日曜日の礼拝メッセージ
〜こんなことが語られています
日曜日の礼拝メッセージ
〜こんなことが語られています
■佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社)から
●映画『ザ・ウォーカー』
『ザ・ウォーカー』という映画があります。核兵器で滅亡の危機に瀕した世界を舞台にした「近未来アクション映画」と言える内容ですが、一風変わっています。主人公と敵方が、ただ1冊だけ人類に残された(と思われる)書物を巡って命がけの争奪戦を展開する。しかも、その書物とは聖書なのです。敵方のボスは、聖書を探させている部下にこう語ります。
「他の本とは違う。あれは武器だ。絶望した者の心をあれで狙い撃ちにすれば自由に操れる。支配の手を広げるためにはあれが必要だ。人びとは私の言いなりになる。あの本の言葉を説くだけで。昔の指導者はそうした。今度は私がやる。それにはあの本がいる」」
聖書一冊で人心を掌握できるのか?聖書を説く身の牧師としては甚だ疑問ですが、人類における聖書およびキリスト教の影響力は歴史の中で否定し得ないものがあります。聖書は、確かにただならない書物です。
●ルターの「大改革」は聖書から
佐々木中という宗教学者が書いた『切りとれ、あの祈る手を-<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』(河出書房新社)という本を読み、確かに「聖書は武器」と言えるほどのものであることを思いました。
この本では、本を読むことと革命ということについて記されています。第二章では、ルターの宗教改革について語られています。ある人は「ドイツ革命」または「大革命」、つまり「改革」ではなくて「革命」と呼ぶそうです。
その、マルティン・ルターが起こした大革命とは何か?と問いかけて、こう記されています。
「一言で言いましょう。大改革とは聖書を読む運動である、と。ルターは何をしたか。聖書を読んだ。彼は聖書を読み、聖書を翻訳し、そして数限りない本を書いた。かくして革命は起きた。本を読むこと、それが革命だったのです。」(52)
高校の世界史の教科書にも記されている、当時の教会が売っていたいわゆる「免罪符」について、「罪の赦しを金で売り買いすることがおかしい」と指摘した、というのはルターの主張の一部に過ぎません。
長くなりますが、この本から引用してご紹介します。
「ルターは何をしたか。聖書を読んだ。彼の苦難はここにあります。ここにこそ。どういうことか。
彼は気づいてしまったのです。この世界には、この世界の秩序には何の根拠もない、ということに。聖書には教皇が偉いなんて書いていない。枢機卿を、大司教座を、司教座を設けろとも書いていない。皇帝が偉いとも書いていない。教会法を守れとも書いていない。『十戒を守れ』と書いてあるだけです。修道院をつくれとも書いていない。公会議を開けともその決定に従えとも書いてない。聖職者は結婚してはいけないとも書いていない。贖宥状どころの話ではない。何度読んでも書いていないわけです。むしろ逆のことが書いてある。
ルターはおかしいくらいにー『おかしくなるくらいに』—徹底的に聖書を読み込みます。(略)聖書の一部分を大きな余白を取った紙にわざわざ写本してもらって、何度も何度も書き込みをして繰り返し読むということまでしています。ラテン語もギリシャ語もヘブライ語も勉強して、何度も何度も読む。(略)繰り返し、繰り返し、何度読んでもー書いていない。この世界の秩序には何の根拠もない。しかもその秩序は腐りきっている。他の人は全員、この秩序に従っているのですよ。この世界はキリスト教の教えに従ったものであり、ゆえに世界の秩序は正しく、そこには根拠があると思っている。みんな。ルター以外。教皇がいて枢機卿がいて大司教がいて司教がいて修道院があって、みんな従わねばならない、と。でも、何度読んでも聖書にそんなことは書いていない。」(58)
聖書を読み、自分が生きている社会が、実は聖書に従っていないことに気づいた。そのルターの衝撃を想像できるでしょうか?そうして、1517年10月31日、ルターは有名な「九十五箇条の提題」という、教会に対する疑問を投げかけます。ラテン語で記されたこの文書は、当時の最先端である印刷技術によって翻訳、印刷されて多くの人に知られるようになります。当時の社会は識字率5%。つまり、95%の人々は字が読めなかったにもかかわらず、広がりました。
その後、ルターは教会で論争をしましたし、当時の聖書と言えば、ラテン語訳聖書でしたが、ドイツ語聖書を翻訳して出版しました。このルターの翻訳聖書が近代のドイツ語を作ったと言われます。ルターの聖書とルターの他の著作で、当時の40年間にドイツ語で出版された本の3分の1を占めていたそうですから、ルターがドイツ語を作ったというのは、決して大げさな表現ではないのだろうと思います。ちなみに、英語も、やはりルターにやや遅れて、ウィリアム・ティンダルという人が英訳聖書を出版したことによって確立したと言われています。つまり、聖書の影響は英語全般にも及んでいるということです。
「ルターの影響はヨーロッパには今も大きいかもしれないが、日本の社会には関係ない」と言う方がおられるかもしれません。でも、この本の中では、日本国憲法への影響が語られていました。憲法第76条第3項に「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職務を行ひ…云々」とある。この裁判官が「良心に従」って、という部分はルターに由来するそうです。
少し時代を降って、作曲家のバッハもルターから大きな影響を受けています。バッハはルターの著作集を二種類も持っていたそうです。コレクターだったのか、あるいは読み込みすぎて古くなってしまったので、新しいものをもう一度買ったのか、わかりませんが、ともかく「ルターなしには音楽家バッハはあり得ない」とも言われます。
ひとりの人が真剣に聖書を読んだ。それが世界を変えた。ことばを変えた。バッハは「音楽の父」と呼ばれる人物ですから、ルターが聖書を読んだことは音楽にも影響を与えている。日本の憲法、そして裁判にも今なお影響を及ぼしている。
聖書というものは、それを取って、本気で読む者にとって、かくも別格なものだ。冒頭の映画で「あれは武器だ」というセリフがあったのも否定できないものです。世界の歴史に、今の社会に、大きな足跡を残しています。
そして、聖書を読むということは、ルターほどではないにしても、私たち個人にとっても、大変重要なこと、大きな意味を持つことです。
●聖書のことばは、人生のともしび
冒頭の聖書のみことば、詩篇119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」は、大変有名なことばです。
この詩の作者はわかりませんが、この人自身が、聖書を読みながら生きる人だった。そして、人生という細い道を辿る旅の同伴者であり、人生の暗闇を、悩みや悲しみの中でも照らしてくれる光だと言うのです。
私たちは、人生の道行きを先々まで見ることはできません。来年にはこうして、3年後にはこうなっていて、10年後には、こういうふうに。計画を立てることはできます。計画を立てて、備えることは大切なことです。でも、私たちは先々に何が待っているのか、どんな経験をするのか、わかりません。今はどんなに健康であっても、明日の命でさえ確実ではない。それが私たちの人生です。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
聖書のみことばは、ランプの灯火のように、足元を照らしてくれます。何か不思議な預言や幻のように、明日はこういうことを経験するとか、あと何日で死ぬとか、そういうことを示してくれるわけではありません。でも、私たちがいる場所で、生きている状況の中で、つまずくことがないように、倒れててしまうことがないように導き、教えてくれる。それが聖書です。
●ナパーム弾の被害少女の赦し
恐らく、この写真(クリック)をどこかで見たことがある方、あるいはリアルタイムで見て衝撃を受けた方も、少なくないと思います。1972年にベトナム戦争の最中、旧サイゴン(現在のホーチミン)で、南ベトナム軍の戦闘機がナパーム弾を落とした直後の写真です。
先日の朝日新聞(2012年7月13日)に、この「裸の少女」の今の姿が写真付きで掲載されていました。この少女は1972年当時、9歳でした。ナパーム弾の炎によって全身を包まれ、『熱い、熱い!』と、着ていた服を脱ぎ捨てて、裸で走りました。写真はその瞬間の姿でしょう。この写真を撮影したカメラマンは、撮影後すぐに少女にコートを着せ、病院へ運びました。そして少女は14ヶ月入院し、17回に渡る手術を受けました。この時の少女、キム・フックさんの左腕から背中にかけては、今も火傷の痕が残り、天候次第で背中が痛むと記されていました。火傷のせいで、袖の長い服しか着ることができない。そのために、「短い袖の服を着られる友だちを羨ましく思い、自分は一生結婚もできない」。そう思い、さらには「『なぜ、私なの?』私を傷つけた人たちを呪い、私以上の苦しみを味わえば良い」。そんな恨みを抱いて日々を送ってきました。
一方、ナパーム弾を落としたアメリカのパイロットは世界に公表されたこの写真によって、自責の念に駆られます。少女に謝りたいと願いながら、24年間苦しみます。結婚に失敗し、酒浸りの日々を送るようになりました。やがて、キリスト教信仰を持つようになり、1995年に牧師になっていました。
翌年、ワシントンでのアメリカ退役軍人の記念式典に、この元パイロットが出席しました。何と、そこに、この時の少女キム・フックさんも出席していました。「数え切れない人々が犠牲になりました。しかし私は爆撃した人々を赦します。過去は変えられないが、平和のために前進します」。そう述べました。元パイロットはキム・フックさんの許へ駆けつけます。そして「自分が村を爆撃したパイロットです。赦してください。私にも小さな女の子がいたんだ」と泣きながら謝罪しました。キム・フックさんは「もういいのです。あなたを赦しています」と涙ながらに言って、彼を抱きしめました。
新聞記事の中でも、ある教会での講演で語られたキム・フックさんのことばが記されていました。「私の心からゆっくりと、真っ黒なものが吐き出されていった」「本当に、とても難しいけれど、自分自身が自由になるため、ゆるすことを学んだ。みなさん、ゆるしは選べます」。
実は爆撃の10年後の1982年、彼女はイエス・キリストを信じていました。「信仰を持ってから私はすべての憎しみを捨てました」と彼女は語っています。
このキム・フックさんを変えたのも、聖書を読んだからでした。新約聖書のマタイの福音書5章の有名なことば、「汝の敵を愛せよ」。この言葉が心に響いたことがきっかけでした。
新聞記事には、青いアオザイに身を包んで、写真を撮影したカメラマンと笑顔で並んでいる今のキム・フックさんの姿が写っていました。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
このことばのとおり、聖書のことばがキム・フックさんの心を照らしました。「私を傷つけた人たちを呪い、私以上の苦しみを味わえば良い」。そんな心を「汝の敵を愛せよ」ということばが照らしました。そして、神であるイエス・キリストが、私たちの罪を赦すために十字架で身代わりに死なれたこと。それほどに神様に愛されており、赦されて生きるように、また他の人を赦して生きるように招いている。そのように照らしました。そして、彼女は赦しました。人生が変わりました。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
皆さんの心はいかがでしょうか?「自分の心はなにか他の者に照らして貰う必要などない」。そう考える人もいるかもしれません。でも、キム・フックさんが憎しみにとらわれていたように、恨みや憎しみという闇を引き込んでいる人はいないでしょうか?欲望という闇に捉えられて、「あれが欲しい」「あれを奪いたい」「あの人が妬ましい」そういう思いを抱え込んでいるというケースもあるかもしれません。あるいは、病や失業や、人間関係の行き詰まりなどで絶望という闇にとらわれている人もいるかもしれません。「自分はどうすれば良いのかわからない」という、先行きの不安に怯えているかもしれません。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」
みことばは、そしてイエス・キリストは、私たちのありとあらゆる闇を照らしてくださいます。そして、赦しや、平安や、希望という光で照らしてくださいます。
皆さんの心が聖書のことばによって、そしてイエス・キリストによって照らされますように。照らされて、赦す歩み、希望を持った歩み、神様の愛を喜びながら、神様のご計画に答えていこうという目的を持った歩みとなりますように。
2012年7月15日日曜日
教会の主日礼拝では、聖書のことばを通してメッセージが語られます。
聖書のメッセージは人生の希望や、喜び、教えなどに満ちています。
キリスト教の信仰を持たない方にも、心に残る内容をお伝えしたいと願っています。右記はその一部です。
どうぞ教会にお気軽にお出かけください。