12/14 ゼカリヤ書9:9-10「平和の王が来られた」

今日でアドベント3週目に入り、世間はすっかりクリスマス仕様となってきました。イエス様の誕生をお祝いするクリスマスに向けて、本日はイエス様の王としてのお姿を共に見ていきたいと思います。皆さんは王様に対してどのようなイメージを持つでしょうか。日本には王がいないためあまり馴染みがないかも知れません。しかし世界の歴史を振り返ると、その権威の大きさ、力強さが際立ち、そのリーダーシップをもって人々をまとめあげるトップとしての姿が見られます。しかし、今回の箇所を見てみますと、そのイメージとは異なる姿が見られます。確かに勝利を与えるお方には違いありませんが、ロバに乗り、柔和な姿で、諸国の民に平和を告げる王として語られています。ゼカリヤを通して語られたこの平和の王とはどのようなお方なのか、そして、私たちとの関係はどのようなものなのか、共に教えられたいと思います。

本論

今回お読みした箇所は、旧約聖書の中でも特によく知られている預言です。イエス様が十字架にかけられる前、祭司長たちがイエス様を捕えるために本格的に動き出した頃、イエス様はこの箇所で記されている通り、子ロバに乗ってエルサレムに入城しました。この出来事はゼカリヤの預言の成就であり、この王はイエス様を指していることは聖書において明らかにされています。これから迎えるクリスマスは、この王が来られたこと祝う日なのです。

ではこのお方はどのようなお方なのでしょうか。王の到来を告げるこの箇所は、当時のイスラエルの民たちに希望を与えることになります。それも彼らが期待していたような、ダビデの再来を思わせるこの世的な強さを持つ王ではなく、主なる神が来られるというさらに大きな希望です。9章1-8節までのところでは、イスラエルの近隣にある敵対した国々に働かれた主の御手と、ご自身の民を見張り、守ってくださる主の目について語られました。イスラエルのために動き、栄光を与えるのは人ではなく、神様ご自身であり、その神様を待ち望むように呼び掛けています。娘シオン、娘エルサレムと神様は親しく民たちに声を掛けます。原文であるヘブライ語は、都市や地名を表す名詞は女性名詞となるため、娘と呼んでいます。シオンはエルサレムの町であり、厳密に言うと神殿が立っていた区域を指しています。神様はここで、一方的な命令としてではなく、愛する民一人一人に対して、主なる神様がイスラエルに来られることを喜びなさいと希望を与えます。

この王がどのようなお方なのか、9節の後半を見てみますと、義なる者、勝利を得る方、柔和な者だと記されています。

Zech. 9:9    娘シオンよ、大いに喜べ。 娘エルサレムよ、喜び叫べ。

                  見よ、あなたの王があなたのところに来る。

                  義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。

                  雌ろばの子である、ろばに乗って。

これまでのイスラエルの王や異邦の王など、他のすべの王は義において完璧ではなく、不完全な形でした示すことが出来ませんでした。しかしこの王は、神様の揺るがない基準において正しいお方であり、神様の完全なる体現者です。また民たちの敵や悪を打ち破り勝利を得る方でもあります。しかし一方で、それらを誇って高ぶるのではなく、へりくだり、謙遜のうちに成し遂げるお方でもあります。その王は権利と栄光を表す軍馬でなく、小さなロバに乗って来られます。正しさと勝利を得る力を持ちながら、ロバにのって柔和に、へりくだった態度で来られる王であると聞くと矛盾しているように聞こえるかもしれません。しかもそれが主なる神であるならばよりそのように思うでしょう。他の敵国の王や、イスラエルの歴史の中に登場したどの王とも全く異なるこのお方こそが、人々に大きな希望を与えるのです。

この王によって与えられる希望は平和によるものです。

Zech. 9:10  わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。

                  戦いの弓も絶たれる。

                  彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、

                  大河から地の果てに至る。

ここでエフライムとエルサレムが並んで記されることで、かつて分裂したイスラエルの12部族が一つになることを表しています。民たちは一人の王によって治められ、その支配によって戦争の脅威から解放され、もはや戦車も軍馬も弓も不必要になるのです。

この王によって与える平和は、世界各地にまで広がることになります。平和と聞くと、争いや戦争のない世界を思い浮かべるかと思います。確かにここでも、神様ご自身が戦車や軍馬を取り除き、戦いの弓を絶つと約束しています。しかし、神様の約束される平和はそれだけではありません。むしろそれを超えた豊かさがあります。平和は、原文のヘブライ語ではshalowmとなりますが、この言葉は、完全性、健全性を表し、神様の祝福に満ちた豊かな生活を意味します。王がここで宣言するのは、国同士の平和に限らず、神様との平和、そしてそれによって与えられるすべての祝福なのです。戦争と平和、戦いにおいて勝利を収めつつ、柔和でへりくだった姿勢を持つ対比が、私たちの救い主としての姿を現しています。神様はあらゆる悪に打ち勝つ力も持ち、完全に義なるお方であり、罪や悪を打ち破る勝利者となられる方です。しかし、この平和の王は権威を振りかざして断罪するのではなく、すべての人々に救いをもたらし、すべての人に平和を約束されます。その支配はイスラエルを超えて全世界へと広がり、例外なく救いを実現されるのです。

ここで私たちの視点を旧約聖書から新約聖書に移し、平和の王の姿をイエス様に当てはめてみたいと思います。イエス様は、マリアを通して人として生まれながらも神様ご自身としてこの地上に来られました。遠い天において一方的に救いを与えるのではなく、「あなたの王があなたのところに来る」と記されている通りに到来しました。イエス様はまず何よりも、契約の民であるイスラエルにその姿を現し、旧約聖書の時代から語られた約束を果たしました。そしてゼカリヤが預言した通り、ロバにのってエルサレムへと来られました。すべてを治める王であられる神様でありながら、イエス様は私たちと同じ目線に立ち、社会の中で生き、語り合い、そして各地を回って救いを宣べ伝えました。神様でありながらへりくだって人としてお生まれになったイエス様は、ロバに乗ってその柔和な姿を示し、そしてさらに十字架の死にいたるまでその身を低くされました。イエス様がここまでへりくだるのは、抵抗する力がなかったからではありません。自らの意志で、ご自身の持つ力と権威を捨て、いのちを捨て、父なる神様の御心に進んで従ったからです。ここに、他の王とは異なる柔和があります。イエス様は力によってではなく、謙遜と柔和の限りを尽くして、私たちを平和へと導かれたのです。

人の目には、神様が人となったことも、ロバに乗ってエルサレムに入城することも、十字架にかけられたことも、力を失い弱まって敗北されたように映るかも知れません。王と呼ぶにはあまりふさわしく見えないかも知れません。しかし、他でもないイエス様がその身を低くし、力でなく平和の中で到来されたことによって、私たちは罪を赦され救われたのです。義なる者でありながら、私たちの罪を背負って身代わりとなり、甘んじて十字架の苦しみを受け入れることによって、罪の贖いが達成されました。私たちは、イエス様を通して罪に勝利し、本当の平和を獲得するのです。罪によって神様との関係が断絶された私たちが、イエス様の十字架によって神様と和解し、神の子として平安のうちに歩むことが出来るようになりました。イエス様を主とするすべての人たちに、この平和が与えられます。そこには例外はありません。すべての人が救いに与るために、神様の愛が全世界に広がるために、イエス様は誰よりもへりくだって喜んでこの世に到来し、そして自ら十字架の死に従い、復活されました。

イエス様によって実現される平和の良き知らせは世界に広がります。その良き知らせに応答し、イエス様に信頼する人たちに対して、神様は希望にあふれる未来を約束されます。イエス様がおられた時代の人々は、王の到来の預言を信じていましたが、彼らが期待していたのは、ローマの支配から解放してくれる軍事的な力を持った王様でした。しかし、軍馬ではなくロバの背に乗って来られたイエス様のもたらす平和と解放は、地上での期待を超えた罪の支配からの解放であり、また勝利なのです。私たちの地上における一時の平和ではなく、神様から与えられ、神様との間に結ばれた平和が永遠に与えられ、罪の苦しみから真の平安へと私たちを導いて下さいます。shalowmという言葉は、平和という意味とともに平安という意味も持ちます。私たちは、柔和な者であるイエス様を信じ、イエス様の十字架の愛を受け入れた時、主にある平安に満たされ、励まされ、歩む力をいただくことができるのです。

私たちのためにロバに乗って来られた平和の王を、今迎え入れたいと思います。「見よ、あなたの王があなたのところに来る」ここでは複数形ではなく、単数形であなたと呼びかけていることが分かります。イエス様による平和は、神の民や全世界の人々に広がりますが、多くの人の一部として与えられるのではなく、個人としてのあなたに平和が与えられるのです。他でもないあなたのために、イエス様はお生まれになり、へりくだり、十字架の死に従い、そして復活にまで至り、平和を実現されました。イエス様をその心に迎える時、この世的な表面的な平和でなく、本当の意味での平和が約束されるのです。罪という束縛から解放され、父なる神様の御許で永遠に生きる、神の子として豊かないのちを得るという確かな勝利がここに約束されます。

この平和の王の誕生を共に喜びたいと思います。このお方のご支配の中で、神様の義を持ち、罪に勝利し、その愛に与っていきたいのです。今、あなたの平和のために来られたイエス様とともに生き、そして確かに約束された勝利の道をともに進んで行きましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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