聖書を読む会

八街福音キリスト教会では月に1回(第3日曜日の午後)皆で聖書を読み進めています。クリスチャンにとっても聖書はとても難しい書物ですが、皆で自由に分かち合いながら読み進めることによって、より身近に聖書を理解することができ、感謝なひとときを過ごしています。

第1章

アハブ王の息子アハズヤの短い治世(約2年)の記録。
屋上の部屋から落下して重体となったアハズヤは、偶像の神バアル・ゼブブに伺いを立てようとした。しかしエリヤは、「必ず死ぬ」とをアハズヤ王に直接宣言した。

■参加者の声から■

偶像崇拝が最大の罪であること、私たちが本当に頼るべき方は聖書の全能の神以外にはないということ。そしてどんなことがあってもすべてをご存知の主なる神により頼んでいきたいと思う。

第2章

火の戦車と火の馬が現れ、エリヤが竜巻に乗って天に上げられる印象的な箇所。
そしてエリヤの働きを受け継いだエリシャの3つの資質について知ることができた。
1つは従うこと、2つ目は求めること、そして3つ目は自覚すること。

■参加者の声から■
主がすべての背後に働いているが、私たちもその主のみ旨に従い、主が与えてくださった賜物を求め、自覚していくことが必要であることを学ぶことができた。

第3章

アハズヤ王の死後、北王国の王となった兄弟ヨラムの治世の記録。

ヨラムは両親が崇拝していたバアルの偶像を取り除きはしたが、金の子牛の像は拝み続けた。ヨラムはモアブと戦うために南王国(ヨシャファテ王)と連合したが、計画の変更から苦境に立たされ、エリシャにみこころを求めた。エリシャは「主はモアブをあなたがたの手に引き渡す」と伝え、そのとおり連合軍は勝利した。

ヨラムは主に全く従うことはしなかったが、エリシャやヨシャファテなど主に従う人々のゆえに主が憐れまれたことを学んだ。

■参加者の声から■

私たちの周りにいる、神に対して無関心な人たちにも、主の恵が注がれることを知り、主は私たちをそのために用いてくださっていることに改めて感謝。

第4章

エリシャが行った3種類の人々のための奇跡について記述されている。

1つは貧しいやもめのための奇跡。やもめが持っている小さなものを差し出すことから起きた奇跡。2つ目は裕福な女性のための奇跡。子どもがいなくても幸せだった女性にエリシャは子どもが与えられることを預言。しかし子どもは成長途中で亡くなった。子どもの元に駆け付けたエリシャが子どもの上に身を重ねて生き返らせた奇跡。そして3つ目は預言者たちのための奇跡。飢饉のとき、知らずに食べようとした瓜の毒を麦粉で消し去るなどの奇跡。

■参加者の声から■ 

主なる神が人間の生と死、日々の生活を支配されていること、貧しい人も富める人も主は常に心に留めておられることを学び感謝。

第5章

 

ツァラアトの冒されていた異邦の国アラムの軍人ナアマンの癒しの奇跡。

病を治すために彼がしたことは、治るように願い求めること、エリシャの言葉を信じること、従い続けることだった。エリシャの「ヨルダン川へ行って、7回あなたの身を洗え」とのことばに従って川に身を浸しても6度目までは何も変化が起きなかった。しかし、従い続けついに7度目に奇跡は起きた。ナアマンは異教の地に帰ってからも主に従い続けることを約束した。

しかし、エリシャのしもべゲハジは、エリシャが受け取らなかったナアマンの贈り物の一部をひそかに受け取り、エリシャに罪を告白する機会が与えられながらも嘘をつき罪を認めようとしなかった。そしてナアマンの病が感染(うつ)されてしまう。ゲハジは雪のようになってエリシャの前から去って行った。

■参加者の声から■ 

心から求め、信じ、従う人々に、主は奇跡的なみわざを現されるが、自分の利益を求める人々には、厳しいさばきが下される。この箇所から、常に謙遜であることは難しいが、自身の利己的な思いに気づける者でありたいと思う。

第6章

ある時期に集中して起きたエリシャの3つの奇跡。

1つは日常のささいな出来事の奇跡。建物を増築しようとしている時、預言者の仲間が借り物の斧の頭をヨルダン川に落としてしまった。エリシャは1本の枝を川に投げ込み斧を浮かび上がらせた。2つ目は、侵略をたくらむ敵を歓待をもって迎え、侵略と略奪を阻止した奇跡。そして3つ目は、悲劇的な飢饉の中、自分の命を狙われていることを知りながら、主の御心であるならば受け入れようとするエリシャの覚悟と信仰。

■参加者の声から■

*「主は敵のためにも奇跡を行われる」ことを通して、私たちに好意的でない人々のために祈りたいと思う。

*…エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて見えるようにしてください」。主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。(17節)…このように、私達も苦難の日に、主を見上げて、主に霊的目を開いてくださいと祈るべき。主の軍勢は、私たちを取り囲み、敵の攻撃から守ってくださるから。