序
ヨハネの福音書の講解説教を続けてきて、最後の章に入りました。復活されたイエス様は、その姿をマグダラのマリアや弟子たちにお見せになりました。復活されたイエス様を見た弟子たちは喜びに満たされるとともに、イエス様から遣わされる使徒としての使命を受けることになります。イエス様が十字架によって死なれたと思って失意に陥り、祭司長たちの目を恐れて不安になっていた弟子たちにとってイエス様の復活は大きな意味を持つようになりました。これまでイエス様がどのようなお方が正しく知ることができなかった弟子は、復活されたイエス様を見て、「私の主、私の神」と信仰を告白します。その信仰に私たちを導くために聖書は記され、時代と国を越えてあらゆる人々の手に渡りました。イエス様の復活の出来事は、他でもない私たちがいのちを得るための希望となり、そして私たちが平安に満たされながら聖霊とともに遣わされていくように導くのです。
今回の箇所は、その後の弟子たちの姿とイエス様の招きが見られます。イエス様が弟子たちの前に姿を現したのはこれで三回目となります。弟子たちがまだ使徒としての働きが始まる前、彼らの前に姿を現したイエス様は十字架の前の時と同じように食事の交わりを持ちます。弟子たちは失意の中からどのようにして立ち上がってきたのか、そして復活の主であられるイエス様と持つ交わりの意味とはなにか、共に聖書を追いながら見てまいりましょう。
本論
弟子たちの前に二度姿を現したイエス様は、家の中でなく今度はティベリア湖畔にて弟子たちの前に姿を現しました。ここでは「その後」と記されていますが、具体的にどのタイミングなのかは明らかにされていません。ここで明らかにされているのは、前回のように十二弟子が集まった家の中でなく、弟子のうちの一部が漁に出たティベリア湖、つまりガリラヤ湖にて自らを現わされたということです。祭りが終わり、エルサレムから故郷ガリラヤへ帰った弟子たちはペテロの漁についていき、その数は7人であることが分かります。
漁に行くと言ったペテロは弟子になる前に漁師をしていました。前回の箇所で、聖霊を受けるように命じられ、イエス様から遣わされるようになった弟子たちでしたが、彼らが実際に聖霊を受けるのはまだ先になります。彼らはイエス様から使命を与えられながらも使徒としての活動はまだ始めず、かつて生業としていた漁によって日々の生活の必要を満たしていました。約束された聖霊を授かる喜びも確信も、使徒としての使命感や教会の一致も、ここには見当たらず、未だにぎこちなさを抱きながら生活を送っていました。ペテロたちは小舟に乗り込んで夜通し漁をしていましたが、この日は一匹の獲物もあることができませんでした。ガリラヤで漁をするには夜が最適ですが、弟子たちが七人もいて、元漁師もいながらも成果をあげられなかったのです。夜明けとともに彼らは疲労と困惑、そして空腹を感じながら岸へと戻ります。
自分たちの力だけでは何も得られなかった弟子たちを、復活されたイエス様は迎えます。まだイエス様に気づかない弟子たちにイエス様は「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」と声を掛けます。ここで魚と訳された言葉は、一口分の食べ物を意味します。ガリラヤの文化では魚を指す言葉になりますが、厳密にいれば主食であるパンと一緒に食べるおかずのような食べ物を表し、弟子たちが何も獲物を捕ることができなかったことが良く分かります。このイエス様の質問は否定の答えを想定したものであるため、疲労困憊となった弟子たちはただ自分たちが何も獲得できなかった事実を肯定するしかありませんでした。
イエス様は弟子たちに一つアドバイスをします。「船の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」。まだイエス様だと知らない弟子たちは、希望からであれ、疲れ果てた諦めからであれ、その助言に素直に聞き従いました。その結果彼らはおびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き揚げることができなくなったのでした。最初にイエス様に気づいたのは、イエス様の愛された一人の弟子でした。この弟子は前にも墓の中に置いてあった亜麻布たちから、イエス様が復活されたことを悟ったものでした。前回の墓での出来事も、今回の湖での出来事も、まずこの弟子が気づき、それに続いてペテロが気づいて行動に移していることが分かります。そしてペテロは、この不思議な出来事を以前にも同じように経験したことを思い起こします。ペテロはイエス様と初めて出会った際にも、夜通し働いて何一つ捕れずにいて、そして同じようにイエス様に命じられて網を降ろした結果、二艘の舟いっぱいなって沈むほど魚を収穫することができました。ペテロはその時、イエス様の足元にひれ伏して「私から離れてください」とお願いをするほどに、イエス様を主と信じて恐れを抱きました。しかし今ペテロは、愛されたあの弟子が「主だ」と言った言葉を聞いて、むしろイエス様の下に一目散に向かっていきました。魚でいっぱいになった舟と弟子を残して、上着をまとって、主なるイエス様に近づきたい一心でイエス様のおられる岸辺へと泳いで行きます。舟から岸辺までは約90メートルであるため、ほどなくして弟子たちはイエス様の前に集まりました。
陸地に到着した彼らを待っていたいのは、温かい炭火、すでに用意された魚とパン、そして弟子たちを迎えるイエス様でした。イエス様はすでに炭火の上にある魚にくわえて、今ペテロたちが捕った魚を持って来るように語ります。収穫された魚の数は153匹、網が破れない方が不思議なくらい大漁の魚でありましたが、網は破れることなく収穫はすべて弟子たちやイエス様の下に集められました。この奇跡的な方法によって食べ物が十分すぎるほどに得られた出来事は、かつて5000人の人々に魚とパンが分け与えられた給食の日を思い起こさせます。しかし今回の食事はただ奇跡によって満たされたという意味だけではなく、イエス様ご自身が魚とパンと炭火を用意してくださり、そこに弟子たちが招かれていることも印象深く記されています。弟子たちの目が開かれ、イエス様が主であることを示すだけでなく、イエス様自らが食卓を整え、食事の交わりに招待します。
John 21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。
John 21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
弟子たちはイエス様と共にいたいと切望していましたが、イエス様の下に来て喜んだり、挨拶した様子はありませんでした。彼らは目の前のお方が主であることを知っていたためにあえて尋ねるようなことはせずにいました。ここには弟子たちの言葉はなく、ただイエス様が彼らに声をかけ、自ら食事の場を準備し、そして食事招くだけでなくその御手でパンと魚を彼にお与えになりました。十字架の受難の前に、最後の晩餐でパンと杯を取って弟子たちに分け与えたように、復活されたイエス様は弟子たちとの食事の交わりを求めました。イエス様がよみがえってから、そのように御姿を示されたのはこれで三度目であると語られています。14節の「ご自分を現わされた」という動詞は、他の箇所で一般的に用いられている姿を現すという言葉よりも強い意味を持つ言葉です。復活されたイエス様は、その栄光の御姿を何度も弟子たちの前に現わし、よみがえりが確かに起こったことを証明するだけでなく、地上に残される人々と変わらずに交わりを持ち、共におられ、失意の中にいる弟子たちを励まして新しい時代へと彼らを導いてくださるのです。弟子たちは、繰り返し示されるイエス様の復活された御姿を通して、イエス様が主であることを知り、そして確信を持ちながら使徒としての働きを始めていくのです。
適用
これまでの聖書箇所を通して、イエス様のよみがえりと、復活されたイエス様がご自分を現わす場面を何度も見てきました。弟子たちは、イエス様が十字架にかけられる前はその真理を正しく理解できず、イエス様が死にて葬られてからは失意と恐れ、困惑の中にありました。彼らは復活されたイエス様の姿を見て、主なるイエス様を信じ、その心に確信を持つようになりました。今回の箇所においても、自分たちの力では何も成果を得ることが出来ずに戻って来た弟子たちに、奇跡的なしるしを通して復活の主を現わしただけでなく、イエス様を離れては何もできない彼らの働きと、その収穫を満たしてくださる主の働きを示しているのです。イエス様は弟子たちに対して人を取る漁師にしてあげようと語られました。そしてイエス様が天に昇られた後は、使徒たちを始めとする人を取る漁師が起こされ、宣教の働きが広がります。イエス様は、人を取る漁師になる彼らのために聖霊を遣わし、共にその使命を担って働きかけてくださることを示されます。これから進むべき道が見えず、臨在や助けがあるかどうか確信が持てず、自分の能力によって先に進もうとする私たちに、イエス様は御言葉を語られます。十字架の死と復活によって完全に実現された罪の赦しによって新しく生まれ、その御姿によって救いを確信した私たちは、神様に導かれてその使命を果たします。投げ打った網にはたくさんの収穫があり、その福音の網は決して破られることがありません。復活の主に信頼し、その御言葉に従う時、私たちを通してイエス様の働きはこれからも広がり続けていくのです。
イエス様はご自身による宣教の働きの大きさと信仰者たちのこれからの歩みを導く道を示しました。そしてそのように遣わされる私たちを招き、生きた交わりをもってくださる姿も今回の箇所から見ることが出来ます。十字架の前に自信を持ってイエス様について行くと宣言しながらも失敗してしまったペテロ、忠実な弟子でありながらも悲観的で疑り深くなったトマス、誰が一番偉いのか競う弟子たち、十字架によって捕らえられた際に逃げ出した弟子たち、聖書に名前が記されていない弟子たち、人間味あふれて様々な性格を持つ彼らを、失敗や逃走をしてしまう彼らを、イエス様ご自身が豊かな交わりの中に招いてくださったのです。私たちは、このイエス様の招きに与っており、私たちのために備えてくださり、交わりの中で生きていくことができるのです。救いのみわざを完了され、復活された主が今も生きて私たちと共にいてくださるのです。
結
夜が明けて朝を迎えたこの時、イエス様は朝の食事をしなさいと招かれます。失意の中にあり、暗闇の中で疲弊している私たちに、温かい場所と必要を備え、食事の交わりを豊かに持とうとしてくださいます。私たちはこの地上においてイエス様との交わりによって安らぎ、励まされ、力を与えられて新たな歩みを進めていくのです。そして、来るべき再臨の時、主イエスと食卓を囲み、パンと杯を分かち合う天上の食事の交わりを待ち望みたいのです。今も生きてられる主に招かれ、共に豊かな交わりを持ちながら、来るその日に期待しつつ信仰の歩みを共に持ちましょう。

