4/26 ヨハネ20:24-31「信じる者になりなさい」

前回の箇所では、復活されたイエス様と出逢って弟子たちの姿を見てきました。彼らはイエス様が十字架にかけられた後、祭司長たちを恐れて扉を閉めて身を隠していましたが、その真ん中にイエス様が登場します。イエス様は恐れや困惑を抱いている彼らに対して責め立てることはせず、平安があるように求めました。復活されたイエス様の傷を見て喜びに満たされた弟子たちは、その恵みに与るだけで終わりません。父なる神様が遣わされたように、イエス様から遣わされて福音を宣べ伝える使命を引き継いでいくのです。聖霊とともに、弟子たちを通してイエス様の福音は世界に広がり、そして、イエス様によって与えられる平安が全地に広がるようになりました。

弟子たちはイエス様の御姿を見て喜び、イエス様から励ましを受けましたが、今回の箇所ではその場に一緒にいなかったトマスに焦点が当てられています。イエス様はこの一人の弟子を通して、信じるということについて教えています。そしてそこには、私たちが今読んでいるこの聖書が記された目的が含まれています。トマスを通してイエス様が語る信仰とは何か、そして、私たちが聖書を読むことで何を得るようになるのか、共に教えられたいと思います。

本論

イエス様が十字架によって死なれてから三日目、イエス様は段階的にご自身の復活を人々に示されました。ペテロと主の愛された弟子、マグダラのマリアはまず空になった墓を見て驚き、その後マグダラのマリアの前にイエス様は姿を現されました。戸に鍵をかけて閉じこもった弟子たちの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言い、その手と脇腹を示されました。他にもエマオの途上で二人の弟子たちと語り合いながら聖書を説き明かし、最後に彼らの目を開きました。このようにイエス様は彼らに姿を見せて、語りかけることによって復活の勝利を示されました。そして彼らも復活を信じ、その心は喜びに満たされました。しかし弟子の一人であり、デドモと呼ばれるトマスはその場におらず、彼らと同じ確信を得られませんでした。彼はこのように言いました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」。「私たちは主を見た」という弟子たちの証言を聞いても信じず、それどころかイエス様を見たとしても信じず、それに触れて手を入れるまで信じないと宣言し、個人的で具体的な証拠を求めました。この発言だけを見ると、ただ不忠実で疑い深い性格のように見えますが、これまでの箇所で見られたトマスは、むしろ主に対して忠実で、「主と一緒に死のうではないか」と弟子たちに言うほど勇敢な性格でした。そのような彼が一人だけ家の中にいなかった理由は語られていませんが、神様はトマスの不在と疑いを通して、重要な信仰告白を生み出させました。

八日後、弟子たちはトマスと共に再び家の中に閉じこもり、戸に鍵をかけていました。以前イエス様の復活を目の当たりにした弟子たちでしたが、依然として彼らはユダヤ人を恐れて戸を閉ざし、共に集まっていました。未だ人々の目を恐れている弟子たちに対して、イエス様は再びその真ん中に立ち、そして「平安があなたがたにあるように」と言われます。この「平安があなたがたにあるように」とイエス様が弟子たちに語られたことが繰り返し、丁寧に記されていることから、これがただの挨拶に留まらないことを示します。「あなたがたがわたしにあって平安を得る」というイエス様の御言葉を思い起こさせ、今十字架の死と復活を経て平安を人々に本当の平安が与えられるのです。恐怖や不安を持つ弟子たち、そして疑いを抱えるトマスのいる場所の真ん中にイエス様は自ら姿を現し、そしてトマスの信仰を前に進ませました。

John 20:27  それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

イエス様はトマスの要求、挑戦に正面から答えて、その不信仰の心を開こうとなさいました。復活されたイエス様の体は、鍵のかかった部屋の真ん中に姿を現すことが出来ましたが、幽霊や幻のようなものでなく、触れることも出来れば食事をすることも出来ました。生前とは異なり自然の法則に縛られない体ではありますが、しかし生前の体と肉体的な連続性をもっており、十字架によって受けた手と脇腹の傷がそのまま残っていました。十字架によって残された傷はまさにイエス様が私たちの代わりに罪を担って下さった贖い主であることを証します。脇腹の傷は、そこから流れ出た血と水を思い起こさせ、いのちの水の源であり、罪を聖める血を流された救い主としてのイエス様を証します。今イエス様はトマスの疑いを解消するだけでなく、主としてのイエス様の姿をはっきり示し、それに体験的に触れて、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という言葉と共に招いておられるのです。

トマスの応答は素直でした。「私の主、私の神よ。」という言葉をもって復活されたイエス様を受け入れ、信じました。これまでのトマスは、一見すると忠実で勇敢な一人の弟子でしたが、一転して捕らえられたイエス様を置いて逃げ出してしまい、その後復活したという話を聞いただけでは決して信じないほどに悲観的で疑う者となりました。しかし、トマスは今イエス様の復活を信じただけでなく、イエス様が彼にとってどのようなお方であるのかを個人的な関りの中で理解して信仰告白しているのです。かつてイエス様は父と子が同じように敬われることを語りました。

John 5:23  それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。

この箇所に限らず、イエス様はご自身と父なる神様との関係を何度も示し、そして神の子であり神ご自身であるご性質を人々に教えました。イエス様は私たちのために贖ってくださり、救いを与えてくださった主であり、私たちの神様として臨在してくださいます。

トマスの信仰告白を聞いたイエス様は次のように語ります。

John 20:29  イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

これはトマスがやっと信じたことに対しての叱責ではありません。トマスの素直で真実な告白によって表された信仰を通して、次の時代にいる人々、つまり目には見えないがイエス様を信じる者たちに対しての祝福を宣言なさいました。イエス様は今弟子たちの前に姿を現し、その姿を見て人々は信じることができましたが、イエス様が天に上られた後はイエス様を直接見ることができない時代が訪れます。しかしそのような時代の中にあっても、トマスと同じく真の信仰に至り、信仰告白へと導かれます。「幸いです」という言葉は、単純に条件を満たした者を幸いだと宣言するのではなく、彼らが神様に受け入れられたことを宣言するものです。トマスの心を通して、イエス様はすべての時代の人々がイエス様の信仰へと導かれ、その幸いに与ることができると語るのです。イエス様を直接見ることがなくとも、イエス様の御体に直接触れることがなくとも、私たちは確かな信仰を確立していくことができます。

私たちの信仰がどのように確かなものとされるのかは、次の31節で記されています。

John 20:31  これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

信仰は、目に見えるものから来るのではなく、御言葉を聞く、御言葉を読むことによってもたらされます。

Rom. 10:17  ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

イエス様の御言葉はその場にいる人々に向けて終わるのではありません。イエス様が天に上られた後も、復活されたイエス様を見たことがないにも関わらず信じる者たちをイエス様は祝福されます。そのように私たちが信じるようになるために、この福音書、そして聖書は記されました。30節では「他にも多くのしるしを行われた」がここには書かれていないと記されています。しかし、私たちはそのしるしを実際に見ることがなくとも、イエス様の御姿を見ることがなくとも、聖書の御言葉を通して、受肉したことばであるイエス様の死、復活、そして栄光に満ちた昇天を仰ぎ見、その信仰を確立させられるのです。それは、まだイエス様を信じていない人々を救いに招いて終わるのではありません。31節の信じるということばは、信じ続けるとも訳されることばです。私たちが救いに与り、その信仰生活の歩みの中で、イエス様に留まり、建て上げられ続け、イエス様が神の子であり救い主であることを確信し続けるために聖書は記されています。

今共に聖書の御言葉を通して、神の子であり、救い主であるイエス様を見上げていきたいと思います。トマスのように、疑いながら求めている人々をイエス様は招いておられます。信仰を持っていても、難しさを覚えて迷い続けている人々を招いておられます。イエス様は聖書の御言葉を通して、十字架にかけられて手と脇腹に傷を残された主としての御姿と、復活された勝利者なる神の子としての御姿を示されます。私たちはこのお方の御名によって、確かにいのちを得ることができるのです。私たちは御言葉を通して、このイエス様と出逢い、その救いへと与ります。私たちの主であり、私たちの神であられるイエス様を見上げながら、信仰の歩みを一歩進めていきましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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