10月12日 ヨハネの福音書15:12-17「友と呼んでくださる主」

前回の箇所では、まことのぶどうの木にとどまることを教えられました。わたしにとどまりなさいと何度も呼びかけるイエス様から、私たちはいのちを与えられ、実を結び、イエス様たちとともに喜びに満ちた歩みを持つことが出来ます。神様とイエス様の間にある愛が私たちのうちに満ちていき、私たちが結んだ実によって、この地上に神様の栄光が表されるようになる、そのような豊かな関係の中に招かれているのです。

まことのぶどうの木としてこの地に立てられたイエス様は、その愛にとどまるように私たちに教えています。そして、私たちを結び付けたイエス様の愛が、今回はさらに広く深いものであることを示されました。私たちをしもべではなく友としてくださるイエス様の人格的で深い愛がそこにあります。そしてその愛が、兄弟姉妹の間に広がっていきます。聖書箇所を追いながら、イエス様が与えられる愛がどれほど豊かなものであるのか、共に教えられたいと思います。

本論

1.友

 イエス様は、神様とイエス様との間にある愛による豊かな交わりに、私たちも招かれていることをこれまで語ってきました。イエス様と私たちの間に愛があることを示された後、今度はその愛を互いに与えるようにと命じています。

John 15:12  わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 父なる神様がイエス様を愛したように、イエス様も私たちを愛しました。そしてイエス様が愛したように、今度は私たちもお互いに愛し合う。イエス様と結ばれた愛は、イエス様との間だけで終わるのではなく、横にも広がっていくのです。イエス様の愛に応えるだけでなく、この世の人々の間で愛を表していくことが戒めとして私たちに与えられます。これまでも、イエス様に従うこと、とどまることを戒めとして示されてきました。ここでは、イエス様との直接的な関係でなく、私たちの間における関係において、愛の戒めを教えられました。新しく与えられたこの戒めは、神様からイエス様、私たちに与えられた愛を、私たちが与える立場となり、互いに行うように導きます。

 イエス様のように愛するというのはどういうことか。イエス様の愛は、そのいのちを捨てて私たちが滅びることがないように救って下さった自己犠牲的な愛です。13節で「いのちを捨てる」と訳された言葉は、tithēmiというギリシャ語になります。これはより直訳的に言うと「魂を置く」となります。置くということは、ご自身のもとから手放して放棄する、差し出すということです。私たちが背負わなければならなかった罪は、父なる神様と子なるイエス様の愛によって贖われました。イエス様がその身を十字架にかけられた時、他に代えられない大きな愛が私たちに確かに示されました。自分のためにではなく、御子を信じる弟子たちのために自らいのちを手放すほどの愛が私たちのうちに満ちています。イエス様は8章でご自身の愛を良い羊飼いとして例えられました。本当に良い羊飼いは、自分の羊のためにいのちを捨てることも厭わず、羊たちに豊かないのちを与えます。今回の箇所では、いのちを捨てるという点は同じですが、イエス様はさらに近い距離で私たちのことを友と呼んでくださいます。

John 15:14  わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

John 15:15  わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

 私たちは、イエス様の十字架によって贖われ、イエス様の血潮によって買い取られ、罪の奴隷という束縛から解放されました。イエス様はご自身のいのちによって買い取られた私たちを、しもべや奴隷としてではなく、友として迎え入れて下さったのです。しもべと友の大きな違いとしてイエス様が語られたのは、イエス様と神様がなさろうとすることを全て知らせたという点です。かつてアブラハムも神の友と呼ばれました。神様はソドムとゴモラをその罪の故に滅ぼそうとなさいましたが、その前にアブラハムに対してご自身の計画を伝え、またアブラハムの切実な訴えの声も聴かれました。神様は神の友と呼ばれるアブラハムに対して次のように考えられました。

Gen. 18:17  はこう考えられた。「わたしは、自分がしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか

主人としもべの間柄であれば、このような葛藤や思いはなく、一方的で絶対的な権力によってしもべに従うように命じます。しかし友としてであれば、ご自身の考えを伝え、信頼を寄せ、主人の心と思いを示した上で従うように導きます。友という近い距離に立つことで、イエス様の権威が失われるということはありませんが、その御心とご計画を私たちに隠すことなく知らせて下さる特権に与ることが出来るのです。

 しかし私たちがイエス様とそのような近しい関係になるには、一つの前提があります。「わたしが命じることを行うなら」私たちは友としての関係を持つことが出来るとイエス様は語ります。イエス様に従うこと、つまりイエス様の前に心を開くということです。イエス様はこの最後の晩餐の場面にて、弟子たちに何度もご自身の戒めを守るように教えました。戒めを守り、従順であることが条件だと聞くと、先ほど述べた主人としもべの関係と変わらないように思うかも知れません。しかし、イエス様が友と呼ぶ者は、イエス様に従順な者であるだけでなく、いのちを捨てるほどに愛している者でもあります。15:10で言われているように、イエス様の戒めを守るなら、イエス様の愛にとどまっているのです。愛と戒めは密接につながっていて、そのつながりは父なる神様と子なるイエス様の間に豊かに結ばれています。イエス様はその生涯を通して父の戒めを守ることで、父の愛にとどまることを示されました。この豊かな愛の交わりに私たちも加えられることにより、イエス様のうちにある喜びが私たちのうちに満ちていくのです。それに加えて友としての特権は、その御心を知らされ、御心に大きく近づくことも教えられます。イエス様が来られたことによって、イエス様がしもべとしてではなく、友として弟子たちを招いて下さった今、これまで以上に神様の救いの計画が人々の間に示されていきました。弟子たちはイエス様が示された父の御心をすぐに理解することは出来ませんでしたが、後に遣わされた助け主である聖霊によって、その御心と救いの計画を理解しました。イエス様は神様の御心を完全に知り、行うお方です。父と子の間には、決して切り離されることのない深いつながりと愛があります。そしてイエス様は、その愛と御心を余すことなくすべて私たちに与え、親しい交わりに招いています。その招きに対し、私たちがイエス様を愛し、イエス様に心を開いて従う時に、私たちはイエス様の友としての特権に与ることが出来るのです。

2.選び

 私たちがイエス様の友とされる特権が与えられたのは、私たちに優れた点があったからではありません。イエス様は友と呼ばれた後に続けて、弟子たちの心が高ぶることがないように、その理由について次のように言われました。

John 15:16  あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 イエス様からの一方的な恵みの中で、私たちは友とされました。私たちとイエス様の関係は、イエス様が私たちを選んでくださったことに始まります。そしてイエス様は、私たちを任命してくださいました。この任命したと訳されている言葉は、13節でいのちを捨てると訳されているtithēmiが使われています。この言葉は幅広い意味を含むもので、特に神様が誰かを何かに任命、または配置するという意味でも用いられます。いのちを捨てるという意味も、任命するという意味も、神様の主権的な決定によって、何か起こるかを定めるというニュアンスが貫いています。イエス様がご自身のいのちを捨ててまで愛して下さり、友と呼んでくださった私たちは、今度は行って実を結ぶ者として任命してくださったのです。ここで結ぶように語られる実というのは、弟子たちがここから遣わされていく奉仕、つまり伝道によって与えられる実を指しています。私たちがイエス様から選ばれた目的の一つは、イエス様を知り、愛された弟子が、今度は他の人々を信仰に導く、つまりイエス様にとどまるぶどうの枝を広げることにあります。私たちが出て行って伝道し、どの伝道の実がいつまでも残るようにと、イエス様は私たちをその働きに任命しました。それだけではなく、イエス様は、ご自身のお名前によって父に求める祈りを、父が与えて下さることも約束してくださいました。イエス様にとどまり、イエス様の御名によって祈るとき、私たちの求める声はイエス様の御心に従うものとなり、その一体となった祈りに神様は確かに答えて下さいます。私たちはこの地において、イエス様との結びつきの中で豊かな実を結び続けるようになります。

3.互いに愛する

 イエス様は今回の聖書箇所の最後にもう一度、私たちが互いに愛し合うことを命じました。イエス様が十字架にかけられた後、この地に残される弟子たちが深く結びつくために、イエス様が愛したように、互いに愛し合うという戒めを残しました。私たちはイエス様において最高の愛の模範を見出し、またイエス様が愛の源として私たちのうちに立って下さいます。イエス様は、自ら進んで弟子たちの足を洗うことで、愛の模範となり、次に弟子たちに対して互いに足を洗い合うことを命じました。その時は、主であり、先生であるイエス様が、誰よりもへりくだって仕える姿を弟子たちの前で示されました。イエス様はさらに、ご自身が生涯を通して父なる神様に従順であり、戒めを守ったことで、愛にとどまることを教えられました。そして今回の箇所では、友のためにいのちを捨てることによって、その大きな愛を私たちに示されました。私たちは何度もイエス様から大きな愛を注がれていることを教えられ、そのまことのぶどうの木にとどまることで尽きることなく愛を与えられ、実を結ぶようになります。ここまでの流れでイエス様の愛が示された弟子たちは、イエス様の愛と助けの中で、愛を与える者とされるのです。そして、主を憎むこの世において、この愛の結びつきが大きな力を私たちに与えることになります。

 私たちはイエス様から愛を与えられ、イエス様を愛する関係の中にとどまることを教えられた後、今度はこの地上において互いに愛し合うという戒めを与えられました。私たちが人々に愛を与えることに、時には難しさを覚えるかも知れません。しかし私たちは、すでにイエス様の愛に満たされ、イエス様という愛の模範を示されています。私たちがイエス様を選んだのではなく、まずイエス様が私たちを選び、私たちを友と親しく呼んで下さいました。私たちが罪に支配され、神様との関係が断絶され、背を向けて歩んでいたところに、イエス様の方から選ばれ、愛による豊かな恵みが私たちに与えられました。私たちが愛されるのに相応しいから選ばれたのではなく、ただ一方的なイエス様の愛によって、ご自身のいのちを捨ててまで救いへと導かれた愛によって、私たちは友としての特権に与っています。私たちのうちには、イエス様という愛の源がともにおられます。それは決して尽きることのない、神様とイエス様の間にあった豊かな関係です。その豊かさが人々の間に広がり、私たちはこの愛を互いに与え、豊かな交わりを持つことが出来るのです。

 そして、この愛の交わりは教会の中だけでなく、イエス様を知らない人たちにも広がり、この交わりに招くのです。私たちはそのために今、イエス様によって任命されました。イエス様の愛は、信じる人たちだけにしか分かち合うことのできない排他的なものでなく、その豊かさをもって実を結び、いつまでも残り続けていくのです。イエス様がいのちを捨てて共に与えられた愛にとどまっていきましょう。そしてその愛によって、互いに愛し合いましょう。私たちのうちにいる主が、源となり、助け主となってくださいます。そして、イエス様に任命された者として、この世に多くの実を結び、イエス様の愛を共に分かち合いましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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