序
前回の箇所においては、罪に対する私たちのあり方と私たちが歩む光の道について教えられました。私たちはこの世にて生きる時、闇に自ら進み、光を遠ざけてしまうのではなく、罪に縛られた生き方でなく罪から救われた希望へと進む道を示されています。神様は光であり、闇が全くありません。光であられる神様に照らされて、私たちは闇の中へと隠れてしまうのでなく、光の中を歩み続ける、キリストのうちにとどまり続けることによって神様のもとにある交わりに生きていくことが出来ます。
今回の箇所は、そのような光の中に招かれる道についてさらに一歩深みへと入り、そして私たちの地上における実生活へと話の焦点が向けられています。そして、私たちを罪から救う唯一の道であられるイエス様へと私たちは心を向けていくことになります。罪に生きる私たちが神様の愛に生きる者と変えてくださるのは、義なるイエス・キリストであり、そして私たちの歩みはイエス様の歩みへと変えられていくのです。私たちのためにいのちをかけて救いの道となられたイエス様について、そしてイエス様のように歩むということがどういうことか、共に見てみましょう。
本論
1章までは「もし○○なら」という構文を繰り返しながら、偽の教師のあり方や言葉の中の矛盾を指摘し、神様との交わりに生きるということについて教えられました。そして2章に入りこの手紙を読んでいる者たちに、手紙を書き記した目的を語ります。
1John 2:1 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。
手紙を書いたヨハネは、手紙を読んでいる者たちに「私の子どもたち」と愛をこめて優しく呼びかけます。ただ彼自身が年をとっていただけでなく、両者の間に親しい関係があったことが分かります。教会に直接訪問することが出来ないヨハネは、彼らに対する牧会的な配慮の下で、彼らが罪という闇に陥ることがないように望みました。1:3.4にてヨハネは、交わりを持ち、喜びが満ちあふれるために手紙を書いた目的を語りました。罪はこの交わりを壊し、喜びを失わせるものだと知っていたからこそ、1章で罪の赦しときよめがあること、そして誰もが罪を犯しているという事実を主張しました。しかしそれは、罪を軽視したり、罪を犯し続けたりすることを認めているのではなく、自分の罪を認識し、それを告白するとともに、罪のない生活を歩むことをここで強調しています。
光の中を歩むための第一歩は、罪を告白することでした。第二歩は、1節で語られている罪を犯さないようになることです。ヨハネは、クリスチャンはまだ完全にされていないために罪を犯してしまうことを知っていました。しかしヨハネは、その不完全さゆえに罪を犯してしまう現実を言い訳にして光から離れることを望みませんでした。神様の語る高い基準と私たちの罪の現実、両者の間にある大きなギャップに対して、ヨハネは言葉を続けながらこの間に立ってくださる方を示します。それがとりなしてくださる方であり、義なるイエス・キリストなのです。「罪を犯さないようにするため」という目的の言葉に対して「しかし、もしだれかが罪を犯したなら」という牧会的な言葉が続くことで、神様と私たちの間のバランスをヨハネは保ちます。そして両者を結ぶ道となり、神様の前でとりなしてくださるお方がおられるという希望を示しているのです。
とりなしてくださる方という言葉は、原文であるギリシャ語ではparaklētosという言葉になります。この言葉は他にも弁護人、助けるために呼ばれた者という意味を持ちます。弁護人という言葉を聞く時、自ずと裁判を行う法廷をイメージさせられます。裁判官は御父であられる神様、そして弁護人は義なるイエス・キリストです。ちなみに福音書でもparaklētosという言葉が登場しますが、他にも聖霊を指して「もう一人の助け主」としても用いられています。聖霊がもう一人の助け主として私たちのいるこの地に送られたのに対して、もう一方の助け主はイエス様であり、天にあげられた後、天において弁護人として私たちをとりなしてくださるのです。
私たちを弁護して下さるこのお方は、義なるお方としても紹介されています。罪の性質を持つ人間に対して、神様の前に立ち、罪に縛られない唯一なるお方であるイエス様こそ弁護人としてふさわしくあられ、そして他でもない罪を犯してしまう私たちのためにその義をもってとりなしを行ってくださるのです。
罪を犯してしまう私たちにはとりなしてくださる方がおられるという希望が語られますが、それだけではありません。
1John 2:2 この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。
弁護人として私たちのために立って下さる姿は頼もしく、心強いものでありますが、罪のためにのいけにえという姿をイエス様はお持ちなのです。1節では法廷と弁護人というイメージが与えられましたが、2節では一転して神殿となだめのためにささげられるいけにえが示されています。
宥めという名詞は、贖いや和解、償いという意味を持つ言葉です。これは聖書全体で語られているように、ただ自分自身の中から罪をなくすというだけでなく、私たちと神さまとの個人的な関係を妨げるものを取り除き、対処し、関係を回復させるものなのです。そして、そのために御子イエス様の血がすべての罪から私たちをきよめてくださるのです。贖いはイエス様の血、そして死と深く結びついているのです。イエス様は私たちのために父なる神さまの前に立って弁護するだけでなく、その命をも捨てて犠牲となるためにささげられました。
イエス様によってなされた宥めは、罪に対する神様の怒りを解くことになります。聖書の中では一貫して罪と悪に対して神様が怒りを表す姿が見られますが、それはただ感情的になって怒りをぶつけるのではありません。世の中の神話などで良くみられる、神の怒りを鎮めるために人間が供え物を用意して事を収めるのとはまた異なります。罪を犯した者に対して救いの道を備え、憐れみをもって私たちが滅びることがないように、一方的な恵みを持って光へと招いておられるのです。
1John 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。
罪を赦し、罪を犯した者との関係を回復させるためには、罪の代価が支払わなければなりません。神様のきよさと義は、御子であるイエス様を犠牲とする愛によって満たされるのです。私たちの側から罪を取り除くのではなく、神様の側から救いの道が備えられました。そして聖さの源である神さまの方から道を備えてくださったために、そして罪を持たない御子イエス様が私たちの代わりに罪を背負っていけにえとなってくださったために、神様と罪の現実の間にあるギャップが愛によって解消され、私たちは神様のもとで生きていくことが可能となったのです。
この贖いのわざは、全世界まで広がります。過去現在未来を越え、世界のあらゆる人種、国、民族を超え、信じるすべての人が滅びることがないように働きかけるのです。「もしだれかが罪を犯したなら」という「だれか」は、罪を告白し、イエス様を救い主と信じるあらゆる人々を対象にして呼びかけられています。このようにして、私たちは罪の束縛から解放され、光へと進み出ていくのです。
ヨハネはここまでの箇所で、神様が光であり、神様との交わりを持つ者の歩みについて偽の教師や彼らに従う者たち主張を視野に入れながら語ってきました。そして3~6節では、同じく偽りの教師に対して否定をしつつも、クリスチャンの持つ確信と、光の中を歩む招きがさらに強調されています。
3節では、神を知ることと神の命令を守るということが主張として語られています。「知る」あるいは「分かる」という言葉は、ただ知識的な理解や認識を指しているのではなく、神様との個人的な交わりを持っていることです。神様を知ることによって日々の生活のうちに神様との交わりを確信し、信仰において赦しを確信し、そこから神の命令を守るという従順の結果が伴うことになるのです。神の命令というのは、イエス様を信じ、その命じられることを行うことです。そしてヨハネの文書の中では、互いに愛し合うという命令へと結びついていきます。従順さは、神様に対する信仰と愛の現れとして私たちのうちから生じていくものなのです。その逆として4節では、命令を守らない者について指摘し、「偽り者であり、その人のうちに真理はない」と語ります。この二つの言葉は同じ意味であり、人は神様と真の関係を持つことが出来ないという主張が示されています。
そして5節に入って、3節で語られた神様に対する従順さへと話が再び向けられますが、ここでは神のことばが守るべきものとして登場します。神様のことば全般、命令よりも更に広く神様の御心の啓示を表すものです。そして神のことばはイエス様そのものです。イエス様によって神様の御心が私たちのうちに明らかにされ、イエス様を通して神様を知ることになるのです。命令ということばだけでなく、ここで神のことばが用いられることによって、ただ律法主義的な立場を主張していないことが分かります。信じる者は、律法を成就されたお方であり、神のことばそのものであられるイエス様とその御言葉を守ることになっていきます。
信じる者たちが神のことばを守るとき、ここでは神様の愛が全うされると語られ、神様を知ることと神様への愛がここで結び付けられています。全うされるという言葉は、完全に実現する、完成するという意味を持ちます。他の箇所での用いられ方から、何かを完成させることとしての完全という概念がそこに示されています。互いに愛し合うという神様の命令に従い続ける時に、私たちの神様への愛が完全に実現される結果が表れることになるのです。神様への愛が全うされるという結果は、クリスチャンが自力でなし得ることではなく、十字架上で犠牲となったイエス様の贖いと流された血によって可能となります。そして来るその日まで成長し続け、神のことばに対する従順さを持ち、神様への愛を完全に成し遂げるまでに至るのです。クリスチャンは、その成長と完全へ至る歩みの中で神様とのつながりに確信を持ち、自分が神のうちにいるという密接で豊かな交わりが分かるのです。
6節では結びとして、神様のうちにいることを知る根拠として「イエスが歩まれたように歩まなければなりません」と締めくくります。とどまるというのは、ヨハネが福音書や手紙でよく用いる言葉ですが、これは習慣的に継続して持つ交わりを意味しています。この継続的な神様との交わりについては、私たちに与えられた御霊によって確信することが出来ます。
1John 4:13 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
互いにとどまり合う関係、それは真理を証しする御霊の働きによって実現し、そしてその交わりも神様からの恵みによって保たれていくのです。
信じる者たちは、御霊の働きのもとでイエス様の歩まれたように歩むことが出来ます。この「ように」という言葉は強い表現で、イエス様が歩まれたのとまったく同じように、あるいはすべてのことにおいてと意味されます。そのイエス様の歩みというのは、父なる神さまへの完全な従順と人々に対しての愛を献身的に示された歩みです。私たちは闇の中を歩みながら神様を知っていると主張していくのでなく、イエス様が示された模範へと私たちは近づき、御霊とともに光のもとへと歩み続けるのです。
適用
私たちは「自分には罪がない」「罪を犯したことがない」と主張することは出来ないと前回の箇所で見てきました。しかし、そのような現実の中で私たちは闇の中へと進んで光を諦める必要はないのです。神様と私たちの間には、救い主イエス様が立っておられ、私たちのためにその命を捨てて完全に罪の贖いを成し遂げました。贖いによる救いは今現在を生きる私たちにも確かに与えられ、そして今現在もイエス様は私たちをとりなしてくださる方として神の右の座におられ、私たちを義としてくださるのです。どのような人に対しても、イエス様のとりなし、そして十字架の死による救いは確かに全うされます。この神様の愛によって、罪の支配から解放され、神の子とされた私たちは、その応答として神様への愛をもって歩んでいきたいのです。神様に愛され、神様への愛をもって生きる、この愛における交わりの中で私たちはイエス様の似姿へと変えられていくのです。
結
光の中を歩むということは、罪がないだけでなく、その歩みの中に神様が示された愛が表れます。イエス様がそうであったように、私たちも神様のことばを守り、従うことによって完全に愛を実現していきます。この世の闇をさまようのでもなく、罪に支配された歩みでもなく、神の愛に生きる者として、とどまり続けながら父子聖霊の愛の交わりへとその身を置き、キリストの似姿へと近づいていきましょう。

