2025年度の歩み
2025年8月10日 ローエン・ジョエル師をお迎えして

ローエン・ジョエル師は、これまで1991年から洋光台のぞみキリスト教会(横浜)、立川駅前キリスト教会(東京)、亘理町キリスト教会(宮城県)での宣教の働きを経て、現在はグレースシティチャーチ東京で奉仕をされています。
宣教メッセージ「安息日のための歌」(詩篇 92篇1節-15節)
詩篇92篇3節「十弦の琴に合わせ 竪琴の妙なる調べにのせて」。音楽は心に響き、私たちの心を神に向ける助けとなる。教会礼拝の目的は、神の偉大さ、主の恵みと真実を伝えること。礼拝することにより、霊的な刷新が与えられ、主を喜び、主の元で安らぐことができる。月、星、太陽、すべてを神はコントロールし相応しいところに置いてくださり、主の働きの大きさと思いの深さを知ることができる。礼拝はいのちを与えていただき、主を喜び歌うこと。得ることではなく受けること。することではなく与えられること。そして人生の秩序と平安は神からのみ与えられる。
*不思議なことに、美しい旋律に心が揺さぶられ涙することがあります。賛美をささげる時、閉じていた心が開かれ、みことばが沁みてくることもあります。私たちの頑なさは主が一番ご存じです。
2025年7月6日 木村恵一師をお迎えして
木村師は、北海道北広島市にある北広島チャペルキリスト教会の牧師としての働きを担われる一方、北海道を中心としたキリスト教関連の機関、学校などで仕えながら幅広く責務を担っておられます。
宣教メッセージ「満ち足りるということ」(ピリピ4章11節-13節)
「幸せとは何か」。欲しいものを手に入れること、願いが叶うことだろうか。ソロモンは伝道者の書で「空の空。すべては虚しい」と言う。神を知らない人はどうすれば満ち足りるのかが分からず、苦しみ、痛みを避けるために楽しいこと(欲望)に埋没してしまう。しかし私たちは明確な意図、意義、目的をもって創造された者である。パウロはどんな境遇であっても満ち足りることを学んだ。痛みや辛さは成長の機会。困難を抱えていようと今が恵み、今が幸いな時。
*苦しみや痛み辛さの回復には時間がかかるかもしれません。しかし私たちの思いはどんな時でも神に向かい祈ります。そこに怒りがあったとしてもその中にやがて神からの応えを見出します。神の前に立ち自分を手放すことで応えをいただくことがしばしばあります。

2025年6月22日 大田尾達三師をお迎えして
大田尾師は、聖書宣教会の神学校を卒業後に、保守バプテスト同盟の宣教師と共に酒々井町、埼玉県戸田市の開拓、福島県三春の「丘の上チャペル」で牧会伝道をされ2017年から8年間、埼玉県狭山市「のぞみ教会」の協力牧師として携わっていました。
宣教メッセージは「福音にあって生きる」(ローマ1章14節-17節)
’私は負い目のある者です’。ふつう負い目とは「負債」や「責任」を負う者を意味するが、パウロは迫害者から伝道者へと変えられ、教会を迫害してきた罪意識という負い目を抱えていた。パウロはイエスとの出会いによって律法や善行の順守は絶望だったと知り改心に導かれ福音を伝える者とされた。福音とはGood News(良き知らせ)、つまりイエスによって成就したことの知らせである。イエスがこの世に来られたことが福音であり、私たちは滅びから永遠のいのちに移された。
*「かつての私たちは罪の中に死んでいて神とつながっていなかった」。例えとして大田尾先生は電源のON、OFFについて言われ、電線はあったのに電源はOFFのまま。電源をONにして初めて、私たちは神の恵みの中に生かされる者とされました。
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2025年5月18日 原田靖彦師をお迎えして

原田靖彦師は、宣教師の福音宣教活動の一翼を担うために、現在も日本語教師として従事(50年間)している一方、日本の諸教会で福音を伝える働きを担っておられます。
宣教メッセージは「キリストが私のうちに生きておられる」-お墓参りのすすめ-(ガラテヤ2章15節-21節)
人生は辛く、迷いや不安とつねに隣り合わせで死にたいと思うことさえもある。「そんな時はここに来なさい。ここは君のお墓です。新しいいのちをもらった所です。すべての出発点でありいつでもここから始めることができます」。罪そのものに対して神の怒りがすべて出し尽くされた十字架、私たちに代わって主イエスが負われた十字架。今、私たちクリスチャンは十字架を見上げるとき、自分の墓参りができる。十字架によって昨日までの私は死に今日私は生まれ変わることができ、いつでも神の御前に近づくことができる。
*「墓参り」。十字架によって罪から解き放たれて、たしかにかつての自分を葬りました。そして今までの自分とは違う新しい人生を歩みだしています。 祈りによって日々十字架に触れ、日々新しくされています。