序
本日から創世記を共に読み進めたいと思います。その中で今日の箇所は、私たちの父であり主であられる創造主なる神様の御姿を特に見ることができる箇所です。そして同時に、私たちの上に光が与えられたことをはっきりと示す箇所でもあります。創造の主としての姿、聖であり光の源であられる神様は、新約聖書で描かれているイエス様ともつながる重要な概念です。旧新約で合計66巻ある聖書の中で、最初に触れるこの創世記を通して、聖書が語る神様の姿、私たちとの関係、そしてその中に見られる愛を共に見ていきたいと思います。
本論
聖書にはたくさんの書があります。全部で66巻、通読するのは決して簡単ではないボリュームです。この聖書を開いて一番初めに私たちが触れる箇所がこの創世記であります。そしてその中で最初に語られていることは、天地創造です。
Gen. 1:1 はじめに神が天と地を創造された。
Gen. 1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
初めて聖書を読む人がいてページを開いて目に入る情報が、この世界、天地が神によって造られたというシンプルで壮大な宣言です。ここでの「初めに」という言葉は、神様の特別な創造の行為と結び付けられ、強調されています。ここで語られている初めというのは、単なる時間的な初めではなく、あらゆる事象や被造物の出発点であり源であられる神様と、その神様の御業について語っています。この1節では、天と地が被造物であり、この世である時に造られた有限な物として示されています。それに対して神様は、被造物に対して創造主として君臨しておられるとともに、有限な物資と異なって始まりがなく永遠性を持つお方であることが強調されています。
そして「創造する」という言葉は、聖書の中で神様が主語の時だけに用いられる言葉であり、何かを存在させるという意味を持ちます。神様はかつて燃える柴の中からモーセを呼んだ際に、ご自身のことを「わたしはある」と表現されました。この世のすべてのものは、何か若しくは何者かから生まれ出たものです。その存在は何か他のものによって確立されます。例えば空気に含まれる酸素は、自分の力でいきなり生まれ出たりしません。植物を通して二酸化炭素から酸素へと変化し、そして動物の呼吸などによって二酸化炭素へと変化します。この世のすべてのものは、それ自身のみで存在することは出来ません。しかし創造主であられる神様は、唯一ご自身のみによって存在することができるのです。他の何かに頼ったり、何かから生まれたり、他の存在に依存することなくこの世に存在することができる。「わたしはある」という言葉にはそのような意味があります。
その神様が創造された範囲ははかり知ることが出来ません。天と地という表現は、空や大地に限らずこの世のすべてをまとめた表現として用いられています。この世のすべてのものが神様によって存在させられたと語られるのです。夜空に浮かぶ数多の星々も、私たちの目には見えない宇宙の広がりも、聖書では天というひとつの単位でまとめられて被造物として描かれています。この地も同じく、世におけるすべての領域が、神様によって造られ、存在することができたのです。
1節は神様による創造の御業の導入部分であり、まず創造の内容を要約して語り、2節以降で改めて具体的に説明がされています。この地は当初、茫漠として何もないと表現されています。茫漠と何もないは似たような意味を持つ言葉です。他の箇所では荒野とも訳されている言葉ですが、ここでは創造される以前の状態、世にいのちがない状態を指しています。ない状態は闇とも表現されています。光と対になる言葉であり、この後にくる光を暗示していることが分かります。すべてを覆っている闇に大水が直接に接しており、いのちはなく、秩序もない原初の状態が広がっていたのが最初の状態でした。形もいのちもないままの地、当然人もいない中で、その上には力ある神様、いのちの神様の霊がおられる対比がなされています。霊という言葉は、原文では風と同じ言葉が用いられております。神様の霊が何ものにも支配されない自由な姿であることを表すと共に、その力強さ、恐れ多さも意味されています。何もないこの世において、創造主であられる神様は何者にも縛られることなく、その力強さを持ちつつ、これから造られる被造物を見守り、その思いをもって恵みを注ごうとされる姿がすでにそこにあるのです。
創造の御業を働かせる神様が最初に創造されたのは光でした。
Gen. 1:3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。
Gen. 1:4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
Gen. 1:5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。
3節以降からは「神は仰せられた」と何度も繰り返されていきます。神様の創造の御業は、何かの素材や何かの媒介によるのではなく、直接語られる神の御言葉のみによってであることを簡潔に、しかし確かな事実として示されています。御言葉が語られること自体が、神様の意志の表現であり、同時に、神様の語られた御言葉が必ず実現されることが示されています。それは、天地創造という御業の中だけでなく、聖書で語られる一つ一つの御言葉も、そして神のことばと呼ばれるイエス様においても、神様の御心の中で実現されるのであり、聖書の冒頭の箇所である1章の時点でそのことが教えられているのです。御言葉によって光はこの世にあるようになります。「光あれ」と命じられたとおりに「光があった」とされ、神様が語られた御言葉が確かに実行されたことを意味します。太陽は少し後に創造されるため、ここでの光とは太陽のことを指していないことが分かります。他のあらゆる被造物に先立って神様がこの世に存在させたのは神様による光でした。光は闇の中で輝き、闇とはっきり区別され、昼と夜が生まれました。光と闇が別れたことは、ただ昼夜の概念を与えるだけでなく、闇が独立の存在としてではなく、光との対比の中で存在することを示し、それぞれの領域が定められたことを示しています。神様が一番に創造された光は、この闇との対比の中で良いとされました。
そして昼と夜と名付けたのは神様であることも5節で示されています。名前はそのものの実質を表し、役割を与えます。光も闇も、神様の主権の中で世に存在し、それぞれの領域を定められたのです。
コリント人への手紙第二4:6では、第一日に創造された光と、信仰者たちの心を照らす光が同じ源であることが記されています。
2Cor. 4:6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
神様を知り、キリストを知るための光は、神様から出るものであり、世から出た知識や考えとは異なることが明らかにされています。私たちは光が照らされる時、その光源がどこにあるのかを知ることが出来ます。創造された光は、この世に昼を与え、恵みを与えるだけでなく、あらゆる被造物がその源である神様を見上げることができるように導きます。そして新約聖書においては、世の光としてイエス様がこの世に来られたことによって、父なる神様が証しされ、私たちを神様への信仰へ導くのです。
神様の創造の御手の働きとして、六日に渡る創造の一日目は光の創造の日として定められました。そしてここから神様の創造の御業は順序立てて、神様の主権と秩序の中で形作られることになります。
天地創造という大きな御業は、神様の主権と御言葉によって実現されました。そしてその第一日、最も初めに創造されたのが光でした。聖書では創世記の他にヨハネの福音書でも同じような表現でイエス様の誕生を書き記されています。
John 1:1初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
John 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
John 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。
John 1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
John 1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
創世記では被造物としての光が描かれていましたが、新約聖書のヨハネではイエス様という光が描かれています。旧約聖書、新約聖書、それぞれの時代において神様は私たちに光という恵みを注いでくださいました。私たちはこの光を通して、その源である神様を仰ぎ見て、信仰へと至るのです。圧倒的な主権者として君臨し、何者にも支配されることなく存在されるお方であり、御言葉によってその御心をなるお方が、今私たち一人ひとりの上に、イエス様という光を与えておられます。
結
この世の始めから創造主としておられる神様を共に見上げていきたいと思います。そして同時に、人の光として、私たちにいのちを与えるために来られたイエス様を覚えたいと思います。神様は私たちの上に「光あれ」と命じました。今も神様の光が私たちの上に輝いています。その源である神さまの下へと共に向かいましょう。

