序
ヨハネの福音書を読み進めていく中で、イエス様と私たちの愛、そして私たちが互いに持つ愛など、愛について繰り返し教えられてきました。この世で生きていく中で、私たちは神様とイエス様から与えられた愛によって豊かないのちを得ることが出来、そしてこの地に愛を広げる者として遣わされていくことになります。前回の箇所では、互いに愛し合うことが戒めとして語られました。イエス様の友と呼ばれ、その親密な関係をもって、イエス様の愛を広げ、実を結ぶように語られました。
しかしイエス様は私たちに愛を豊かに注いでいるのに対して、この世はイエス様を憎しみ、反発し、愛から離れていきます。それはイエス様だけでなく、旧約の時代においても、今も、これから先も、この世に生きるイエス様に従う者たちにも向けられていきます。世の光として来られたイエス様から離れ、闇に生きる世に対し、私たちはどのように歩んでいくのか、そしてその中で私たちに必要な助け主が与えられることが語られます。聖書を順に追いながら、この世に生きる私たちに語られる御言葉を共に見ていきましょう。
本論
1.世は憎む
イエス様の愛を実行するように命じられた後、世と私たちの関係が全く異なることを教えました。私たちはイエス様と結ばれ、繋がり、とどまることで愛の交わりを持つことが出来るのに対し、世はイエス様との交わりに入るどころか、そこから離れて憎むと語られます。イエス様はここで弟子たちに対して、これから世との対立があることを示されました。
John 15:18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。
John 15:19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。
ここで世と記されている言葉は、神様に対して敵対し、反発する勢力に同調する被造物を指します。ここで言われているのは、本来神様から良いとされたにも関わらず罪によって歪んだこの世界に属するすべての人々のことです。特にヨハネが世を語るときは、空間的な意味よりも人々のことを指すことが多いです。世から最も憎まれる方と結びついている弟子たちは、主のしもべとして、また主の友として、世の人々から憎しみを受けることとなります。生まれつきの人間は、深く罪に染まり、神様との関係を断ち切られてしまいます。そして被造物としての限界を忘れて自己中心的に生き、神様を無視し、神様から離れた生活を送ります。この世のものである人々は、世に属し、世につながっていますが、イエス様を信じる弟子たちはそうではありません。世ではなく、まことのぶどうの木にとどまって生きる人々は、世のものではなくなるために、むしろ世から離れ、憎まれる立場へと変えられます。
ここでイエス様は「わたしが世からあなたがたを選び出した」と語ります。元々私たちが世から離れていたのではなく、人々と同じく世に属し、罪にあった私たちをイエス様が選び、ご自身のもとに結び付けたのです。世に憎まれることも、私たちがイエス様にとどまることも、イエス様が先になされたことであり、イエス様の主権の中で進められることをイエス様は示されました。イエス様はご自身が天に上げられた後に憎しみや迫害を受ける弟子たちのために、十字架にかかられる前に教え、知っておくように語ります。
イエス様はさらに、「しもべは主人にまさるものではない」と過去に語られた御言葉を心に留めるように勧めます。この言葉は、弟子たちが主の謙遜な姿と行いに倣う必要があることについて語られました。今イエス様は、ご自身がこれから受ける迫害と、ご自身が世からの栄誉を受けない道を進むことについて、弟子たちも付き従うことになり、主人に準じることをはっきり語ります。「遣わされた者は遣わした者にまさらない」とあるように、イエス様のもとから出発して実を結び、その実が残るように任命された弟子たちは、遣わしたイエス様が受けたのと同じ憎しみを受けることになります。イエス様に対する人々の応答は二つに分かれます。イエス様を迫害することで、弟子たちを迫害する人々がいれば、イエス様のことばを守ることで、弟子たちのことばを守る人々もいます。イエス様は世の光としてこの世に来られました。その光が強く照らされることで、光と闇ははっきりと分かれることになります。そのようにご自身を表したイエス様は天に昇られる前に、弟子たちにこのように命じました。
Matt. 28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
Matt. 28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。
父なる神様からイエス様が遣わされたように、イエス様も私たちをこの世に遣わしました。この世において、イエス様を救い主として受け入れるように人々を招くように召されるのです。イエス様と遣わされた者たちによって、人々はイエス様の信仰の応答を迫られるのです。
イエス様に対する世の憎しみは、イエス様に仕え、イエス様から遣わされた者たちにも向けられます。その敵意の原因は、彼らがイエス様を遣わされた方を知らないからです。「わたしの名のゆえに」イエス様に属する私たちが攻撃されることは、他の福音書でも同じように記されていますが、ヨハネではさらに深い理由として、彼らが神様を知らないからだと21節で示しました。これまでの箇所でも、イエス様はユダヤ人たちや祭司長たちに、あなたがたは神様を知らず、イエス様がどなたであるのかを正しく知らないと訴えました。彼らが律法や聖書の知識を豊かに持っていても、またそれらを厳しく守っていても、真の神様を知らず、イエス様が遣わされた方であることを知らないために、イエス様を正しく信じることが出来ず、何度もイエス様たちを迫害し、攻撃しました。世の人々が知識に富んでいても、どのような主張をしても、イエス様の名によって弟子たちを迫害するならば、真の神様を正しく知っているとは言えないのです。
イエス様は、弟子たちから世に視点を向けて、彼らが神様を知らないことについてさらに指摘を続けます。イエス様は肉となって、人々の間に住み、彼らに語り続けました。神の民であるユダヤ人のもとにイエス様はまず遣わされ、それによって彼らのうちにあった罪が明らかにされました。もしイエス様が来なかったら、人々に罪がなかったというわけではありません。御子なるイエス様のことばを受け入れず、イエス様を拒んだために、彼らに弁解の余地は残されていません。イエス様は彼らの間でしるしを行うことで、ご自身が父なる神様から遣わされたしるしを明かにしましたが、人々は表面的な奇跡のすばらしさに驚くだけで、心からイエス様を受け入れ、信じることはありませんでした。イエス様の御言葉と、イエス様のしるしが人々の間に広がったことで、父なる神様と子なるイエス様の関係がはっきり示されたことで、人々はイエス様にどのように応答するか選択を迫られました。世の光であり、完全な啓示であるイエス様を彼らは拒んだことで、その罪は明らかになり、ユダヤ人たちが信仰を持っていた父なる神様を憎むことになりました。弁解という言葉は、実際のギリシャ語の原文ではさらに強いニュアンスを持つ言葉です。彼らが自分たちを正当化するためにどれだけ偽装しても、御子なるイエス様がこの世に遣わされた今、彼らの罪は隠されることなく示されることとなります。イエス様と父なる神様とに対する彼らの憎しみは、正当なものとは言えず、もはや理由もなく憎んだと言われるまでになります。
彼らの憎しみは、神様の救いのご計画を揺るがすものでなく、むしろこの憎しみと拒絶も、旧約の詩人たちが残した預言の成就へと導かれています。彼らがイエス様よりも重きを置いていた律法が、彼らの立場を非難し、その罪を指し示しているのです。かつてダビデが理由もなく憎まれたことを詩編に残して語ったように、その子孫でありキリストであるイエス様も不当に、正しい理由もなく世から憎まれます。彼らの罪は、神様とイエス様の前では言い逃れられないほどに明らかです。
2. 証し
世の人々が抱く憎しみも主張も神様の前には意味をなさないことがはっきりとされたところで、イエス様は最後にこの世に遣わされる助け主について語られます。
John 15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。
John 15:27 あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。
イエス様への迫害の原因から、再び弟子たちの迫害への対応について話は移ります。ここまでの箇所で、弟子たちに対する憎しみはイエス様にのみ由来するものであること、この憎しみは、イエス様が誰であり何をもたらすのかという啓示に対する世の応答であったと主張されてきました。イエス様が人々の間で語られた御言葉、この地でなされたしるしが、真理を証し、世の憎しみと罪を明確にしました。しかし、イエス様ご自身が去った後、この世との対立はどのように続いていくでしょうか。それは、神様とイエス様から遣わされた聖霊が、イエス様を証しすることで受け継がれていきます。聖霊は、イエス様に代わってこの地に来られ、使徒を始めとする弟子たちを助け、励まし、力づける助け主であり、また、この地で人々に働きかけ、教え、導かれる真理の御霊です。このお方によって、イエス様が天に上げられた今も、弟子たちは内から助けられ、その真理を正しく知ることが出来ます。
そして聖霊だけでなく、イエス様と初めから行動を共にしてきた使徒たちもこの世でイエス様を証しするのです。使徒たちは、イエス様とその後のすべての弟子たちとの間にかかる重要な架け橋なのです。御霊の助けを受けてなされる使徒たちの証しは、イエス様の宣教の目撃者としての証しとして、この世界に広がり、時代を超えて永遠に語られます。聖霊と弟子たちの証しが一つとなり、イエス様が御子であり、救い主であることをこの世に伝え続けます。
適用
イエス様の証しは、聖書の時代だけでなく、時を超えて今も正しく語られていきます。そして私たちもまた証し人としてこの世に立てられるのです。私たちは使徒たちのように、イエス様と初めから一緒にいたわけではありません。しかし、私たちのうちにおられる助け主であり真理の御霊である聖霊が、イエス様を示し、証しします。また、イエス様と共におられ、重要な証し人である使徒たちが、霊感によって記された聖書を通してイエス様がどのような方であるのかを証します。イエス様が誕生し、天に昇られてから2000年以上経った今も、イエス様はこの世に啓示され、証しされているのです。私たち一人一人が、イエス様をこの世で証しするために用いられていきます。
なぜ神様はこれほどまでに、この世が弁解の余地がないほどにイエス様を証し、人々に啓示されるのか。それは、神様が世を愛されているからです。世は罪によって歪められ、神様から離れて断絶され、自己中心的な愛によってイエス様と神様を憎みます。しかし、そのような世の中で、信じる人が一人として滅びることがないように、イエス様を十字架にかけて罪を贖い、その御名を示されました。私たちもまた、神様の憐れみの中で、罪の世から選び出されました。本来は、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子であった私たちが、あわれみ豊かな神様の愛にゆえに救われ、選び出され、イエス様の者とされました。この愛を受けた私たちが、今度はこの地で実を結ぶために任命され、イエス様を証しする者として遣わされていくのです。
結
世にある時、イエス様の名によって憎まれ、迫害されることは恐ろしく感じます。しかし私たちは、そのような苦難の中で、孤独に感じ、神様が自分に対して敵対しておられるのではないかと考える必要はありません。むしろ、私たちがこの世でなく、イエス様にとどまっている確かな証拠であり、そのような私たちのそばに神様がいてくださるのです。そして、助け主が私たちを助け、私たちが証しすることが出来るように導いて下さいます。私たちを通して、御子を信じる人が起こされることを願います。私たちを憐れみ、救い、愛して下さった神様とともに、この世でイエス様の証し人として共に遣わされていきましょう。

