6/28 Ⅰヨハネ2:12-17「罪が赦された者の歩み」

ヨハネはこれまでの箇所において何度も、この手紙を読んでいる私たちを愛する子どもたち、子どもたちと呼びかけてきました。それは、ヨハネ自身が高齢で成熟した使徒だからという理由もありますが、何よりもこの手紙を読んだ当時の教会の人々、そして時代を超えて今聖書を読む私たちに対して、愛と親しみを込めて「子どもたちよ」と呼びかけてきました。教会には多種多様な人が集まります。イエス様を信じてからまだ間もない方から、何十年も信仰を守り続けている方、それぞれが神の家族として集まっており、皆が愛する子どもたちと呼ばれます。今回の箇所では、そのような神の家族であり、神様の子どもである私たちがこの世において信仰生活を守ることについて教えられています。この世において信仰生活を送る時、私たちは世と神さまとの間に立たされ、選択を迫られることがあります。ヨハネの時代においても、現代においても、信仰者としての戦いがそこにあります。この世に生きる私たちが本当に得なければならないものがなにか、そして、私たちが愛に満ちた歩みを進めるために何を守る必要があるか共に見ていきましょう。

本論

前回までの箇所では、信じる者たちの兄弟姉妹が互いに愛し合うという古くて新しい戒めを共に見てきました。光と闇の対比が描かれていて、私たちは兄弟愛によって光へと進むことを招かれました。そして今回、改めて私たちは神様の愛によって救われた一人の神様の子どもであることを自覚させられます。

1John 2:12  子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。

信じる者はすべて罪を赦された祝福に与ることができるのです。1:9で語られたように、罪を告白した結果、私たちは罪の束縛から解放されて許しの恵みを受け、きよめられると語られました。そしてそれは自分の力によってではなく、唯一の救い主イエス・キリストによって開かれた道です。神様への愛、兄弟への愛、それらによる光の中に進む歩みをこれまで見てきましたが、ヨハネはここで、私たちの罪のために十字架にかかられ、宥めのささげものとなり、復活され、そして今もとりなしてくださるお方としてイエス様の御名を私たちに伝え、このお方によって私たちは罪を贖われた者として確信を持つことができる恵みを覚えるのです。私たちは祈りを閉じる際に「イエス・キリストの御名によってお祈りします」と言います。私たち自身の言葉でなく、御子なるイエス様のお名前が祈りをささげるために、私たちは確信を持つことが出来ます。

私たちはみなイエス様によって罪を赦された者です。その上でヨハネは幅広い人が集まる教会に対して、それぞれの世代に呼びかけます。それが「父たち」「若者たち」です。

1John 2:13    父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

1John 2:14    幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、 あなたがたが御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。

 まず呼ばれている父たちというのは、霊的に円熟しているだけでなく、年齢的にも先輩の人々を指しています。長く信仰を守っている彼らが知っていると言われている「初めからおられる方」とはどのような方か。ヨハネの文書において初めからいたと述べられているのは「ことば」です。ここでは父なる神さまよりも、ことばである子なるイエス様を知るようになったことに注目して確認されています。人として来られたイエス様が神であられること、そしてことばと呼ばれるお方は世界の創造の前から永遠に父なる神様と共におられる方であることを知るのです。

 父の次にあげられているのは若者です。幼子たちと父たちの中間に存在し、年齢的にも若い人たちを指しています。日常のクリスチャンの生活の中で、様々の活動に関係し、様々な戦いに直面しながらもクリスチャンとしての品性を確立し、成熟へと至るために努めている人々です。世に生きている中で神様でなくこの世を愛してしまう誘惑と闘い、光へととどまり続けるために力を得る必要があります。その力は聖霊を通して与えられるものです。若者たちは神様から聖霊を通して与えられた力によって悪い者たちに打ち勝つことになります。信じる者たちのうちにおられ、住んでおられるこのお方によって若者たちは、厳しい戦いの中で勝利者となるのです。打ち勝ったという言葉は過去形が用いられています。それは他でもないイエス様ご自身が十字架での死と復活によって私たちに証ししてくださいました。世における悪との闘いはイエス様が再臨された際に完全に成就しますが、イエス様ご自身はすでにサタンを打ち負かしているために、私たちはイエス様と共に勝利を収める側に立っていることを確信して、この戦いに挑むことができるのです。そうして若い者たちは、悪い者に打ち勝ったということができるのです。

 14節は幼子たちという呼びかけで始まります。これは12節の子どもたちと同じ意味でありますが、12節の子どもたちは、親に対する子どもという関係を強調しているのに対して、14節の幼子たちは、大人に対する子ども、しつけや訓練を受ける小さい者たちという関係が強調されています。「子どもたち」と親しく呼びかけていたのと同じように、ここでも「幼子たち」と親しげに、愛によって導くようにヨハネは信じるすべての者たちに語ります。彼らは宥めのささげものであり、弁護人としてとりなしてくださるお方であるイエス様の御名によって、この者たちは罪が赦され、今も赦された状態にあります。そしてさらに彼らは、イエス様を通して神様を父として知るという信仰に至っています。クリスチャンとしての子ども、幼子としての一歩目は、罪の赦しと神さまを父として知り、父と子の関係の中に入ることから始まります。

 続けて語られている父たち、若者たちへの言葉は13節とほとんど同じ内容が繰り返され、強調されています。異なるのは、若者たちが主にあって強い者である事、そして彼らが悪い者に対して打ち勝った根拠として神のことばがとどまったからと語られています。イザヤも40:31の預言の中で「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」と語っています。クリスチャンは絶えず、世の悪い者であるサタンの攻撃から身を守らなければなりません。そしてそれは御言葉が彼らのうちにとどまり、そして聖霊によって神様に根差し、力を得る中で堅く保たれ、勝ち得ることができるのです。イエス様が語り、イエス様が体現された神様の御言葉をただ聞いて終わるのではなく、留めながら生きていくことによって若者は強められ、自分の力でなく神様の力によって力強く進んでいくのです。

 クリスチャンたちの信仰の基盤とその力に確信を持って私たちは世に打ち勝ったとヨハネは語りました。信仰としての父と呼ばれる成熟した者も、若者も、イエス様と父なる神さまの交わりに加わり、御言葉によって固く立つことができることを確認した上で、ヨハネは世との戦いに注目します。

1John 2:15  あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。

1John 2:16  すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。

 これまでの流れから唐突に重要な警告がなされましたが、ヨハネが手紙を書き記したのは、先ほどのような信仰の者たちこそ、このような闇の中に陥ることがないようにするためでした。クリスチャンの立場、そして特権を書いた後に、ヨハネはクリスチャンと世との関係について指摘し、全体に対して訓戒しています。

 世という言葉はヨハネの文書の中で何度も登場します。それは「神さまから離れた人々」とか、「罪と悪の力によって支配された人間社会全体」のことを指しますが、この15,16節にある世という言葉は、「神さまから離れて神様に敵対する全ての組織、領域」という意味を持ちます。クリスチャンは、一方では世の裁きに置かれず、死からいのちへと移った者として世から切り離された存在だと言えますが、その一方で、罪へと引きずり込もうとする世の力や誘惑に常にさらされている存在でもあり、私たちは闇の中で光にとどまる教えに従うことが求められています。

 ヨハネがここで念頭においているのは、世というのが神様への対立や罪への誘惑の源となっていることです。世そのものは神様が創造された際に良しとされたものであり、世にいて苦しんでいる人々を神様は愛し、滅びることがないように救いの道を用意されました。しかし、悪において罪に堕落し、罪に支配された組織としての世を愛するべきではないと私たちに語られています。クリスチャンは神様を愛し、兄弟を愛するために、世を愛することは出来ません。マタイ6:24で「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」と語られているようにです。この15節の愛するという言葉は、10節の兄弟愛とは少しだけニュアンスが異なります。兄弟愛はイエス様が模範となったように隣人への思いやりがありますが、ここでの愛するというのは、何かに惹かれ、それを楽しんだり強く求めることを意味しています。神様は光であり、世は闇であると語られており、光と闇を同時に愛し、同時にとどまるということは出来ません。私たちが愛し、求めることは世に対してではなく父なる神さまである必要があります。

 16節ではさらにその理由が記されています。それは御父から出たものではないということです。肉の欲は、堕落した、罪深い性質の持つ願望であり、神様とは相反するものです。それはアダムから受け継いできた古い罪の性質であり、私たち誰もが持つものでした。目の欲は、肉の欲に至る道となります。私たちの目は、表面的なものに囚われるのではなく、目に見えない者に心を寄せていくべきなのです。そして暮らし向きの自慢とありますが、自慢という言葉は、他の聖書の訳では誇りとも訳されている言葉です。空しい誇り、見栄を張る事に私たちの心が奪われ、神様から離れてしまわないように語られます。アダムが罪を犯してからの世において私たちは、神様から出ていないものに対して本当に心を注ぎ、愛する何か問われています。

 

1John 2:17  世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。

 この世において、いのちが現れ、光が輝いている新しい契約の時代が来て、闇は過ぎ去りつつあります。私たちはここで再び神様の御心に目を止めることになります。そして同時に私たちは神様から罪を赦された存在であることを自覚させられます。

 

私たちは罪を赦された者として、神様からの愛と恵みを受けました。私たちは自分の愛をどこに向けるか、どこに注ぐか、聖書で問いかけられます。この世で信仰を守り戦う私たちは時に疲弊し、苦しみを覚えますが、そのたびに、私たちに大きな愛を注いだ神様、いのちを捨ててまで罪を赦す道となられてイエス様の愛を思い起こしていければと願います。神様を愛するための歩みに踏み出す時、私たちに与えられたみ言葉にとどまり、力を受け、世において光にとどまりましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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