序
イエス様が復活されてから人々の前に姿を現す場面をこれまで見てきました。復活の主としての姿を通して、弟子たちを始め私たちもまた救いの確信と、いのちを得る道を与えられることとなりました。そしてイエス様は復活されたご自身の御姿を示すだけでなく、この地に残される弟子たちを新しく遣わします。弟子たちは主なるイエス様の姿を見て信じ、そしてそのイエス様と親しく結ばれ、新しい時代を神様と共に歩むこととなります。そして私たちも、聖書に示されるイエス様の姿を見て、信じることによっていのちを得て、イエス様に遣わされ、イエス様と共に歩む一人の信仰者としての一歩を踏み出していくのです。今日の箇所は、イエス様とペテロのやり取りが中心となりますが、イエス様の愛と従順の招きは私たちにも語られます。ヨハネの福音書を通して示されたイエス様がどのようなお方か、そして天に昇られる前にイエス様が私たちに残された御言葉と、今も示される私たちへの思いがどのようなものなのか、共に見ていきましょう。
本論
前回の聖書箇所では、ティベリア湖畔にて自らを現わしたイエス様と弟子たちとの三度目の出会いを見てまいりました。まだ聖霊を受けず使徒としての働きを始められなかった弟子たちは、復活された主なるイエス様の声、姿を見て、かつてのイエス様を思い起こし、そしてイエス様にあってこそこれからの歩みと働きが確かな実りを結ぶことを教えられました。そしてイエス様は今も、この地上において失意にあり、歩みを止めてしまうような私たちを励ましてくださいます。ただ遠くから言葉をかけるのでなく、自ら食卓を準備して、生きた温かい交わりを持ってくださいます。私たちはイエス様の姿を直接見ることはなくとも、イエス様に招かれて、イエス様との交わりに生きることによって、失意の中でなく希望と喜びの中で信仰の歩みを持つことができると教えられました。
そのような食事の交わりに招かれ、火を囲みながら暖かな交流を持つことで、弟子たちの心にあった傷や痛みが和らぎます。イエス様が十字架にかけられた際、その場にいた弟子たちは逃げ出してしまい、その後もイエス様が自ら姿を現すまで、彼らは人々の目を恐れて家の中で閉じこもっていました。しかし、他の弟子たちとは違い、ペテロの心の中にある負い目は未だ解消されていませんでした。ペテロはあの十字架の晩、イエス様の前から逃げただけでなく、鶏が鳴く前に三度イエス様を否定しました。イエス様に従うために命をも捨てる覚悟をしていたペテロにとって、この失敗は大きな重荷となりました。そのような失敗と傷を負ったペテロには、自分の欠点と向き合って砕かれる経験が必要でした。イエス様は、そのペテロの心に触れ、彼が立ち直るために導きます。
John 21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
イエス様は、かつて与えた岩という意味を持つ名前ペテロはなく、初めて出会った時を思い起こす元々の名前シモン・ペテロの方で彼を呼びます。イエス様を裏切ったことによってペテロとしての生き方を果たせなかった彼が、再びペテロの名に相応しく立てられるように、この問いかけから再スタートしていくのです。「彼らが食事を済ませたとき」とあるように、この問いかけがなされた時の周りには他の弟子たちがいたことが分かります。ペテロはこれまで仲間の弟子たちの前で自分が一番弟子であることを誇っていました。そのペテロは今、イエス様との個人的な赦しや和解だけでなく、人々の間で公に弟子として立ち返ることによって使徒として初代教会を導く指導者として立つことができるようになります。
ペテロの弟子としての働きの回復は、イエス様の一つ目の質問の中にも示されています。他の弟子たちがいる場でイエス様はあえて「この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」と投げかけます。今まで個人的な誇りを持っていたペテロは、たとえ他の弟子たちが裏切っても、私は裏切りませんと公に宣言したほどでした。しかし肉体的な勇気では不十分であり、実際にその場面になると心が弱くなり、公にイエス様を否定したのもペテロでした。十字架の夜に誇りが砕かれた今ペテロは、公にイエス様の弟子として立ち直る準備を進める必要がありました。「この人たちが愛する以上に」という言葉は、「ほかの何ものよりも」とも訳すことができる言葉です。イエス様はペテロがただ過剰に誇っていた自信を戒めるのではなく、心砕かれた今、彼が改めて弟子としてイエス様を愛することができるかと問うのです。
イエス様の問いに対してペテロは「私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えます。イエス様は、ペテロを赦し、愛し、そしてペテロがイエス様を愛しておられる事をペテロ本人が自覚する前にすでに知っていました。イエス様に対しての愛を、ペテロは他の弟子たちと直接比較した中で証明するのではなく、むしろイエス様が自分を知っているという事実に基づいて訴えかけています。ペテロ自身の痛ましい失敗にも関わらず、イエス様はペテロが愛している事実をすでにご存じである、イエス様の問いかけはペテロにその現実を自覚させ、ペテロ自身がイエス様の大きな愛の事実の中で慰められるように招くのです。
ペテロがイエス様の愛と、自分の中にあるイエス様への愛に気づいたところで、イエス様はまず「私の子羊を飼いなさい」と命じます。飼うという言葉には、餌を与えたり、世話をしたりして養うことを意味します。ここでの強調点は、伝道という側面でなく、牧会という側面です。イエス様の愛を示すのは、小さい者に仕える姿であり、それは他でもないイエス様ご自身が模範となって弟子たちに示した姿でした。イエス様が天に昇られ、弟子たちは使徒として伝道活動を始めますが、その使命に遣わすだけでなく、イエス様の子羊の群れを養い、牧するところにイエス様が命じられた愛が現れてくるのです。
イエス様の問いと招きは一度では終わりませんでした。
John 21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
John 21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
あの夜ペテロが三度否定した言葉を、一つ一つ上書きするように、イエス様は同じく三度「わたしを愛していますか」と聞きます。そしてペテロも、過去の裏切りと否定の言葉を打ち消すように、イエス様を愛していることをはっきりと肯定します。ペテロに出来るのは、イエス様がすべてご存知であり、それゆえにペテロの心もご存知である事実を確認し、言葉にして告白することだけでした。しかしそれだけで十分であり、この問いと答えによってペテロの心の傷、そしてペテロとしての弟子の働きの回復がなされるのです。ペテロは自分の失敗と弱さに向き合い、それらを全て知っておられるイエス様の愛を知り、認め、その事実に立ち、そこから群れを牧する使命を果たすことになります。イエス様の羊を、イエス様が示された模範に従って愛をもって仕えることによって、使徒として完全に立ち上がることができるようになりました。
そのようにして新しく遣わされるペテロに対してイエス様が次に示したのは、ペテロの使徒の生涯の歩む道についてでした。
John 21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
ペテロは使徒の時に活動の場を広げていきますが、その晩年は、制約と殉教へと至ることになります。イエス様はここでペテロがどのような死によって神さまの栄光を現すのかを語ります。こうしてペテロは、どのように結末を辿るかだけでなく、その死によって神様の栄光を現すという点においてもイエス様に倣うものとなります。ペテロはこのイエス様の預言を常に心に抱きながら最後まで使命を全うすることとなります。今ペテロは、「わたしに従いなさい」というイエス様の招きによって、真の弟子としての務めを一貫して果たす道を歩みます。
ペテロの再出発と使徒としての働きに注目した後、今度はもう一人、イエス様が愛された弟子に注目していきます。この弟子について、最後の晩餐の場面を思い起こさせることによって、イエス様とこの弟子の親密さを印象付けています。ペテロは自分のこれからの使命を知った後、この愛された弟子の将来についても関心を抱きます。
ペテロの抱いた関心に対して、イエス様の応答は冷たいものでした。「あなたに何の関りがありますか」と答えられたように、他の人がどのように従順な道を歩むのかに関わらず、ペテロは自分の示された道に従うようにと語られました。どちらかの弟子が軽んじられているのではなく、それぞれに応じた召しが与えられており、他者に示された計画よりも自分に示された計画に心を寄せ、付き従うようにイエス様は言われたのです。ペテロは実際、教会を建て上げて伝道と牧会に従事しました。その働きは大きく、その死に至るまで神様の栄光をこの地に現わすこととなります。一方愛された弟子は、ペテロほどの目立った活動はなくとも、遠く離れた島に流刑されながらもペテロより長く活動を続け、福音書、三つの手紙、そして黙示録を通して神様のことばを書き記す働きへと用いられることになります。ペテロと愛する弟子は、異なる導きの中に召されることになりますが、それぞれに与えられた召しの中でイエス様に従うことが求められています。
23節はそのことを強調し、誤解がないように読者に対して記されています。イエス様が語られたのは、この愛された弟子が生きるか死ぬかという表面的な話ではなく、それぞれの召命に違いがあることに心を向けて問いかけるべきではなく、イエス様に従う真の弟子としての従順を訴えかけているのです。
福音書を書き記したヨハネは最後に、これまで記されてきた証言の真実性を語ります。ヨハネがイエス様の目撃者であったからこそ、その証言は信頼でき、霊感によって書き記されてきました。そしてヨハネは、ここに記されている以上にイエス様が行われたことが多くある事実を示します。地上におけるイエス様の生涯だけでなく、万物を造られたことばとして、被造物をすべて支えることばとして、そして神様のすべてのご計画の永遠の中心として、イエス様のすべてを書き記すことは出来ないのです。それでもこの福音書21章が書き記された目的が20章31節で語られています。「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの何よっていのちを得るためである」。そのために最も重要であるイエス様についての事実を、イエス様がどのようなお方であるのかという証しをヨハネは真理の御霊に導かれて書き記しました。
私たちはヨハネの福音書を通して、この事実と証しを見てきました。父なる神さまのもとから来られた、唯一の光であり御子であられるイエス様が、その命をもって私たちにいのちを得させる道となられました。十字架によって死にて葬られ、三日目に復活されたイエス様は、聖書全体で語られた主であり、私たちを照らす真の光です。なぜイエス様が御子であられながら人としてこの世に遣わされ、その身を低くして、命を捨ててまで私たちに仕えてくださったのか。それは、「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」からです。私たちへの神さまの愛はイエス様によって完全に現わされ、そしてこのお方によって私たちは罪と死の絶望でなく、いのちの希望を持って歩むことが出来るのです。
私たちはこのイエス様の愛に満たされ、信仰の道を歩みます。そしてその歩みの中で絶えずイエス様を愛することを問われます。時にはペテロのように失敗したり傷ついたりすることもあります。イエス様は私たちが救われた時だけでなく、私たちの生涯の中で絶えず愛の中に招き続けます。私たちはイエス様につながり続ける中で慰められ、その豊かな愛を何度も確認し、赦されて前進していくのです。
イエス様は、私たちがイエス様を愛し、求める心を私たち以上に知っておられます。イエス様との愛の交わりに生きる中で、私たちはさらにイエス様に留まり、そして遣わされていくのです。
結
「あなたはわたしを愛していますか」イエス様はいつも私たちにそのように問いかけています。私たちの罪を赦し、心に負った傷と重荷を癒し、失敗を上書きするように、愛の結びつきによって私たちを立ち上がらせてくださいます。そして、私たちはつまずいて倒れたままで終わるのでなく、立ち上がって、イエス様に従う一人の信仰者として再出発していくのです。その命を捨てて私たちへの愛を現わされたイエス様の招きに対して愛をもって応えていくことが出来ますよう願います。そして、この愛に満ちた関係の中で、イエス様に従い、ここからさらに新しく歩み出していきましょう。

