2025年度の歩み


2025年12月21日 クリスマス礼拝と祝会

 原田牧師によるクリスマスのメッセージは「クリスマスの喜び」(ルカ2章8節-20節)

 夜番をしていた羊飼いたちに、突然、主の御使いが現れ「今日あなたがたのために救い主がお生まれになりました」と告げました。そしてさらに、「今日ダビデの町で飼い葉おけに寝ているみどりごを見つけます」と、この世の片隅にいる羊飼いたちに直接約束してくれたのでした。喜びはすべての人に与えられたのです。羊飼いたちは幼子イエスを探し当て、すべてが御使いの話のとおりだったことに驚き、神様をほめたたえ賛美しながら帰っていきました。主の栄光に押し出されていったクリスマスの喜びの時でした。

 礼拝の後の祝会では、「はじめてのクリスマス」(DVD)を鑑賞し、卓上にキャンドルの火を灯して賛美と聖書の朗読の静かな時間を持ちました。


2025年12月14日 大田尾達三師をお迎えして

 宣教メッセージ「ザカリヤとエリサベツに学ぶ」(ルカ1章5節-25節)

 ザカリヤとエリサベツは不妊という苦しみの中でも、恨まず、神のことばを信じて祈り続けた夫婦だった。天使ガブリエルから「子が与えられる」と告げられた時、ザカリヤは信じきれず口がきけなくなるが、彼らの信仰は「待ち望む信仰」として実を結ぶ。
 1. 待ち望む信仰 … 不妊という恥と痛みの中でも、二人は神の約束を信じて祈り続けた。神の時が来れば必ず実現するという信頼があった。
 2. 従う信仰 … 慣習よりも神のことばを優先し、天使が告げた通り子に「ヨハネ」と名付けた。自分の考えではなく、神の導きに従う姿勢が示された。
 3. 知る信仰(自分を知る)… ザカリヤは「何によって知ることができるのか」と問う中で、信仰を試され、自分の弱さを知ることになった。「知る」には言語・理性・五感・観察・体験などがあるが、最も深い「知る」は信仰によって開かれる。
 ペテロが「おことばですので」(ルカ5章5節)と従ったように、誇りを捨てて神に従う時、自分の罪深さ、真の自分が見えてくる。
 私たちも、自分の規範や思い込みに縛られず、一歩離れて全体を見ることで、神の導きと愛に気づくことができる。イエスは「私から学びなさい」と招いておられ、誰をモデルにして歩むか、誰から学ぶかが大切である。

*「知る」とは客観的に離れて全体を見ること、そして信仰によるもの、という言葉が印象に残りました。。常に外側から自分という人間を眺めて、自分がなぜ、どのようにここにいるのかを意識していきたいと思います。


2025年10月19日 角田淳師をお迎えして

 宣教メッセージ 「ご自分を空しくしたしもべ」( ピリピ1:29~2:11)

 ピリピの教会は最初期の教会であり、パウロは彼らの信仰を喜びとともに称えている。しかし、教会には高ぶりや利己心から争いが生じる危険がある。ピリピ書は、そのような罪から離れ、キリストのへりくだりに倣うよう促している。神の本質の現れについてはへブル1章1節~3節で語られている。
 ある医師が、宣教師である肺がん患者とその妻の深い信仰に触れ、砕かれた心と神への信頼の強さに驚いたという証しが紹介された。教会には様々な人が集まり、その人々を通して自分の高慢が砕かれ、学ばされる。
 ピリピ1:29が示すように、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みであり、最高の賜物である。弱い人の立場に立つことは難しいが、キリストのへりくだりに倣うことで、真の一致と愛が生まれる。

*教会の群れにはいろいろな人が集っています。考え方は異なっていても福音にふさわしい思いと生活を心がけ、受けた恵みをともに味わっていきたいと思います。


2025年10月19日 原田 靖彦師をお迎えして

 宣教メッセージ「三人の放蕩息子」(ルカ15章11節-32節)

 創世記3章で神は「あなたはどこにいますか」と、人を探し求める愛の声をかけられる。放蕩息子の父もまた、弟に財産を分けて自立を促したが、弟は自由と愛を求めながら、実は父の愛に気づいていなかった。
 ヘンリー・ナウエンは、人は神の無条件の愛を見失うと誰でも放蕩息子になると言う。神の愛から離れそうになる時、父なる神は「お前には帰る家がある」と呼びかけ続ける。「あなたはどこにいますか」は怒りではなく、迷い出た子を探す愛の声である。
 弟はその声をかすかに聞き取り、「帰る場所がある」と気づき、我に返ることができた。父が彼を許したのは、弟の言葉ゆえではなく、無条件のむき出しの愛による。
 一方、兄は勤勉でありながら、自分の功績や賞賛を求める心から父の愛を見失い、怒りを弟と父に向けてしまった。批判し、責め、見下す心は、兄自身もまた「どこにいますか」と問われるべき状態だった。父は兄に「あなたは何も失っていない。いつも私と共にいる」と語る。
 弟子たち、群衆、パリサイ人、そして私たちも同じである。イエスは神のすべてを持ちながら、罪の世界に降り、平和・喜び・誠実・柔和を罪人のために使い果たされた。
 この物語は、神が迷い出る私たちを決して見捨てず、「どこにいますか」と呼び続ける愛を示している。

*日々の中で、自分に固執し他人との比較の中で自信を無くしたり進むべき道を見失いそうになることがあります。「どこにいますか」という声に耳を澄ませていきたいと思います。


2025年10月5日 第10回ミュージックフェスタ

 ’みんなでつくる音楽会’と題して2014年から開催しているミュージックフェスタは、今年で10回目を迎えることができました。
 成東ヴォーカルアンサンブル(女声コーラス)の出演に加えて、東金市を拠点に活動しているくりコーダーアンサンブル(リコーダー)、テナーサックスとピアノのデュオなど、みなさんの日頃の練習の成果をたっぷりと楽しませていただきました。
 演奏終了後には、原田牧師の淹れる美味しいコーヒーを味わいつつ出演者、聴衆のみなさんで和やかな歓談の時を持ちました♪


2025年9月14日 武藤 潤子師をお迎えして

武藤潤子師は2014年から5年間、八街福音キリスト教会で奉仕をしてくださり、現在はOMF日本ホームサイドセンターの事務局での働きを担っています。OMFインターナショナルは東アジアの人々に福音を伝える国際的宣教団体です。

 宣教メッセージは「沈みかけても」(マタイ14章22節-33節) 

 武藤師は高校2年生の時に信仰告白をし、当時イエスを親友のように感じていた。
 (マタイ14章)イエスが湖の上を歩いているのを見たペテロは「私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。ペテロは水の上を歩きたいのではなく、ただイエスのもとへ行きたいという思いから「命じてください」と願った。イエスはその信頼に応えて「来なさい」と言われたが、ペテロは強風を見て恐れ、沈みかけてしまう。しかしイエスはすぐに手を伸ばし彼をつかんだ。
 私たちも疑いや恐れに揺れ動く弱い存在。「恐れるな。わたしがあなたを助ける」(イザヤ41:13)という言葉は励ましとなる。百人隊長の「ただお言葉をください」という信頼の姿勢も同じである。
 弟子たちは弱さを抱えていたが、イエスはそのような者たちに大宣教命令を託した。「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」という言葉は、責めではなく愛に満ちた問いかけである。
 私たちは日常の仕事や介護の中で傷つくことがあるが、「助けてください」と叫ぶとき、ペテロのように自分の弱さとイエスの支えの必要性に気づく。沈みかける経験を通して、より深い信頼へと変えられる。

*弱さをそのまま受け入れ、素直に心を開き「助けてください」と言える日々でありたいと思います。

 


2025年8月10日 ローエン・ジョエル師をお迎えして

 ローエン・ジョエル師は、これまで1991年から洋光台のぞみキリスト教会(横浜)、立川駅前キリスト教会(東京)、亘理町キリスト教会(宮城県)での宣教の働きを経て、現在はグレースシティチャーチ東京で奉仕をされています。

宣教メッセージ「安息日のための歌」(詩篇 92篇1節-15節)

 詩篇92篇3節「十弦の琴に合わせ 竪琴の妙なる調べにのせて」。音楽は心に響き、私たちの心を神に向ける助けとなる。教会礼拝の目的は、神の偉大さ、主の恵みと真実を伝えること。礼拝することにより、霊的な刷新が与えられ、主を喜び、主の元で安らぐことができる。月、星、太陽、すべてを神はコントロールし相応しいところに置いてくださり、主の働きの大きさと思いの深さを知ることができる。礼拝はいのちを与えていただき、主を喜び歌うこと。得ることではなく受けること。することではなく与えられること。そして人生の秩序と平安は神からのみ与えられる。

*不思議なことに、美しい旋律に心が揺さぶられ涙することがあります。賛美をささげる時、閉じていた心が開かれ、みことばが沁みてくることもあります。私たちの頑なさは主が一番ご存じです。


2025年7月6日 木村恵一師をお迎えして

 木村師は、北海道北広島市にある北広島チャペルキリスト教会の牧師としての働きを担われる一方、北海道を中心としたキリスト教関連の機関、学校などで仕えながら幅広く責務を担っておられます。

宣教メッセージ「満ち足りるということ」(ピリピ4章11節-13節)

 「幸せとは何か」。欲しいものを手に入れること、願いが叶うことだろうか。ソロモンは伝道者の書で「空の空。すべては虚しい」と言う。神を知らない人はどうすれば満ち足りるのかが分からず、苦しみ、痛みを避けるために楽しいこと(欲望)に埋没してしまう。しかし私たちは明確な意図、意義、目的をもって創造された者である。パウロはどんな境遇であっても満ち足りることを学んだ。痛みや辛さは成長の機会。困難を抱えていようと今が恵み、今が幸いな時。

*苦しみや痛み辛さの回復には時間がかかるかもしれません。しかし私たちの思いはどんな時でも神に向かい祈ります。そこに怒りがあったとしてもその中にやがて神からの応えを見出します。神の前に立ち自分を手放すことで応えをいただくことがしばしばあります。


2025年6月22日 大田尾達三師をお迎えして

 大田尾師は、聖書宣教会の神学校を卒業後に、保守バプテスト同盟の宣教師と共に酒々井町、埼玉県戸田市の開拓、福島県三春の「丘の上チャペル」で牧会伝道をされ2017年から8年間、埼玉県狭山市「のぞみ教会」の協力牧師として携わっていました。

宣教メッセージは「福音にあって生きる」(ローマ1章14節-17節)

 ’私は負い目のある者です’。ふつう負い目とは「負債」や「責任」を負う者を意味するが、パウロは迫害者から伝道者へと変えられ、教会を迫害してきた罪意識という負い目を抱えていた。パウロはイエスとの出会いによって律法や善行の順守は絶望だったと知り改心に導かれ福音を伝える者とされた。福音とはGood News(良き知らせ)、つまりイエスによって成就したことの知らせである。イエスがこの世に来られたことが福音であり、私たちは滅びから永遠のいのちに移された。

*「かつての私たちは罪の中に死んでいて神とつながっていなかった」。例えとして大田尾先生は電源のON、OFFについて言われ、電線はあったのに電源はOFFのまま。電源をONにして初めて、私たちは神の恵みの中に生かされる者とされました。


2025年5月18日 原田靖彦師をお迎えして

原田靖彦師は、宣教師の福音宣教活動の一翼を担うために、現在も日本語教師として従事(50年間)している一方、日本の諸教会で福音を伝える働きを担っておられます。

宣教メッセージは「キリストが私のうちに生きておられる」-お墓参りのすすめ-(ガラテヤ2章15節-21節)

 人生は辛く、迷いや不安とつねに隣り合わせで死にたいと思うことさえもある。「そんな時はここに来なさい。ここは君のお墓です。新しいいのちをもらった所です。すべての出発点でありいつでもここから始めることができます」。罪そのものに対して神の怒りがすべて出し尽くされた十字架、私たちに代わって主イエスが負われた十字架。今、私たちクリスチャンは十字架を見上げるとき、自分の墓参りができる。十字架によって昨日までの私は死に今日私は生まれ変わることができ、いつでも神の御前に近づくことができる。

*「墓参り」。十字架によって罪から解き放たれて、たしかにかつての自分を葬りました。そして今までの自分とは違う新しい人生を歩みだしています。 祈りによって日々十字架に触れ、日々新しくされています。