7/5Ⅰヨハネ2:18-29「キリストにとどまりなさい」

前回の箇所では、罪が赦された私たちの歩みについて教えられました。この世の中で信仰生活を送る時、本当に心を注ぎ、愛するものは何か問われます。信仰を持っていても、世との戦いに疲れたり、苦しんだり、その難しさを覚えることがあります。しかしそのような時に、私たちは他でもないイエス・キリストの御名によって罪を赦され、救われている確信に立ち返ることで、その歩みを確かなものとされるのです。私たちは御霊によって悪い者たちに打ち勝つ力が与えられ、神のことばが私たちのうちにとどまることによって強められ、この世においてクリスチャンとして生きることができると教えられました。

今回は、そのような中で生きる私たちの立場を確認し、そしてイエス様が来臨するその時までとどまることが語られています。これまでヨハネの手紙の中では何度も偽りの教師が登場し、教会に生きるクリスチャンが惑わされ、闇に生きることがないように繰り返し命じられました。惑わす者やキリストから離れて反対の道に歩む者が多くいる中で私たちは信仰を惑わされることなく正しく保つために、とどまるという言葉がキーワードとして何度も教えられています。私たちがキリストにとどまることの意味がどのようなものか、そして私たちの信仰の確信について共に見ていきましょう。

本論

まずヨハネが私たちに語るのは、世の終わりの時です。終わりの時は、旧約聖書において到来することが預言され、キリストの出現によって実現したものです。キリストがこの世に来られたことによって新しい時代に入り、この来るべき時代が来るのです。新しい時代がキリストの再臨によって完全に現わすまで、私たちは終わりの時の最中にいるのです。ここでヨハネは終わりの日でなく、終わりの時という表現を用いています。さらに厳密に訳せば、終わりの時間という言葉になり、この表現は他の箇所には登場しないここだけのものです。多くの反キリストが出現している今がまさに終わりの時間であると意識していることが分かります。終わりの時はイエス様の出現によって証明されましたが、終わりの時間の到来は反キリストの出現によって証明されています。そしてやがて終わりが訪れるのです。ヨハネが手紙を送った時代も、現代においても、反キリストの存在があります。イエス様ご自身も、終わりの日に偽キリストが現れると語られました。偽りや反発によって、真のキリストから人々を遠ざける存在がクリスチャンや教会を脅かすこの時代こそ終わりの時であり、キリストが再臨されるまで続くのです。そんな彼らと、私たちをヨハネははっきりと区別しています。そして彼らは私たちの仲間ではなかったと断言します。その証しとして、彼らが私たちと同じように、御言葉にとどまり、神様の命令に忠実に守っていないからだと記されています。反キリストや惑わす偽りの者たちは、表面的にはクリスチャンと一緒にいるようであり、クリスチャンと同じような真似は出来るかもしれません。しかし本質的に彼らはとどまるべきところにとどまらなければ、仲間として見ることは出来ないのです。目に見える教会や集まりに身を置いても、キリストのからだという目に見えない教会に本当の意味でとどまるということが必要なのです。表面で装ったり、隠したりするのではなく、光であり、真理であり、いのちであるお方との交わりに入り、そこにつながることによって、その者は真実であると言うのです。そして神様はご自分に属する者をすでにご存じであり、神様の目から見る時に彼らと私たちに区別があることがはっきりしているのです。

そのような中で、信じる者たちが確信を持つ根拠として、聖なる方からの注ぎの油、つまり聖霊が上げられています。油を注ぐと言うことは、他でもないキリストによって授けられ、私たちのうちに注がれた聖霊によって福音の真実さを確証することが出来ます。ヨハネの福音書では、イエス様が天に上げられた後、弟子たちと共にいるために慰め主なる聖霊を遣わすと約束しました。そしてその聖霊によって真理を教えられるとも語られました。信じる者たちは、惑わす者やヨハネ自身から教えられることなく、すでに聖霊によって真理を教えられているのです。旧約の時代は祭司や王、預言者たちに油が注がれましたが、新約の時代には、聖霊は特定の人物でなくすべての信じる者に与えられるものとして示されています。ヨハネがここで目的としているのは、ただイエス様がキリストである知識を与えるためではなく、私たちがすでに知っているイエス様がキリストであるという真理を確信させるためだったのです。

真理に基づいた信仰者に対してヨハネが度々警告しているのは、イエス様がキリストであることを否定する偽り者です。彼らの表面的な主張は、神様と交わりを持っている、罪を犯していない、神様のうちに生きている、光の中にいる、といったものでした。イエス様は人となって来られた神の御子です。神であられ人であられるこの御子なる方を信じないということは、御父なる神様をも否定しているのです。父と子の深い結びつきはこれまでの箇所で何度も強調されてきました。イエス様がこの世に来られたのは父なる神さまを証し、その栄光を示すためであり、イエス様を通してでなければ父なる神様を知ることも、真に信じることも出来ません。かつて弟子たちもその真理を知ることが出来ませんでしたが、真理の御霊である聖霊が降り、クリスチャン一人一人のうちに住まわれ、とどまっていることによって明らかにされました。父子聖霊による信仰こそ真の信仰であり、反キリストとクリスチャンの分かれ目なのです。御子を告白することによって、私たちは御父に近づき、神との交わりに加えられるのです。

偽り者と信じる者との区別が語られた後、ヨハネは私たちに24節でこのように勧めます。

1John 2:24  あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。

1John 2:25  これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。

24節は「あなたがた」という言葉が強調されています。そうすることによって、反キリストと真実の信徒をはっきりと分け、対比し、真実の信仰を求めるあなたがたに教えています。偽りの教えや反キリストの影響を受けている中で信じる者たちがとどまるために必要なのは、「初めから聞いていること」つまり福音の基本的なメッセージを自らのうちにとどまらせるということです。終わりの時である今、新しく都合の良いことばや自分の好みに合うことばを心の拠り所とするのではなく、イエス様を信じて新しく生まれた鍵となった福音に立ち返り、そこにつながり続け、とどまるところに私たちのいのちの道があるのです。当時この手紙を受け取った人々や教会は、まさにヨハネ自身から福音を聞いていました。しかし彼らの中にはイエス様が御子であることを否定する者が混ざっており、彼らの主張に惑わされる者もいました。そのため、ヨハネは初めから教えられ、聞いていた福音から離れることなく、自分たちを新しく生まれ変わらせたキリストの真理を守り抜くようにと励ましたのです。

この真理のことばにとどまる時、御子と御父との聖なる交わりにもとどまることが出来ます。父と子の豊かな交わりは、御言葉によって罪からきよめられ、神様へ近づく道が開かれることによって入ることが出来ます。そしてそれだけでなく、私たちは永遠のいのちの約束にも与ることができるのです。永遠のいのちを約束されたのはキリストご自身であり、御子のうちに信じる者がとどまったその時からいのちは始まります。御子の否定は、ただ交わりから外れるだけでなく、永遠のいのちをも失うことを意味します。新しくことばを聞く時、学びを深める時、私たちは初めから聞いた福音と御子なるイエス様の真理にとどまることを忘れず、確かな土台として築かなければならないのです。

惑わす偽りの者たちに対する真実の信仰者としての土台が語られた後で、ヨハネはクリスチャンの信仰の確信についてさらに掘り下げて教えます。

1John 2:26  私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。

1John 2:27  しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。

惑わす者という言葉は原文のギリシャ語では現在分詞という形になっていて、継続的な存在を表しています。偽りの教師は、この終わりの時に絶えず教会や信徒を惑わし続けます。私たちが偽りの教えや存在によって信仰が脅かされることがないようにヨハネは霊感によって手紙を書き記しました。

惑わす者たちに対して私たちが信仰を守る方法は、これまで強調されてきたようにとどまることです。27節では、私たちのうちに注ぎの油である聖霊がとどまることが私たちの確信となると語られています。聖霊によって神の子である私たちは、初めから聞いたことを思い起こし、すべての真理に導き入れられるのです。この注ぎの油は、この地に残された私たちのために、いつの時代でも私たちが惑わされず助けるために御子のイエス様が与えてくださいました。イエス・キリストが真理であり、聖霊が真理であり、そして聖霊が真理に導いてくださる真理の御霊であるからこそ、私たちはこれ以上に教えを受ける必要がないと言われます。私たちは初めに語られた福音に根差しつつ、御霊によって心の中で確証されていきます。そこにとどまる限り私たちは信仰を脅かされることなく、豊かにされていくのです。

私たちの中で福音と聖霊がとどまるとき、私たちは父と子のうちに、またキリストのうちにもとどまるようにされます。

1John 2:28  さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。

1John 2:29  あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。

御言葉を聞き、守る者、油注ぎを受けている者は、キリストとの間に生きた結びつきを持ち、関係を持って信仰生活を進めます。キリストにとどまることは、間違った信仰や惑わす者に対しての対抗策ですが、この箇所で強調されているのはイエス様が再び来られる再臨の時についてです。ヨハネはここで現れるという単語を用いています。この言葉はギリシャ語の動詞「明らかにする」という言葉の受動態であり、明らかにされるという意味を持ちます。そこから、目に見えない者が目に見えるようになるという考えが現れているのです。今イエス様は私たちの目に見える形ではおられませんが、いつか天から現れる時を思い起こして、私たちはキリストにとどまるのです。それによっていつか訪れるイエス様の来臨のとき、私たちは恥じる者でなく、イエス様の前で確信を持って大胆に恐れることなく立つことが出来ます。

最後にヨハネは、神様とイエス様にとどまることを、神から生まれることに結び付けています。とどまるのは、いのちの結びつきがあるからですが、生まれるという表現にはいのちの結びつきがあり、神の子どもとしての存在へと私たちの心を向けさせます。真理と義は神様によるものであり、神から生まれた者、神様につながる者は、ただそれを知っているだけで終わるのではなく、実際に行う者とされていくのです。

私たちは信仰生活を送る中で、様々な影響を受けたり、惑わされたりすることがあります。そのような時、私たちを救いへと導いたあの時の初めに聞いたことば、神様から語られた福音へと立ち返っていきたいのです。目まぐるしく情報が更新され、新しいものがどんどん入ってくるこの時代に、イエス様はキリストであり、御子であるということを私たちに教えた福音にとどまりたいと思います。そして、神様から注がれた油である聖霊にもとどまりたいと思います。私たちのうちには、真理を知らせる御霊なる神、聖霊がともに居られます。このお方を通して、私たちは真の神様を知り、語られる御言葉を悟り、キリストにとどまることができるようになります。神様との結びつきの中で、キリストとつながり、助け主なる聖霊を通して真理にとどまる、そのようにして一人ひとりの神の子としての歩みが守られますよう願います。

About the author: 東御キリスト教会

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