9月14日 ヨハネの福音書14:25-31「イエス様の平安が与えられて」

イエス様は十字架の時の前に、弟子たちにご自身の進む道とその先の栄光を教えてきました。話を聞く中で不安を覚える弟子たちに、イエス様は平安を残すことを約束されました。それも世が与える平安とははっきりと区別して、わたしの平安を与えると語られました。不安が尽きることのないこの世の中において、世ではなくイエス様の平安とは何なのか、そして、イエス様を通して私たちが、共に見ていきたいと思います。

本論

1.助け主

前回までの箇所では、イエス様が天に上げられた後に助け主が与えられることが語られました。イエス様が地上を離れた後は、その代理人としてもう一人の助け主である聖霊が与えられることが約束されました。私たちのうちには、このお方がともにおられること、そして私たちもまた主イエス・キリストを愛することを求められていると教えられました。

今回の箇所では、その続きから語られます。イエス様がこれまで語ってこられた真理は、やがて遣わされるもう一人の助け主である真理の御霊によって思い起こされ、現段階では理解できない深い意味が明らかにされます。イエス様が父なる神様の御名によってこの地に遣わされたように、この聖霊も、イエス様の御名によって、イエス様が父なる神様に願ったことで与えられます。イエス様がここで語る「わたしの名によって」という言葉は、原文に基づいて訳すと「わたしに代わって」という意味になります。イエス様は地上におられる間、様々な御言葉を語り、しるしを行い、多くの人々に神様を証しし続けてきました。しかし、イエス様の教えや話された御言葉を、弟子たちや多くの群衆は正しく理解することが出来ませんでした。イエス様が復活され、栄光を受けた後、イエス様はもう一人の助け主である聖霊を弟子たちに送ります。その聖霊によってイエス様の御言葉が思い起こされ、イエス様の教えを正しく理解し、彼らは大きく変えられるていきました。イエス様の御言葉や御心を悟ることが出来ず、つまづき、敵から逃げたあの弟子たちが、イエス様の真理を正確にそして完全に理解するに至ったのは、この助け主がおられたからです。イエス様が天に上げられた後も、彼らは孤児とされずに聖霊がともにおられ、そしてイエス様の真理を正しく知り、福音を語る使徒として遣わされていきました。

2.平安

イエス様は前回の箇所から続けて聖霊による助け主を送られることを弟子たちに約束されました。その上で、残される弟子たちに与えられる平安が語られます。

John 14:27  わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

聖霊に続けてイエス様が約束されたこの平安は、旧約聖書の時代から人々の間で語られたものであり、イエス様の到来によって実現されると約束されたものの一つでした。イエス様は、十字架にかかられる前夜、弟子たちが不安を覚えている今、彼らに平安を残すことを語られました。イエス様はここで、世が与える平安ではなく、わたしの平安を与えることを強調しています。イエス様は、御子としての立場を惜しいとは思わず、父なる神様の御心に従って苦難を受け入れ、人々の救いのために贖いの死をこれから遂げようとされました。そしてイエス様は、罪の誘惑に打ち勝ち、この地上における安全や希望を捨て去るときにも、あらゆる苦悩をもってしても失うことのない平安を内に持っていました。そのイエス様の平安を、ご自身だけでなくイエス様につながり、ともに歩む者たちに残されました。イエス様の十字架の贖いによる罪の赦しを信じ、イエス様を愛する人に対して、力と慰めがもたらされます。この平安は、苦悩や困難が完全になくなるという見かけ上の安定を意味しているのではありません。イエス様が生涯を通して示された平安、激しい困難があっても揺るがされることのない平安が、これからの弟子たちやすべての信じる人たちのうちに残されるのです。弟子たちはこれまでも、イエス様が病気や罪に苦しんでいた人々の生活が回復され、平安へと導かれていく様子を見てきました。また弟子たち自身も、困難の時にイエス様がともにおられることの安全を体験してきました。弟子たちは自分の力によって持った平安がいかに乏しいかを示されました。ガリラヤ湖で嵐の中、イエス様が船で眠っていた時に、彼らは大きな恐れと焦りを見せました。彼らの中には船の扱いに慣れた漁師もいましたが、誰もが冷静さや平安を失い、イエス様に叱責されました。また他の場面では、荒れる湖の中、湖の上を歩かれるイエス様から「わたしだ。恐れることはない」という確信に満ちたイエス様のことばを聞いた弟子たちは、喜んでイエス様を船に迎え入れました。イエス様が地上を離れ、天の神さまのもとに行かれるということは、これまで弟子たちが体験したイエス様の平安を失うのではなく、むしろ一人一人のうちに確かに残されていくことを約束するのです。イエス様はこのタイミングで約束されたのは、これから弟子たちに訪れる彼ら自身の試練を乗り越えることが出来るように、備えるためでした。イエス様はこの平安のうちにあって「心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」と命じられました。イエス様ご自身も、弟子の一人であるユダが裏切ることを宣言された時に、心が騒ぎました。しかしイエス様のうちにある平安によって自らの心を静め、十字架の現実に、そしてこれから起こる出来事を受け入れました。弟子たちも、イエス様が離れる出来事を通して恐れを抱くのではなく、神様との関係の中でその心と歩みを神様に委ねることによって、騒ぎ立つ心は静まり、ひるむことなく乗り換えることが出来ます。

3.御父

イエス様はさらに、心を騒がせるべきでない理由として、ご自身が父のもとに行かれることを上げました。彼らはイエス様との一時的な別れを恐れていましたが、そうではなく、イエス様が父の御許に行くことで、彼らといつまでもともにいることが成し遂げられるのです。それこそが、彼らにとっての本当の喜びであり、表面的でなく本当にイエス様を愛する者の希望でもあります。イエス様は、父のもとに行き、その右の座に就くことで、かつての栄光を持って彼らとの交わりを持つようになります。ここでイエス様は「父は私よりも偉大な方」であると語られます。しかしそれは、父なる神様がイエス様より優れているとか、イエス様が元々劣っている、あるいはイエス様が神でないことを証しているのではありません。父なる神様からこの世に遣わされたイエス様は、神でありながら人の姿として、この地上でへりくだり、私たちと同じところに立って下さいました。父なる神様の御心に従順な御子なる神様であり、十字架の死によってその身を完全に低くされました。そのために、イエス様が父のもとに行くことは、その全能の力を完全に回復されることを意味しています。本来持っておられた領域、この世界が創造される前から父とともに持っておられた栄光を、人として受肉した御子の状態よりも偉大なところに帰られることは、喜ぶべきことなのです。イエス様は復活された後に、弟子たちのところに帰って来られますが、その際には「平安があなたがたにあるように」とあいさつされました。平安があるようにという挨拶は珍しくありませんが、この挨拶をイエス様が、それも復活の主として神様の栄光を持って再び来られたイエス様が語られる平安は、神様ご自身の平安なのです。弟子たちは現状、自己を中心とした感情によってイエス様と離れることを悲しみますが、イエス様を愛して信じるならば、イエス様が父のもとに行かれることをむしろ喜ぶことが出来ます。だからこそ、イエス様は彼らに騒ぎ立つ必要がないことを教えました。それが失望や悲しい出来事でなく、イエス様にとって、この世のすべての人にとっての喜びとなるからです。

イエス様は今や、ご自身が十字架の死を受ける前にこのことをはっきり語られました。現段階の弟子たちの不安定な心境だけでなく、復活後の弟子たちの信仰にもイエス様は配慮されました。弟子たちは、イエス様が天に上げられた後も御言葉を通して励まされ、確信を持って主を信じ、本当の意味での弟子とされました。十字架の時が差し迫る中、イエス様は弟子たちに多くを話すことはしません。この世を支配するサタンが、イエス様への最後の攻撃をしかけようとします。しかし、イエス様はその時が迫る中、失望することも恐れることもありませんでした。

John 14:30  わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。

John 14:31  それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。

イエス様が十字架にかけられるのは、ご自身の中に罪があるからではありません。サタンとの戦いに敗れたからでもありません。イエス様の十字架は、敗北の印ではなく、イエス様が父を愛していて、父の御心に従ったことの証明です。イエス様は弟子たちに、もしイエス様を愛しているなら、戒めを守るはずだと語られました。弟子たちだけでなく、イエス様ご自身もまた、父の戒めに対して従順になることでその愛を証しされました。神様の御心は、信じるすべての人が一人として滅びることがないように救われることでした。イエス様のその御心への従順と、神様への愛は、ご自身の命を捨てて、十字架の死を遂げることで、世の人々に確かに示されました。そしてイエス様は神さまとの正しい関係を表すだけでなく、人々の罪からの解放と贖いを勝ち取りました。イエス様はサタンとの対決に向けて「さあ、ここから行くのです」と呼びかけます。「行くのです」という言葉は、原文のギリシャ語では軍隊用語で更新する、進軍するという意味も持つ言葉が使用されています。イエス様は強制されてではなく、喜んで神様の命令に従い、神様の愛を表すために、その決意を固めました。弟子たちを励ましたイエス様は今、この世を支配する者に打ち勝ち、救いを与えるために進み出ました。

適用

十字架の時が迫り、弟子たちから離れることを語られたイエス様は、弟子たちの不安を取り除き、恐れる必要がないことを伝えました。イエス様が約束された平安は、この世が決して与えることのできない平安でした。私たちは、日々の生活の中で心が騒ぎ立つ出来事にぶつかることが少なくありません。また世界に目を向ければ、平安とは程遠く感じられる動きが絶えず見られます。そのような世の中で平安を求める時、神様によらないこの世の力を持って平安を試みようとしても、根本的な解決は与えられません。エレミヤ書にて、神様から離れて偽りを働く預言者や祭司に対して神様はこのように言われました。

Jer. 6:13     なぜなら、身分の低い者から高い者まで、 みな利得を貪り、

                  預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。

Jer. 6:14     彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、

                  平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。

Jer. 6:15     彼らは忌み嫌うべきことをして、 恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。──は言われる。」

 イエス様は、表面的で偽りの平安でなく、ご自身の平安を私たちに残されました。私たちが困難に直面した時、世の中の考えや自分の思いを中心とするのでなく、神様を見上げ、神様の最善に委ねる時に、イエス様が勝ち取り、この世に示された本当の平安が与えられます。誰よりもその身を低くし、その命を捨てて、私たちの罪を背負って下さったイエス様を受け入れ、信じる時、私たちの罪は赦され、罪の支配から解放されるのです。そして私たちのうちに、主が住んで下さり、いつまでもともにいてくださいます。

私たちはこのお方によって、心を騒がせることも、ひるむこともありません。私たちのうちには、すでにイエス様の平安が残されています。罪を背負い、打ち勝ったイエス様が、今も私たちのうちにおられ、ともにあらゆる困難を乗り越えて下さいます。私たちの目線を神様に向けて、世の平安でなく、本当の平安をともに求めていきましょう。多くの波風が立つこの世界の中で、ともにイエス様に心を開き、委ねていきましょう。一人でも多くの方の心のうちに、イエス様の平安が満たされますよう願います。

About the author: 東御キリスト教会

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