12/7 ルカの福音書1:46-56「人生を逆転させるイエス様」

導入

 今日の聖書箇所は46節からのマリアの賛歌ですが、26節から朗読していただきました。親類のエリザベツがバプテスマのヨハネを身ごもって六か月目に、今読んでいただいたように、マリアは御使いから「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」と言われました。そして御使いの語りかけにマリアは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と応答しました。そしてナザレから160キロはなれた、ユダの町に住むエリサベツを訪ね、エリザベツのお腹の子が喜び、エリザベツも聖霊に満たされ「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」と賛美して、マリアに祝福の言葉をかけた後マリアがこの賛美を捧げました。

本題

 マリアの賛美の内容は、神様が人々に示された栄光ある憐れみを宣言したものでした。マリアは神様の救い、約束された救い主メシアによって成し遂げられる救いを宣言しました。彼女は、救い主が御自身を畏れる者たちには歓迎されますが、高ぶる者、権力者や富める者たちには拒まれると預言しました。

 まず彼女は「わたしの魂は主をあがめます」と賛美しました。「あがめます」は主の偉大さを宣言しますという意味の言葉です。彼女は絶えず主を大いなる者として告げ知らせ続けました。主こそが彼女の賛美の中心であり、賛美と喜びの中心となる部分でした。

 御使いは実在していて、処女である彼女が神の子を宿すというその言葉は真実だという確信と確証を彼女は信仰の中で得たのです。

 マリアは自分が救い主を必要としていることを認め、自分が罪人であり、他のすべての人と同じように救い主を必要としていることを悟りました。そして、さらに大切なことは、彼女が「私の霊は私の救い主である神をたたえます」と個人的な告白をしたことでした。彼女が救い主を必要としていることを神様が見られ、救ってくださったことを宣言したのです。

 神様は彼女が低い身分であることを顧みられました。マリアは、いかに卑しい者であるかを自覚していて、「卑しいはしために目を留めてくださった」と感謝したのです。世の中の人々の目には、彼女は、若く、貧しく、目立たず、取るに足らない、まさに「この卑しいはしため」でした。

 私たちは皆、自分がどこから来たのか、神様に救われた時どれほど深いところ、罪の闇まで落ちていたのかを知らねばならないということを、ローマ人への手紙3:23‐24で「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」と使徒パウロが教えています。

 神は往々にして最も身分の低い者を選び、ご自身の憐れみと力をより明らかにされます。コリント人への第一の手紙1:27-28では「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」と使徒パウロは語り、私たちを励ましてくれています。

 そしてマリアは「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」と感謝します。神様は彼女を人々の記憶に残してくださいます。すべての信仰者はマリアの神様に対する大きな信頼と献身を高く評価することになります。

 続けてマリアは「力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの」と言って、神様のお力を宣言しました。

 大きなこととは、約束された救い主メシアが今まさにお生まれになるということでした。何代にもわたり待ち望み、預言され、世界が望んでいたことが今まさに起ころうとしていました。神様のお力は、かつて誰も見たことのないような方法で現わされようとしていました。

 約束された救い主メシアは男性と女性の行為からではなく、処女から生まれるということでした。それはいまだかつてない出来事であり、奇跡でした!救い主メシアのお誕生において、神様の計り知れないお力が示されようとしていました!まさにマリアが証言したように、「力ある方が、私マリアに大きなことをしてくださった」のです。

 この時、マリアは神様の聖さを「その御名は聖なるもの」と宣言しました。それは言い換えますと、神様は世の中のすべてと異なる特別な存在として区別されるべきお方だということです。神様の存在そのものが他と異なります。神は純粋な存在であり、完全な存在です。神様は御名において聖く、存在において聖く、他のすべてから区別され異なります。

 マリアはまた「主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。」と言って、神様のあわれみを宣言しました。

 神様はマリアという一人の個人的な救い主である神様の栄光に満ちた憐れみを示されたので、「私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」とマリアは賛美したのです。それは、神様がご自身を畏れ敬う者たちに、ついに救い主メシアを世の中に送ってくださったことの、神様の栄光あるあわれみの宣言でもありました。

 詩篇103:17に「【主】の恵みはとこしえからとこしえまで主を恐れる者の上にあり主の義はその子らの子たちに及ぶ。」と歌われています。

 51節から53節で、マリアは救い主メシアが来られたことにより、神様が世の中の秩序、順番を逆転させられることを宣言しました。その全てはギリシャ語のアオリスト時制と言われる過去形で、もうすでに起こったかのように表現しています。マリアは未来を見通し、未来の時点に立って、メシアが来られることが既に成し遂げられたと宣言したのです。

 そして注目すべきは、主が愛ではなく「御腕のお力」によって「力強いわざを行い」、お力によってそれを成し遂げられたことです。 「主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされ」ます。高ぶる者はその「心の思い」が高慢です。その人たちは見た目や、地位や、能力など様々なものごとによって、自分たちを他の人たちよりも優れていると考えます。マリアは、終わり日に主がそのようなあらゆる高慢を散らすと預言しました。つまり、権力者から王座を奪い、「低い者を高く引き上げられ」謙遜な者を高められます。権力者とは、他の人々に対する権力・影響力を持つ座に就き、自分の権力を用いて他の人を低く押し下げ、いじめ虐待し、時には奴隷のように扱う者たちです。

そして、主は「飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返され」ます。この世の富だけにおいて富んでいた者たちは、すべての地上の富を剥ぎ取られ、空っぽにされて追い返されます。そしてこの世においては何も持っていませんでしたが、終りの時、神様を信頼した者たちは、すべての良いものを受け取った者と見なされます。まさにエペソ1:3で「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」と賛美しているとおりです。

54節から主の憐れみと誠実さを賛美します。

 イスラエルの人々はローマに支配され、神様の憐れみと救いを心から必要としていながら、多くの人々が偽りのメシアや救いに目を向けてしまっていました。そのような時、主はご自身の憐れみを忘れることなく、「私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずにイスラエルを助けてくださったとマリアは主をほめたたえています。主の約束が成就、実現したのです。神様は世界の救い主メシアを送ってくださいました。

 マリアはエリサベツのもとで約三か月滞在しました。これは妊娠したことが確実になるのに必要な期間でした。実際に起こることが、証明されるまで、彼女はエリサベツの励ましを必要としていました。13,4歳と言われている、マリアの純真な子供らしさが現われた時でした。霊的に成熟していたエリザベツの支えと励ましを必要としていたのです。

結論

 ここでのマリアの賛歌は、イエス様のお誕生から公生涯、そして十字架上で死んで葬られ、復活されることによってもたらされる逆転について語ったものです。キリストは「高ぶる者」を散らす方となられます。マリアはキリストの御業によって、高ぶる者たちにもたらされる最後の逆転と裁きを賛美し-ました。これは、高慢な者を低くし、謙遜な者を高くするという福音の力強い逆転を予言するものでした。イエス様ご自身が比べられないほどの模範です。ご降誕と十字架においてイエス様は、ご自分を低くされ、謙遜となられました。それによって天に帰られ、栄光の御座に座られたのです。

 福音の良い知らせは、謙遜な者を高く上げ、高ぶる者を低く打ち倒し、力強い逆転をもたらすことを語っています。イエス様を信じることにおいては、下は上になり、上は下になるのです!

 この偉大な真理は最後の審判において完全に実現されますので、預言の表現においては成就した事実となります。この原理は極めて確実なため、マリアはすでに起こった形で賛美しました。そして「主は権力者たちをその座から引き下ろし、謙遜な人々を高く上げられた」と賛美したのです。マタイ5:5で「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」とイエス様が言われていますように、確かに「地を相続するのは柔和な人々」であって、自己中心的ではなく、神に対して謙遜で、罪を悔い改め、神を信頼して歩む人が、神の国、御国、天国を相続します。ですからペテロは「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」と厳かに勧めています。合言葉は逆転に備え、準備せよ!です。「高くされる」とは、過去の不幸や苦難の逆転、無理やり上から押さえつける支配者に対する勝利、天国でキリストの栄光に加えられることです。大牧者イエス様が再び現れる最後の日、その時、忠実に従った者たちは皆、高められ天国で永遠の栄光を与えられるのです。謙遜に神に従いなさい。そうすれば、神様の良い時に、神様はあなたを高く上げてくださいます。イエス様が私たちの罪を担い十字架で死なれた時、ご自身を完全に低くされたこと、そして神様がイエス様を最も高い天にまで高く上げられたことを、私たちは覚えておきましょう。

 イエス様はマタイ5:6で「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」と教えておられます。そのような飢え渇きに対する神の報いは完全な満足です。またイエス様は「 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」そして「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」とも言われました。

イエス様を信じる者として、私たちは霊的な飢え、つまり、霊的な心の栄養、神様のご愛や真理、人生の目的などを求めることが「祝福」であることを知る必要があります。私たちは霊的に飢え、心の豊かさを求め、満たされ、最高の満足を得る。その満足がさらに深い霊的飢えを生み、神様のご愛や真理などを求め、さらなる満たしと祝福された満足へと導いていきます。こうして飢えて、満たされ、満足するという、気高い逆転が聖霊の導きによって繰り返されていきます。それによって、私たちはますますキリストに満たされていくのです。

イエス様は、この世の愚かな人、弱い人、取るに足りない人、見下されている人、無に等しい人の代表者として、十字架にかけられ、高く上げられました。世の中の、自分たちは知恵がある者、強い者、あらゆるものを持っている者だと思い、思い上がり高ぶって、高慢になっている者は、神様の御前にへりくだり、罪を悔い改めて、信じる人々とは正反対の人々です。私たちは、物や、金や、名誉などに支配される世の中とは反対に、イエス様を信じて一体とされ、彼らから見れば、私たちは愚かに見える人、弱い人、取るに足りないような人、見下されているように見える人、無に等しいような人かもしれませんが、聖霊が私たちの中に住んでくださり、霊的に新たに創造され永遠のいのちを頂き、世の中の価値観とは聖別された聖い歩みを神の国でさせていただき、終わりの時には、祝福され、高く上げられ、天国で永遠に神様と過ごさせていただく者たちです 

 アドベントの歩みの中で、クリスマスに向けて、人生を逆転させてくださるイエス様に感謝の思いを高めてまいりましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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