10月19日 出エジプト記13:17-22 「聖霊の導きに従いましょう」 

導入

 いよいよイスラエル人は、エジプトから乳とみつの流れる約束の地へ向かって出発しました。その導き手は主ご自身でした。主は、民をわざわざ遠回りする荒野の道へと導かれました。さてそれにはどのような目的があったのでしょうか。

本題

  約束の地カナンへの最短ルートは、地中海沿岸を北上し、ペリシテ人の住んでいる所を通り抜ける道でしたが、そこを通ると神の民に対して激しく攻撃してくることが予想されました。

  やっとエジプトから脱出した神の民には戦う力も心構えも無く、戦うための武器もほとんど、持っていませんでした。彼らは兵士の魂ではなく、打ち砕かれた奴隷の魂しか持っていませんでした。神様は民が何を必要としているのかを知っておられました。それはエジプト人を恐れることから永遠に解放されることでした。そのため神様はあしの海、紅海への方向へと導かれ、イスラエルの民の前でエジプト軍を滅ぼす計画を立てておられました。

このように戦う力の無い民は、これから戦わなければならない、約束の地カナンへの進入を阻む敵と対決する前に、数十年にわたり荒野で生活することで鍛えられ、強靭になる必要がありました。また主を礼拝する民として謙遜にさせられ、信仰が大丈夫か、彼らの心の内が明らかにされ、神様の戒めを守るかどうかを試される必要がありました。

 これから彼らは神の山であるシナイ山で神を礼拝し、仕え、約束の地に入る前に、神の律法が与えられ、荒野を行く中で、救い主で、導き手、全ての源であられる神様を信頼することを学び、強い民としてつくり上げられる必要がありました。

  神様はモーセに命じて、民をあしの海、紅海へ軍隊のような「隊列を組んで」進軍するように上っていきました。もし群衆のようにばらばらに進んで行ったなら、たとえ大勢であっても、自分たちを守れる力強さや確信は生まれなかったでしょう。整えられた組織は、困難が迫って来る時、それに立ち向かうようにいつも人々を団結させ、奮い立たせます。

 19節でヨセフの遺骸、亡きがらが出てきますが、イスラエルの誰かがヨセフの亡きがらを400年以上も守り続けていました。神の民はこれから、約束の地で埋葬してもらいたいというヨセフの願いをかなえるために、神様の約束の地への大切な旅路を、ヨセフの亡きがらを携えて行ったのです。

 ヨセフは神様を信じ、神様の偉大な約束、神様がアブラハムとイサク、そしてヨセフの父ヤコブに与えられた約束を信じました。その約束は私たちがアブラハム契約と呼ぶものの中に記されています。その中には、 約束の子孫に関する約束がありました。それは偉大な国民となるアブラハムの子孫と、救い主である主イエス・キリストという子孫の両方が含まれていました。また、約束の地に関する約束がありました。そこにはカナンの地と永遠の天、天国の両方が含まれます。

 神様がイスラエルの民を約束の地へ導き、その地を彼らに与えてくださると彼らは信じていました。平和、安息、安全、そして必要となるものの神様の備えが用意されている約束の地への希望を持っていたのです。それゆえ、彼らはヨセフの願いと希望をかなえるため、彼の亡きがらを神の約束の地カナンへ運ぶ旅に出たのです。

 神様が導かれた旅の道順ですが、民をスコテからエタムへ移動させ、「荒野の端」と言われている荒野のはずれに宿営させました。これは約束の地から遠い南へ遠回りする迂回路でした。

  主は民の前に立たれ、昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって導かれました。雲の幅はイスラエルの民を灼熱から守るのに十分な広さでした。これは人々の間に主が臨在されることの目に見える象徴でした。雲と火の柱は「神の御使い」とも呼ばれました。神のご臨在が、人々をカナンの地へ導くために先立って進まれたのです。

 昼は雲の柱、夜は火の柱によってイスラエルの民をエジプトから導き、荒野を行かせたことはエジプト軍から逃れるための夜間の移動を可能にしました。エジプト軍がイスラエル人を追いつめた時、主の御使いはこの雲と火の柱を彼らの前方から後方に移し、エジプト軍を惑わしました。主ご自身が雲の中におられました。この神の臨在を示す目に見える象徴の雲は神様によって与えられ、モーセにイスラエル人を導くべき道を示しました。したがって、彼らが雲に従ったとき、彼らは自らをモーセの導きと命令の下に置いたのです。

 昼の雲の柱も夜の火の柱も、神の民を導くその場所を決して離れませんでした。神様がどれほど忠実であったかは、神様のご臨在が一瞬たりとも彼らから離れなかったことでわかります。そのようにして、神様は約束の地へ向かう旅路の歩み一歩一歩において、愛する民を導かれました。

結論

 この時に起こったことで、神様は三つの大切な真理を教えてくれています。第一に、神様は常に最善の道を知っておられるということです。

 神の民は自由へ向かって約束の地カナンへの道を歩み始めました。そこへ行くには、「海の道」と呼ばれるヴィア・マリスに沿って北へ向かうことが考えられました。脱出に良いと思われる道でした。しかし、最短ルートではあっても、最善の道ではありませんでした。なぜならそれは神様の道つまり神様が導かれる道ではなかったからです。神様は、イスラエル人がその海沿いの道を行けば激しい抵抗と攻撃に遭うことを知っておられました。当時の北シナイの地帯は軍事拠点のある地域でした。エジプト軍は沢山の要塞と長く広く深い運河で守られたこの地域に強力な軍事拠点を備えていました。さらに向かう先には強敵ペリシテ人もいました。

 神様はイスラエル人が信仰も整えられておらず、戦いの準備もできていないことを知っておられました。ここで述べられているのは、人々がエジプトを隊列を組んで出たということだけで「武装して」はいなかったのです。実際に、ペリシテ人の地で、危険に陥りそうになったら、彼らは引き返してファラオのもとへ、奴隷の生活へ逃げ帰ったことでしょう。このことは後年、彼らがようやくカナンに到達した時に起こったことでわかります。その時敵の強さを目の当たりにし、完全に意気消沈してしまった彼らは、なんと「かしらを一人立ててエジプトに帰ろう。」と言い出すのです。

 これらすべてを知ってる神様は、イスラエルの民を正反対の方向へ導かれました。神様は彼らをカナンから離れた、南へ、荒野へと進ませました。最短の道でもなく、直接たどり着ける道でもありませんでした。しかしそれは最善の道だったのです。なぜならそれは神の道つまり、神様が導かれる道だったからです。神様は民が道中の様々な苦難に耐えられることを知っておられ、彼らの信仰の成長のため、彼らが遠回りしてたどり着く必要があることもご存知でした。

 イスラエル人が長く曲がりくねった道を旅する中で、この神の道が本当に最善なのか疑うことが度々ありました。私たちの人生の中でもそのように、神様が今なさっていることが、すべて最善のためであるように思えないこともあります。しかし、ローマ8:28で使徒パウロは「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」つまり、「神様はすべてのことを働かせて益としてくださるのです」とイエス様を信じる人々を神様が全てのことを用いて良い方向に導いてくださることを教えてくれています。たとえ神様のことを疑いたくなる時でさえ、私たちは神の道こそが最善の道であると信じるように召されているのです。

 次に大切な真理は、神様が常に民を助けることに忠実であられるということです。イスラエルの民はエジプトを去る時、手ぶらで去ったのではなく、豪華な衣服や銀や金、輝く宝石を大量に持ち出しました。そしてさらに他のものも携えていました。

 それは死者のなきがらでした。エジプトの専門家によって防腐処理されたヨセフのミイラでした。そんなものを持ち歩くのは奇妙に思えるかもしれません。しかしこれは、創世記50:24-26で「ヨセフは兄弟たちに言った。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」ヨセフはイスラエルの子らに誓わせて、「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上ってください」と言った。ヨセフは百十歳で死んだ。彼らはヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めた。」と書かれていますように、これは何世紀も前にイスラエル人が約束したことでした。

 ヨセフは神様が真実なお方であると信じていました。へブル11:22で「信仰によって、ヨセフは臨終のときに、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骸について指示を与えました」と記されています。ヨセフは子孫がエジプトで奴隷となることを告げられていましたが、神様が彼らを救い出すことも信じていました。ヨセフがこれを信じたのは、神様が契約によってアブラハムに約束されたからでした。神様が遂にイスラエルをエジプトから導き出されるその時、ヨセフは一緒に連れて行ってもらいたかったのです。そのため約束の地カナンで自分の遺骨を葬ることを兄弟たちに誓わせました。イスラエル人はその約束を守り、荒野の旅の間中、ヨセフの亡きがらを運び続け、ついに敬愛の心を込めて、シェケムの家族の墓地に葬りました。それほど、故人を尊敬して納骨することを大切にしていたのです。それは現在でも同じです。この埋葬で明らかにされるのは、ヨセフが正しい神、すなわちイスラエルを救い、カナンの地へ導くという約束を果たされる神様を信頼していたということでした。神様の助けを必要とする全ての人は、アブラハム、ヨセフ、モーセの神様を信頼すべきです。なぜなら、神様はいつも忠実に民を助けてくださるからです。

 三つ目の大切な真理は、神様が人々を導くためにいつも共にいてくださることです。神様は最善の道を知っておられるだけでなく、人々が確実に目的地にたどり着けるよう、共におられ一緒に行ってくださいます。神様が民をエジプトからカナンへ導かれた時、雲と火の柱がイスラエルの民の前にいてリードし、昼夜を問わず四十年間も彼らと共におられたのです。これを説明できる唯一の方法は、雲と火の柱を真の神様の奇跡として受け入れることです。素直に信じる純粋な信仰が必要です。昼は守る雲の明るい柱であり、夜は火のように輝きイスラエルの民を誘導したのです。

 この雲が表したのは、神様のご臨在そのものでした。神様がこのような形で現れる時、栄光の炎の雲の中に、神のご臨在として現れます。これは神様の内にある栄光が外の世界に現わされた現象です。

 時々私たちは、神様が今日でも同じような導きを与えてくださることを願います。もし明るい雲が、通うべき学校、就くべき仕事、結婚すべき相手へと直接導いてくれたらどうでしょう。しかし本当のところ、神様は私たちに必要な神聖なところへの導きを、はるかに優れた形で行ってくださっているのです。神様は御霊の火、聖霊を私たちに与え、聖霊なる神様、イエス様が信じる私たちの中に住んでいてくださり、今や私たちは昼も夜も神様の栄光のご臨在を共にしているのです。まるで雲の柱と火の柱がまさに私たちの内側に入り込んで来てくださったかのようです。聖霊は三位一体の神様です。聖霊が神様であられるゆえに、使徒ペテロはⅠペテロ4:14で「栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」と私たちにしっかりと断言しています。現在の世の中で、聖霊の栄光ある働きの一つは、私たちに人生の方針と導きを与えることです。イエス様はヨハネ16:13で「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。」と聖霊のお導きを約束されました。聖なるご臨在のお力によって、神様はいつも私たちと共にいてくださって導いてくださっているのです。

 私たちはイエス様を信じて、罪を赦され、霊的に新たに創造され、イエス様がもたらされた神の国で、聖別された歩みをさせていただいています。イエス様が送ってくださったもう一人の助け主聖霊が私たちの中に住んでいてくださり、永遠のいのちを頂き、イエス様と一体とされ、生かしていただいています。この恵みの中で、聖霊のお導きにより、また、力を頂き、周りの人々に、神様のご愛を表してまいりましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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