10/25 Ⅲヨハネ1:9-15「神から出た者として善に生きる」

序

これまでのヨハネの手紙を通して、私たちは救いに導かれた福音にとどまり、離れないようにすることを教えられました。また、第三の手紙の中では真理が重要な要素としてあげられました。私たち自身が真理のうちに歩み続けること、そして真理のために賜物をもって送り出された者たちを受け入れ、支え、送り出すことによって、私たちもまた真理の同労者として共に働きを担うことができることが語られました。このように、私たちがとどまるべきところは、イエス様を通して示された真理です。しかし、現実を見てみますとこのような光の側に立つことの難しさを思わされます。手紙が書かれた当時も、人を惑わす偽りの者や、キリストの教えを携えない者たちが、クリスチャンや教会を惑わせておりました。ヨハネは彼らから信徒たちを守り、正しいところにとどまるように手紙を通して彼らを教えてきました。私たちクリスチャンは、この世での信仰生活を送る上で体験する善と悪の困難について、今日の箇所から教えられるのです。語られた聖書の御言葉を通して、私たちのこれからの歩み、そして信仰生活について教わりましょう。

本論

今日お読みした手紙は、ガイオとして愛する信徒に宛てて送られました。前回の箇所では、ヨハネの教会から遣わされた働き手たちを受け入れ、神にふさわしい仕方で送り出したことについて賞賛されていました。そこから転じて、今回はヨハネからの警告と勧めが中心となります。そして、当時のガイオの教会に存在したディオテレペス、デメテリオという人物を比較しながら導いています。

まずヨハネが語った警告は、ディオテレペスという人物についてでした。

3John 9  私は教会に少しばかり書き送りましたが、彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません。

3John 10  ですから、私が行ったなら、彼のしている行為を指摘するつもりです。彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています。

彼について詳しいことはわかりませんが、ヨハネたちに対して悪意を持っていたこと、そして教会の中で高い立場を求めていたことが分かります。ヨハネが御名のために送り出し教会に推薦した人たちを拒み、さらには彼らを受け入れようとしている兄弟たちを追い出してしまうほどでした。彼は「かしらになりたがっている」とありますが、この言葉は名詞の形では指導的な人物を指す言葉として用いられており、直訳すると「第一の座に就くことを好む」となります。ディオテレペスが指導者となってその権威を行使することを求めていることを示唆しています。実際に教会から人を追い出しているため、すでに何かしらの立場と影響力を持っているようです。しかし、長老であるヨハネや御名によって働きに出た者たちを受け入れようとせずにいたことが問題として取り上げられています。

ヨハネの手紙では遣わされた者を受け入れることについて何度か教えてきました。第二の手紙では、キリストの教えを携えない者を家に受け入れないよう呼びかけました。第三の手紙では、御名のために働くためにヨハネから遣わされた人たちを受け入れたことについて「忠実に働きを行なっている」「立派な行い」と喜び、またこのような人々を受け入れるべきだと教えました。旅人を受け入れるということは、その者の教えに同意し、その活動や働きを支援し、彼らの立場を保証することを意味します。当時のクリスチャンの愛の働きとして、旅人を受け入れてもてなすことが特徴づけられていましたが、どのような人物を受け入れるか、あるいは受け入れないかが重要な意味を持っていました。今回、ヨハネから遣わされた者、御名のために働きに出ている者たちを受け入れないということは、キリストの御名の働きを拒み、その教えを受け入れないという大きな意味を持つのです。イエス様は、ご自身のお働きの中でこのように言われました。

John 13:20  まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

遣わされた者を受け入れるということは、遣わした方を受け入れるということです。反対に、今回のようにヨハネから遣わされた兄弟を受け入れないということはヨハネ自身、そして彼を働きに遣わしたイエス様ご自身も受け入れないことになります。ヨハネが「私たち」と語る言葉の中には、イエス様ご自身が含まれており、ガイオの属する共同体の信仰が揺るがされる問題が起こっていたのです。

このような状態の中にいる共同体にヨハネ自身が向かおうとします。「ののしる」という言葉は、ギリシャ語では「でたらめを言う」という意味を持つ言葉が用いられており、彼が行いにおいても発言の内容においても真理に立っていないことが示されています。ディオテレペスは、偽りのうわさによってヨハネから信徒たちを離れさせ、兄弟を受け入れるという愛の働きを拒む手段を取っていました。それはヨハネをののしるだけでなく、ヨハネに従って遣わされた者を受け入れようとする者たちを排除するまでに至ります。信徒を教会から追い出すことができるほどの立場の者が、その権力を利用してヨハネから人々を離れさせ、ヨハネに従う者たちを取り除き、自らがかしらになるように悪を行なっていました。ガイオもそのような危機に見舞われていたかもしれません。教会は危険な状態にあったために、ヨハネは手紙を先に送りつつ、ガイオたちのいるところへ行こうとするのです。

ヨハネは危機的な状態にある教会と兄弟たちに、悪でなく善に立つことを命じます。

3John 11  愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことがない者です。

3John 12  デメテリオについては、すべての人たちが、また真理そのものが証ししています。私たちも証しします。私たちの証しが真実であることは、あなたも知っています。

11節で悪と善という明確な比較がなされています。そして、善は神から出た者と結び付けられ、悪は神を見たことがない者と結び付けられています。神から出るというのは、神から生まれるとも訳されることばであり、そのいのちの源が神様によるものを指しています。この文脈において善を行うということは、御名によって遣わされた人々を受け入れることに関連しています。キリストの名において働くために出て来たものたちを受け入れることは、キリストご自身を受け入れることであり、神の子として見習い、行い続けるべきこととして私たちに示されています。

その対比として悪については神を見ない者とされています。ヨハネの福音書の中でイエス様が何度か語ったことは「わたしを見た人は、神を見た」ということです。私たちは実際に神様を目視することは出来なくとも、ひとり子であるイエス様が神様を現す唯一なるお方であり、このお方と御言葉を通して出なければ神を見たということは出来ません。キリストの名において遣わされた者たちを受け入れないことは、その名を持つイエス様、そしてひとり子を遣わされた神様への霊的な目が開かれておらず、どれほど教会の中で権威や影響力を持っていたとしても神様に属する者ではないのです。

ヨハネは具体的な人物としてデメテリオを証しします。彼については、ヨハネたちにおいて、また真理においてその正しさが保証されているとされています。この手紙においての真理はイエス様ご自身であり、また福音に結びついて語られています。彼は真理への献身者であり、信仰を通して真理を自分のものとして、その行いにおいて真理を証しする者として立っていたとヨハネは証言します。ヨハネの証人としての真実性はガイオ自身が知っていることであり、そしてヨハネたちによって証しされた彼がキリストに属する者として、善を行う者の見本として示されています。

手紙の最後はガイオたちへの挨拶と、これから直接顔と顔を合わせて会えることへの期待が溢れます。最後の平安があなたがたにありますようにという言葉は、ヘブル流のあいさつであります。イエス様は復活後、この平安についてさらに新しい意味を加え、すべての人との平和、そして霊的には永遠のいのちの先取りとして用いられました。ヨハネを拒み、悪が生じているガイオの教会に対して、適切なあいさつと言えます。ヨハネは、まるで羊飼いが羊の名前を呼ぶように、信徒一人ひとりを思い、語りかけます。長老として愛を持ち、愛する者たちへの励ましと、彼らへの愛が手紙の最後に示されています。ここにも兄弟姉妹が互いに愛し合う交わりが見られます。教会を案じ、教会のために平安を願うヨハネは、対面における交わりを喜びとしました。

私たちは信仰の生活を送る中で、クリスチャンとして善をなすことに難しさを覚えることがあります。ガイオはヨハネやキリストに忠実な働きをなしていましたが、彼の周りにはディオテレペスという悪が存在していました。ガイオ自身も彼から何かしらの意地悪をされたかも知れません。ヨハネはディオテレペスに対して直接的に指摘することを考えていましたが、彼の関心はディオテレペスだけでなく、このような危機的な状況にさらされている信徒たちでした。信徒たちが信仰の共同体から追い出される危機、信徒たちが悪を見習い、その行いをまねする危機などです。ヨハネは彼らの身を案じますが、同時に、悪でなく善を見習い、善に生き続けることを求めています。私たちはこの地上において、何を見習うでしょうか。私たちが何を行い、何を見習うかは、私たちが信仰においてどのような者であるかを、つまりは、神から出た者か神を見ない者かを現します。かしらになりたがって謙遜を失い、神の御名を受け入れなかったディオテレペスは、その行いによって神でなく自分しか見ていないことが分かりました。それに対してデメテリオは、自らでなく周りの者たちやヨハネ、そして真理そのものによって称賛されていました。神から出た者として、私たちはデメテリオのように、真理に生きる者としてすべての人から証しされる者を見習いたいのです。

結

神から出た者、神に属する者、神の子ども、そのように信仰を歩み続けることは簡単ではありません。ディオテレペスのように、神を見ずにキリストの御名から離れさせようとする誘惑に襲われることがあれば、悪によって私たちのクリスチャンとしての善が脅かされることもあります。しかし、善に生きる道を歩むところに、真理を歩み続けるところに、私たちの信仰への証しが伴います。私たちの歩みを導くのは、かしらとなって謙遜さを失った自分自身なのか、それとも私たちのいのちの源であり、私たちを真理へと進めてくださる神様なのか。私たちは問われます。神様からのいのちを持ち続けながら、神様を共に見上げていきましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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