7/19 Ⅰヨハネ3:11-18「行いと真実をもって愛しましょう」

ヨハネの福音書と手紙を読み進めていく中で、愛するという言葉を私たちは何度も目にしてきました。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」という福音書の箇所から分かるように、神様ご自身の愛やイエス様の愛が聖書を通して私たちにはっきりと示されてきました。それだけでなく、私たちも互いに愛し合うという命令もヨハネの文書の中で何度も語られています。愛は神様と私たちの縦の結びつきで終わるのではなく、私たち同士の結びつきにおいても同じように示されています。今回の箇所は私たちが互いに愛し合うという命令について挑戦を投げかけています。今日の箇所から、この世において行いと真実をもって愛するとはどういう意味なのか、そして、兄弟を愛するために私たちは何が必要なのかを共に教えられたいと思います。

本論

前回の箇所では、神の子どもとして招かれている恵みについて教えられました。私たちはイエス様を受け入れ、とどまる時に、神様の子どもとしての特権を得て、いのちの道に生きる希望が与えられます。罪の支配の下にいた私たちはそこから解放されて、神様と父子の関係を結ぶことになります。罪の闇に陥ることなく、罪を贖われた勝利者として確信をもって、希望をもって私たちは信仰生活を歩むことができると教えられました。

前回の箇所である10節の最後には、神の子どもと悪魔の子どもがはっきりと分かれることが記されています。その区別の基準となるのが、義を行わない者、そして兄弟を愛さない者だと言うのです。この互いに愛し合うということについて、ヨハネはあなたがたが初めから聞いている使信であることを示しています。それは、イエス様が地上におられた時に私たちに命じられたみ言葉を思い起こさせています。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」また使信という言葉は、1:5では「知らせ」と訳されており、それは私たちに語られる福音の本質でありメッセージです。イエス様から命じられたこのメッセージに私たちは立ち返るとともに、どの時代においても変化することのない教えなのです。

この使信についてさらに詳しく掘り下げるためにヨハネは創世記のカインとアベルの事件を悪い例として出します。カインは自分の生け贄が受け入れられなかったのに対し、アベルが受け入れられたことに腹を立て、弟の殺人計画を立てて実行しました。ヨハネはこの行動を「自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったから」だと語ります。またパウロはヘブル人への手紙の中でこの事件についてこう語りました。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです」。カインとアベルの事件より、私たちは互いに愛し合うことを拒むことの恐ろしい結果を教えられます。カインの殺人の理由は、ただ兄弟の仲が悪かったからではなく、自分の行いが悪かったからでした。そこには愛がなく、憎しみ、妬みが満ちていたのです。かつてイエス様を十字架にかけた祭司たちも、同じ理由からでした。カインは自己本位という点で義を行わない者であり、ヨハネが語る悪魔の子どもはこのような特徴を持つのです。

カインとアベルから、個人の範囲での愛と憎しみの対比がまず語られ、そして13節では世にまで規模を広げていきます。カインがアベルを憎んだように、神の子どもである兄弟たちもまた世から憎まれるということが警告されます。ヨハネはこれまでの文書の中で、世について神様と対抗し離れるすべての者たちを指していました。世と神様は相反するだけでなく、世から神様に、そしてその子どもたちに対しても憎しみが向けられます。イエス様は最後の晩餐の場面にて、互いに愛し合いなさいという戒めを与えた直後に、弟子たちが世からの憎しみを経験することが語られました。この二つの教えは、イエス様が天に昇られた後の弟子たちの生活の必要と警告を簡潔に示しています。初代教会の時代が始まった後、弟子たちは互いに愛し合いながら結束し、一部のユダヤ人から向けられる敵意に対して備える必要がありました。今回の箇所においても、読者である当時の教会の人々だけでなく私たちに対しても、そのような必要と警告を伝え、その信仰を励まして力づけているのです。

世におけるクリスチャンの歩みは短い警告の後に愛への勧めへと移ります。

1John 3:14  私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。

死からいのちに移ったという概念は、福音書にも記されており、罪の結果として訪れるさばきを逃れ、永遠のいのちを得ることを意味しています。神様は私たちのいのちの源であり、救い主イエスキリストを通してご自身の下に来る者たちにその永遠のいのちを約束してくださいます。移るという動詞は、原文のギリシャ語では完了形という形になっており、「いのちに移って、今なおその状態の中にいる」ということを意味しています。イエス様を信じている者たちは、それをただ知識的に知っているのではなく、体験的に知っていますと語ります。世と同じように憎しみの生活の中で日々生きているのでなく、信じる者は神様の示す愛の生活へと入れられるのです。イエス様を信じ、イエス様にとどまり、新しく生まれたことによって、いのちを持つことになります。それが表れるのが、兄弟を愛し続けるということです。愛は御霊の実の中で一番初めに上げられ、いつまでも残るものの中で一番すぐれているものとして挙げられています。聖書の中で、愛は私たちにとって大切な使信であり、そしてイエス様ご自身が模範となって私たちに守るように命じられた戒めなのです。

愛の重要な証明が語られた後、兄弟を愛する者がいのちに移るのに対し、愛さない者は死のうちにとどまるとはっきり対比されています。そして15節においては、兄弟を憎む者は人殺しであると極めて率直に語ります。カインがアベルを憎しみによって殺めたことは他人事でなく、誰であってもそのように憎しみを抱くところに神様はさばきを受けなければならないと語ります。

Matt. 5:21  昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

Matt. 5:22  しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

愛することについても、憎むことについて、どちらもギリシャ語では現在形が用いられています。兄弟を憎むものは罪を赦される可能性がないということではなく、兄弟を憎しみ続ける心を持つ人の中に、神様の与える永遠のいのちは存在しないということがここで語られているのです。

私たちは罪の支配の中にいたものであり、死に至る道をもっているものでした。しかしそのような罪の世において、イエス様は人となって来られました。そしてイエス・キリストを通して私たちは愛の本質とその模範を教えられたのです。

1John 3:16  キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

イエス様の愛は十字架による死によって完全に現わされました。それは、信じる者が決して滅びることがないように命を捨てられた良い羊飼いとしての愛です。イエス様はご自身の犠牲的で献身的な愛を私たちに豊かに注いでくださいました。羊のために自分の命を捨てる羊飼いは決して多くありません。イエス様が示されたのは、他者が生きるようになるために、自分の命を捧げて代わりに死を背負うという愛の姿です。そしてそれだけでなく、イエス様ご自身を模範として、その愛を互いに行うように私たちに命じられるのです。その具体的な実践として17,18節が語られています。

1John 3:17  この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

1John 3:18  子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。

イエス様が私たちに示された自己犠牲的な愛に照らし、物質的な必要がある信者たちに対して私たちが心を閉ざさないように呼び掛けられています。神様の愛は、私たちの神様に対する愛を引き起こすとともに、クリスチャン同士の愛へと導くのです。クリスチャンは実生活の中では、殉教したり誰かのために命を捨てるといったことを経験することはほとんどありません。しかし、信仰生活の中で私たちは誰かの助けを必要とする人々に直面します。ここでの財という言葉は、ただお金のことを指しているのではなく、本来はいのちを意味する言葉であり、そこから生活の必需品、日用品を意味する言葉となりました。また、この心という言葉については、愛情のこもった心、優しい愛情を意味する言葉です。愛はいのちを捨てるという直接的な犠牲だけではありません。日常におけるこのような小さな場面においても、私たちは優しい愛情をもって兄弟に手を差し伸べ、その愛を実践していくことができます。他の人のいのちを豊かにするために、自分自身にいのちによって価値あるものを喜んでささげるところにイエス様の示された真実の愛があります。

神様は愛なる神さまです。その神の子どもである私たちもまた、神様による真実な愛を示すものでありたいのです。そしてそれは単なる感情やことばだけで終わるものでもなく、実際的に行う戒めとして私たちは守ることも語られています。

私たちは神様の愛とイエス様の愛によって永遠のいのちへの道を進むことができます。本来滅ばなければならなかった者が、本来罪に縛られ、闇にいた者が、イエス様の十字架によって示された愛によって、神の子どもとして迎え入れられ、光として歩むクリスチャンへと新しく生まれました。私たちは神様からの愛を受け取って終わるのでなく、神様への愛を表すとともに、兄弟への愛を示すことを忘れないで生きたいと思います。イエス様は私たちにご自身の姿を通して愛の模範を示されました。神であられながら人として世に来られ、ひざをついて弟子の足を洗われた姿、そして木にはりつけにされて自分の命を捨ててまで私たちの罪を贖い、命を与えてくださった姿、私たちはこのイエス様のもとで愛にとどまり、愛の交わりを持っていきたいのです。最後にエペソの手紙の御言葉を分かち合いたいと思います。

Eph. 5:1  ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。

Eph. 5:2  また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。

神様から受けた愛のもとで、互いに愛し合う神の子どもとしてともに生きていきましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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