは神の使いモーセだけでしたが、ファラオは耳を貸さず、何回もとりなしの祈りをしてくれた、モーセを追い出しました。

 ヨハネの黙示録には次のように記されています: 「第五の御使いが鉢の中身を獣の座に注いだ。すると、獣の王国は闇におおわれ、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。そして、その苦しみと腫れもののゆえに天の神を冒瀆し、自分の行いを悔い改めようとしなかった。」このみことばは、出エジプト記の災いが、来るべき裁きの予兆であることを思わせます。

 来るべき暗闇から逃れる唯一の方法は、世の光であるイエス・キリストを信じることにあります。イエス様が生まれた時、「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」と記されています。私たちをその光へと導くために、イエス様は私たちの暗闇に入らなければなりませんでした。聖書は、イエス様が十字架にかけられた時、「全地に暗闇が覆った」と説明しています。この暗闇は霊的な意味を持っていました。それは、イエス様が私たちのすべての罪の責めを負い、神様の敵のための暗闇の呪いの中におられたことを示しています。その後、イエス様は墓に葬られ、陰府に下り、三日間最も深い暗闇の中に留まりました。しかし、3日目にイエス様は死に打ち勝ち復活され、神の栄光の光に輝きながら、新しいみからだで現れました。今、キリストに立ち返る人は皆、イエス様の救いの光の中に入ります。それをパウロは「「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。」と言い表しています。

 光の中に入る人は神様に心を捧げます。神様が何を要求されるか事前に知らなくても、何も隠さずに捧げます。あるイエス様を信じている人が、次のように証しされています。 「神様が私に何を求めておられるか、どのような犠牲を求められるか、私は知りません。貧しい人々の必要や教会の働きに何をささげるよう求めておられるか、私には分かりません。神様に仕えることが、私の時間や賜物、苦しみをささげることにおいてどれほど価値があるのか、私は知りません。私が知っているのは、私はすべてをイエス様への奉仕に捧げたということです。ですから、イエス様が私に求めるものは何でも、私はお献げします。イエス様は私の罪のために尊いいのちを捧げられました。私はイエス様の栄光のために、喜んで私の全人生をお捧げします。」 この方のように、光の中を歩みましょう。信じることを先延ばししてはいけません。神様は、私たちが暗闇の心から離れ、私たちの心を神様に捧げ、罪を赦され救われて、光の中を歩むよう私たちに呼びかけておられます。イエス様はヨハネ8章12節で「「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」」と招いておられますから、このみことばを素直に受け入れ、しっかりと握りしめていのちの光を頂き、イエス様の光の中を歩んでまいりましょう。

About the author: 東御キリスト教会

Leave a Reply

Your email address will not be published.