6/6 Ⅰヨハネ1:5-10「光の中を歩むなら」

ヨハネは福音書の中で色々なことばを用いてイエス様を表しました。その中の一つが光という表現です。このお方が真の光であり、その光の中にイエス様は私たちを招いておられました。そして今回の手紙の箇所でも、光としてのイエス様の招きが見られます。

前回の箇所では、いのちの言葉としてのイエス様を見てきました。ことばとして永遠の時の中に生き、父なる神さまと子なるイエス様は決して切り離されることなく堅い結びつきを持っておられます。そして父と子の交わりの中に私たちは招かれ、この豊かな愛の結びつきの中で私たちは永遠に生きる喜びを分かち合うことができることを教えられました。それこそがヨハネがこの手紙を書いた目的です。今回もまた私たちはイエス様に招かれています。私たちが抱える罪の問題と罪に満ちた闇であるこの世界と、罪をきよめ、真実で光であられるイエス様の対比が描かれていて、私たちを闇から光へと導くための道が示されています。聖書で語られる闇と光が私たちとどのような関係があるのか、そして、イエス様が示す光への道筋がどのようなものなのか、共に見てみましょう。

本論

ヨハネはまず4節までの序文から5節に向けて話を展開していきます。

1John 1:5  私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。

ここで4,5節をつなぐのは使信という言葉です。原文では「これが使信です。すなわち…」という形で始まっています。この使信という言葉は原文のギリシャ語の単語では、報告する、伝えると言った一般的な意味だけでなく、新約聖書において専門的な意味での宣教を指しています。それは私たちの救いと、神様の御心を人々に明らかにするということです。そしてそれはヨハネが自分で考えた創作ではなく、キリストから聞いたことであり、聞いたメッセージを改めて手紙という形で人々に広く宣べ伝えられます。この救いについての宣教の内容は、神様は光であるということです。そして闇がまったくないと断言しています。原文では二重否定という強い否定を表す形が用いられていることから、聖書は曖昧にすることなく光と闇をはっきりと区別し、神様のご性質の中に闇が入るイメージを全く与えません。

闇と光、善と悪、義と罪が一つになることはないとここまではっきりとヨハネは語りました。その理由は、この手紙を送る相手側に偽の教師がいたからでした。彼らはイエス様が神の子であるキリストであること、そしてイエス様が人となって来られたことを否定していた反キリストでした。さらに兄弟愛がなく、義を行わず不法を行うような者たちでした。彼らから誤った教えを聞いて悪影響を受けていた教会に対して、聖書は「もし私たちが…なら」という導入をもって過ちを正し、神様が光であることが何を意味するのかを明らかにしています。偽りの教師たちは、神様を知り、神様と交わりがあると言いながら、暗闇の行いをしていました。そのため、今日の暗闇の世界に対して、神様の完全なきよさ、そして完全な光を示さなければなりませんでした。

6節以降の導入は「もし私たちが…なら」という言葉を持って繰り返して、偽りの教師に対抗して真理を示します。まず一つ目は6節にあります。

1John 1:6  もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。

歩むという言葉には、習慣的に生活をするという意味があり、それは実生活に限らず霊的状態のことも指しています。神様が光であるのに対して、闇の中を歩み続けることに矛盾があり、神様の御心に反しているのです。光と闇の間には区別があり、交わりはありません。偽教師たちは自分たちが神様に属し、交わっていると言いながらも外に出て罪の中に生きており、自分の中に罪を認めずにいたために、偽りがあるとここではっきりと語られました。そして悪を行うということは、真理を行うことの対極にあります。偽教師たちがそうであったように、ただ神様を知っているという主張だけでなく、人々はその真理の光の中に生き、それを行い、罪である闇を避けて生きる道を歩む必要があるのです。そうすることによって、神様との交わりという言葉に矛盾がなくなります。

1John 1:7  もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。

光である神様と同じように、私たちの霊的な在り方においても光であることが求められています。神様を信じて救われたことで信仰の歩みが完成するというのではなく、絶えず成長する聖化の歩みへと私たちは足を進め、そしてイエス様のもとにとどまり続ける信仰生活の必要があります。闇と光の歩みについて福音書ではこのように語られています。

John 3:19  そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。

John 3:20  悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。

John 3:21  しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

神様の御心に対して、そしてイエス様が明らかにされた光に対して私たちが心を開き、自らその光のもとにとどまることによって真理を明らかにするように私たちは変えられるのです。しかし神様を知ってはいても、恐れて光のもとに行こうとせずに拒み続け、闇を愛し続けることは、神様との交わりの中にあるとは言えないのです。

この光の中に歩む結果が手紙の中に二つ記されています。一つは互いに交わりを持つということです。互いの交わりというのは、3節で語られた父なる神さまと子なるイエス様の交わりをベースとしています。ヨハネは、互いの交わり、そして互いに愛し合うことをこの手紙の中で何度も強調しています。神様を知っているという特権的な意識を持って閉鎖的になる関係ではないのです。光が偏らずに、すべての人を照らすように、父と子の間にあるような豊かな愛の交わりが、信じる者同士に広がっていくのです。私たちは光の中を歩みながら神様との交わりに生きると共に、光に招かれた信じるもの同士結びつきをもって生きていくことができるのです。

もう一つの結果は、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださるということです。ヨハネが語るイエスの血というのは、イエス様の十字架による死を強調しています。ここできよめるという動詞を原文で見てみますと、現在形という形になっていて、継続的な動詞を示しています。つまり、イエス様の死によってきよめられることは、過去に一度なされて終わるのではなく、日々行われる聖化を意味しているのです。

光の中を歩むということは、そうする人々が決して罪を二度と犯さないというよりも、その事実を神様の前に隠そうとしないということです。光の中を歩む時に、光は歩む者の中にある罪を明らかにします。それゆえに、常にその罪をきよめる必要が生じます。私たちは神様と共に光の中を歩み続け、その結果として御子イエス・キリストの血によって罪からきよめられ続け、聖化の道を進むのです。すべての罪というのは、故意に犯した罪に限らず、私たちが陥った罪の性質による汚れや罪の原則、それらすべてのあらゆるものを含めて指し、そしてそれらすべてがイエス様の十字架の死によって贖われ続けていく、それが光の中に歩む恵みなのです。もし私たちが光の中を歩み続けるなら、神様は私たちとの神様との交わり、そして互いの交わりを損なうようないかなる罪からも、私たちをきよめてくださいます。

偽りの教師に対しての二つ目の言葉は、罪の告白についてです。

1John 1:8  もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。

一つ目は罪を犯していてもそれを隠そうする様子が見られましたが、この二つ目については、罪そのものを否定する考えが当時あったことが分かります。「罪がない」という表現は、ヨハネの福音書の中で度々登場していますが、いずれも「罪を持っていない」ことを意味しています。罪の一つ一つの行為ではなく、原則を表していて、罪の性質、根源、そしてそこから伴う自己中心性がここに現れています。かつてグノーシス主義という立場がありましたが、そこでは罪は肉の問題であり、魂に影響はないと主張する者もいました。そのように、罪という問題に対して真剣に受け止めず、関係がないという考えがありました。それに対して聖書では「自分自身を欺いている」として否定しています。「罪がない」と主張することは完了形という形で示されているのに対して、「欺く」という言葉は進行形という形で示されています。6節のように他人に対して偽善を言うだけでなく、自分を欺いているのであり、自ら闇の中へと迷い出て行くという悲惨さへと進んでいくことなのです。

そしてもう一つは「真理がない」ということが語られています。真理を行わないだけでなく、私たちのうちから真理が失われていくことにもなるのです。私たちのうちに真理があるならば、真理は罪の存在を語らせるのであり、私たちは暗闇を作って閉じこもる必要はないのです。

自分を欺き、真理を失うことに対して、私たちが罪を告白することに対してはこのように語られます。

1John 1:9  もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

神の民であるということは、罪を否定することではなく、それを告白することを意味します。世のすべての人が罪人であったからこそ、イエス様は十字架の死に渡されることになったのです。私たちの持つ罪の性質に対して、神様は恵みによって罪という問題に対する解決の道を、つまりイエス様をお遣わしになったのです。「告白する」ということばは、「準じて言う、同じことを言う」という意味を持ちます。罪を告白するということは、表面的な告白ではなく、神様の前に罪を認め合い、赦しを求め、完全に捨て去ることを含みます。そうすることによって、私たちの中にある確かな罪のシミが神様にあって完全に贖われるのです。

最後に語られているのは個人的罪の否定に関してでした。

1John 1:10  もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

罪が神様との交わりを破壊し、私たちの性質の中に生まれつきあるものだと認めたとしても、自分自身が実際に罪を犯したことを否定するなら、神様との間にある交わりは失われます。「罪を犯したことがない」というのは単に偽りを言ったり、欺いたりするということではなく、神様をも偽りものとしているのです。聖書66巻で神様は人の内にある罪を語り、そして皆罪を犯しているという現実を語っています。

神様との交わりは、光の基準に従って立ち、自分の罪を告白し、赦しときよめを受け続けるという歩みへと招いています。この後は月に一度の聖餐式が行われます。私たちは今、十字架にかかられたイエス様の流された血、そして裂かれた肉、イエス笹間の十字架の死を覚えたいと思います。そして、罪赦され、闇の中でなく光の中へと共に歩み出していきしょう。

About the author: 東御キリスト教会

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