7/12 Ⅰヨハネ3:1-10「私たちは神の子どもです」

今日の箇所では子どもという立場と視点から私たちの生きる道が示されています。これまでも神様と罪の対比が描かれてきましたが、罪の世に生きる私たちはこの神の子どもとしての恵みによって生きる道が開かれています。私たちは祈る時に「天の父なる神さま」と呼ぶことが出来、神様との間に人格的な交わりを持つことが出来ます。今日の箇所を通して、私たちを子どもと呼んで招いてくださる神様の愛、そしてキリストにあって罪から解放される恵みを見ていきましょう。

本論

前回までの箇所では、キリストにとどまるということについて教えられました。偽り者や惑わす者たちがたくさんいる今の世の中において、私たちはただ神様とイエス様を何となく知って終わるのでなく、信じてとどまり続けることが必要だと語られました。私たちの信仰生活は時に揺るがされるようなことがあったり、苦難を強いられることがありますが、そのような時に、私たちを救いへと導いたあの時語られた福音に立ち返り、御子イエス・キリストの姿、御父なる神さまの姿を見上げることが大切だと教えられました。そして、私たちのうちに住んでおられる聖霊なる神さまにとどまることによって、私たちの信仰は確かなものとされるのだと教えられました。

とどまるというキーワードを繰り返し勧められてきたところで、最後は神から生まれたことについて語られました。今回の箇所は、その「神から生まれた」という部分から御言葉が展開されています。ヨハネはたびたび神様の愛について私たちに語りますが、ここでは私たちが神の子どもと呼ばれることによってその愛を示しています。神の子どもとされることは、私たちが神の家族の一員として選ばれたことを意味します。そして神さまご自身が私たちを子どもとして招いてくださったという愛の招きを表しているのです。

1John 3:1  私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

ここには、私たちを神の子どもとしてくださった神さまの愛に対する驚きと感謝が溢れています。「どんなにすばらしい」という驚きを表す言葉は、ギリシャ語では異国から来たものという意味であり、今までに経験したことのないような、全く異例のものだという大きな驚きを表現しています。さらにギリシャ語の子どもという単語は、「生む」という単語から派生された言葉です。子ども単体の存在や幼さを見ているのではなく、親子の関係という面を指す言葉であり、神様によって生まれ、神様の家族の一員とされ、神様の性質を受けている状態を表しています。そしてそれはただ単純に子どもと呼ばれているのではなく、事実として語られているのです。神様と信じる者の関係は、父と子という人格的で親密な関係へと導かれていきます。そこに豊かな愛があるのだと私たちに語られています。このすばらしい愛を与えてくださったとありますが、「与えてくださった」という言葉は、ギリシャ語で見ると完了形という形になっています。つまり過去のみわざの結果が現在まで続いていることがここに示されているのです。神様から与えられる愛は、一時的なものではなく、父と子という関係のように途切れることなくこれからもずっと続いていくのです。

この愛の大きさが驚きをもって語られた後、ヨハネは世との対比を示しています。これまでの箇所でも何度も世とキリスト者が相反するものであることは語られてきました。神様と父子の関係を持っていても、世全体から受け入れられるとは限らないことに苦悩を感じることもありますが、ヨハネはその理由として、世が御父を知らないからだと語ります。神の子どもとしての特権は、世から得ることが出来ない恵みであるとともに、父なる神さまを知らないうちは体験することの出来ない交わりなのです。

ヨハネは2節でさらに神の子どもとしての関係についてこのように強調します。

1John 3:2  愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

この繰り返された内容の中で強調されているのは、「今すでに」神の子であるという事実です。子どもとして神様の愛と祝福を受けている今、私たちはまだ明らかにされていない未来においても希望を抱くことができるのです。ここで語られているのは、私たちは最終的にキリストに似た者とされる恵みと確信です。私たちはそこで、罪や闇に生きるからだでなく、栄光に満ちたイエス様に近づくことが出来、霊的にも私たちはイエス様の聖さへと近づき、光にとどまり、神様の御許で生きる者とされるのです。私たちは今イエス様の姿をこの目で見ることは出来ません。しかし来るその時、私たちが目にするのは、天の栄光の中におられるキリストの姿です。私たちはその時まで、聖霊によって栄光から栄光へと変えられ続けていくのであり、今その道の中にあるのです。

現在から未来まで、私たちは父なる神さまとイエス・キリストによって希望を抱く道が開かれています。

1John 3:3  キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

クリスチャンの信仰生活は希望の生活です。キリストにある清さというのは、単なる形だけの清さでなく、内面的な清さです。この清さという単語は、本来は道徳的にシミのないことを意味します。私たちはイエス様の血によって清められ、イエス様が再臨されるその日まで聖霊によって清められ続けます。その中で私たち自身も、キリストに似た者とされる歩みの中で、自分を清くする歩みをなすのです。

清くする歩みがクリスチャンの信仰生活に表れることに対して、そうでない者の歩みがどのようなものなのか、それが罪という性質へと話が展開されることが教えられています。そして4節以降では、キリストにとどまる者と罪にとどまる者の対比がなされていくことになります。4節で示されている罪の定義は、律法に違反することです。ここでの「違反する」というのは、ユダヤ人たちが守っていたモーセの律法を破るという話に限定されず、神様に敵対して、神様の示された道を無視して逆らうということになります。神様の御心に対して自分本位の主張をすること、神様に従うことなく自己を中心とした態度を貫き続けること、それがここでの律法の違反の意味となります。罪という言葉には「的を外す」という意味がありますが、神様の定めた基準である的から離れて外れることは、神の子どもとされたクリスチャンとは反対なのです。

清さと罪という対比の中で、私たちはこの罪を取り除くことができるお方へと目を向けられます。私たちがすでに知っている神の御子であり、罪を持たない唯一のお方であるイエス様が、罪に生きていた私たちのためにこられました。旧約時代の中でユダヤ人たちは罪をきよめるために傷のない子羊を犠牲にささげていました。そのような中でイエス様は人となってこの世に来られ、人々のために苦しみ、私たちに罪を背負い、神様に受け入れられるように犠牲となられました。神であられるお方は、罪の贖い主として命を捨て、私たちが神様の前に罪を完全に赦されるようになるために、人となってこの世に来られたのです。私たちの罪を取り除くためにこの世に来られたイエス様の犠牲をすでに知っている私たちは、その犠牲的な愛を蔑ろにして罪を犯し続けていくのではなく、罪から離れてキリストにとどまる者となるように招かれているのです。罪を全く持たず、罪の反対のところにおられるイエス様は今も生きておられます。このお方のもとで、クリスチャンとして生きるということは、世と同じように罪を犯す者としての歩みから決別する必要があります。ヨハネは福音書の中で、まことのぶどうの木であるイエス様にとどまる枝として生きることを記しました。ぶどうの枝は、その木にとどまることで木から命を受け取ります。そしてそれは瞬間的なことでなく、とどまり続けることによって実を結び、永遠のいのちへと至るのです。このキリストとの一致と罪からの分離によって私たちはクリスチャンとしての歩みを完全なものとし、そして新しく生きるものとされるのです。クリスチャンを支配するのは罪ではなく、罪のないイエス様のいのちです。だからこそ、クリスチャンは罪を犯しても、悔い改めとしてイエス様の前に言い表し、きよめていただき、そして自分を清く保っていくのです。罪は依然として信じる者たちの生活の中に深く根ざしており、キリストから離れさせて闇の道へと引きずり込もうとします。しかしクリスチャンは、自分たちの罪の罰をすでに代わりに受けてくださったイエス様によって赦されている者として、罪を犯し続けるという悲惨な生活から救われるのです。

キリストにとどまる者はこの世において惑わされることがないようにとヨハネは警告します。イエス様を否定する偽りの教師たちや、神様を知っていると言いながら不義な生活を送っていた者たちがいる中で、ヨハネは彼らの主張を否定し、私たちが義へと進むよう求めています。私たちは自分の中にある義ではなく、イエス様によって与えられた義によって正しい行いへと導かれていくのです。イエス様こそが正しい方と呼ばれるお方であり、罪を犯し続けていた者が新しく生まれ、今や神の子どもとして生きる中で義を行う者とされるのです。良い木につながっている枝からは良い実が結ばれていきます。実が木を良いものにするのでなく、また実だけの力で良いものを結ぶのでもなく、木が良いものであるからこそ、そこにとどまる枝と実も良いとされるのです。

私たちが神の子どもとしてキリストにとどまることについて教えられました。私たちがキリストから離れさせるこの罪は悪から出た者だと語られています。イエス様を否定する者、罪を犯し続けていながら神様を知っていると強調する者、彼らの罪の大本となるのが悪魔です。聖書の中でも、人が堕落するために蛇の形をとったのも悪魔であり、初めから罪を犯している者です。人の歴史の中で、悪魔は罪を犯し続け、そして人々を神様から離れさせて罪へと誘い込んでいるのです。偽りを語り、罪を悔い改めることのない偽教師たちは、神の子どもではなく、悪魔に属する子として呼ばれるのです。

そのような悪魔の働きを打破するために、イエス様は来られました。神の御子であるイエス様が人となって来られたという事実を示すとともに、悪魔という罪の根源の働きを破壊するために、必要な権威と力を持っておられました。打ち破るという言葉は、解放する、自由にするという意味を持ちます。悪魔の働きを壊滅させるのでなく、その力を取り除き、覆し、処分するためにイエス様は現れました。悪魔の最終的な滅亡は終わりの時に実現します。イエス様が来られ、十字架によって勝利を収めたことによって、私たちは悪魔に対する勝利に与るという恵みを受け取ることができるのです。

神様の子ども、悪魔の子ども、この区別によって私たちがどこに属し、どの道を歩むのかがはっきりされます。イエス様は罪と対立し、打ち破るためにおられます。私たちが信じていても罪は入り込むことがありますが、私たちは罪の支配に再び戻ることなく、その中で神の子どもとして生きるいのちの道を進むことができるのです。その理由として9節では神の種がその人のうちにとどまっていると語られています。それは、神のことばや御霊、神様のご性質など、神様から出たいのちの源となるものが私たちにうちにとどまる限り、神の子どもとして生き続けるのです。そうでない者は、罪を行い、愛のない者として歩むのです。

イエス様を受け入れたとき、私たちはイエス様を通して子となる特権を得るのです。私たちは悪魔によって罪の支配の中にあり、罪の奴隷として本来縛られていたものですが、神の子どもとしての生きる道が約束されたのです。

John 1:12  しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。

John 1:13  この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

私たちはこの確信によって、罪に陥らずに勝利し、永遠のいのちへと進み出ることができるのです。私たちを子として迎え入れ、イエス様を通して罪を完全に贖ってくださった中で、私たちはもはや闇の中を歩む必要はありません。私たちは神様の愛によって新しく生まれ、そしてこれからもキリストの栄光へと目指す歩みを持ち続けていくのです。このお方のもとで、神の子どもとして生きる喜びを共に分かち合いましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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