2020年5月10日(日) 復活節第五主日
聖書箇所 | 説教全文 |
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説教全文
「私を見た者は父を見た」
ヨハネの福音書 14章1-14節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。
イエス様は、本日の聖書箇所であるヨハネの福音書14書1節で言われました。「あなた方は心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。」
皆さん、神様を信じ、イエス様を信じていますか。もし信じていない人がおりましたら、今すぐ信じなければなりません。なぜなら、私達は何時新型コロナ・ウィルスに感染するとも限らないからです。今は感染する人が大分減って来たから、大丈夫だと思ってはいませんか。油断大敵です。
それではイエス・キリストを信じると、新型コロナ・ウィルスに感染しないのかと言うと、そうではありません。新型コロナ・ウィルスに感染した人と濃厚接触すると、新型コロナ・ウィルスに感染してしまうことは当然のことです。それではイエス・キリストを信じる意味がないではないか、と言われるかもしれません。しかし、イエス・キリストを信じる人は、真の神様イエス様に祈ることができる所が本質的な違いです。新型コロナ・ウィルスも神様が造られたウィルスですから、人間の目には見えなくとも、神様には見えるのです。ですから神様であるイエス様に祈るのです。「どうか、新型コロナ・ウィルスにかからないように守ってください。」この様に私達が祈るならば、イエス様は私達を導いて、コロナ・ウィルスから私達を守ってくださいます。本日の聖書箇所14章13節と14節を見てください。そこに、この様に書いてあります。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」イエス様は、13節と14節で繰り返して2回「あなた方が私の名によって求める物は何でも、それをしましょう。」と重ねて約束しておられます。神様が約束されることは、1回でも確実なのに、2回も言われるということは、完全に確実であることを示しておられます。しかしこの様に神様の方で堅い約束を保証しておられるのに、肝心の私たちが神様に祈らなければ、神様の方で嫉妬して、守られないばかりか、逆に神様がその自信過剰な信仰者に、コロナ・ウィルスを感染させて、辛い目に合わせらないとも限りません。神様のお灸はかなりきつそうです。使徒パウロもテサロニケ人への手紙5章17節で「絶えず祈りなさい。」と勧めているのに、言うことを聞かないからです。祈りは短く、神様の耳を思い浮かべて、祈りましょう。そうすれば必ず聞いていただけます。そして、私達は全ての危険から守っていただけます。
さて、イエス様が本日の聖書箇所14章1節で、「あなた方は心を騒がせてはなりません。」と言われました。この聖書箇所はイエス様が十字架に掛かられる直前、過ぎ越しの祭りの前に弟子たちと共に過ごした、最後の晩餐での出来事です。本日の聖書箇所は、イエス様が弟子たちに話された、長い別れの説教の最初の方の部分で、言わばイエス様の遺言の一部と言えるでしょう。
この時、弟子たちの心が騒いでいたのは、イエス様が前の章の13章33節でこのように言われたからでした。「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」イエス様が弟子たちから離れて、どこか遠くへ行ってしまう、と言われ、弟子たちがイエス様を捜しても、見つけられない所へ行ってしまわれる、と言われたからです。イエス様を王様に据えて、新しいイスラエル国家を再興する時が、いよいよ近づいている、と弟子たちは感じていた時でした。その王様となる御方が、突然いなくなると言われたのです。心が動揺しないわけが有りません。
弟子たちの心が騒いでいるのを見られたイエス様は言われました。2節と3節です。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」イエス様が行かれる場所は、イエス様の父の家であることが分かりました。この父の家には住まいがたくさんあり、弟子たちが何時来ても良いように、準備しに行くのだと言われるのです。そして準備出来たら、また弟子たちを迎えに戻ってきて、弟子たちを連れて行くと言われるのです。弟子たちはこのイエス様の言葉を聞いて、かなり違和感を覚えたことでしょう。自分たちの思惑とは正反対であったからです。でもイエス様がそう言われるのですから、従わざるを得ません。
それでは、イエス様の思惑は何だったのでしょうか。イエス様の思惑は、イスラエルの国の王様になることではなく、世界中の人々の王様になることだったのです。それでイエス様は弟子たちに言われました。4節です。「わたしの行く道はあなた方も知っています。」それでは、イエス様はこの道を何時、弟子たちに教えられたのでしょうか。それはイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時からです。洗礼者ヨハネは、イエス様が「世の罪を取り除く神の子羊」であることを、弟子のヨハネとアンデレに教えられました。ヨハネの福音書1章36節です。そしてピリポにはご自分が「モーセが律法の中で書き、預言者たちも書いている方」であることを示されました。ヨハネの福音書1章45節です。このモーセがイエス様について書いてある箇所は2箇所あります。一か所は創世記3章15節の原始福音です。神様は、エバをだました蛇に言われました。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」もう一か所は、申命記18章15節です。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」また、預言者としてはイザヤがその7章14節でこのように預言しています。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」それから700年後にイエス様自ら、この様に言われています。マタイの福音書4章17節です。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」そして弟子たちにもこの様に言われました。マタイの福音書
10章7節です。「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。」この様にイエス様は、信仰によって天の御国に入る道を教えて来られました。イエス様は人々を天の御国に導こうとされていました。そしてその天の御国への道は「悔い改める」と言う信仰の道だったのです。悔い改めて神様に向き直り、神様を信じて天の御国に導いていただく道です。ですからこの道は弟子たち全員が知っていた道でした。
イエス様が復活された後に、イエス様の傷跡に指を差し入れるまでは御復活を信じないと言った、あの疑い深いトマスがイエス様に尋ねました。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」このトマスの質問は、不信仰から来る質問ではありません。前を見ようにも暗くて、はっきり見えないために前進できず、どうしようかと、悲観的になっている信仰から来た質問でした。またほかの弟子たちは、イエス様から「わたしの行く道はあなた方も知っています。」と言われて、まさかイエス様に知らないとも言えず、困っていたのです。他の弟子たちは、トマスが聞いてくれたので、ほっとしました。トマスに感謝です。
イエス様は弟子たちの気持ちを察し、言われました。6節です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」このイエス様の言葉から、イエス様が道であるということは、イエス様が父なる神様に行く唯一の道であることを示し、イエス様が真理であるということは、父なる神様の所に確実に到達できる道であることを示し、またイエス様が命であるということは、父なる神様に至るまで安全に導かる道あることを示しています。天国に行く道としてイエス様は、唯一、確実、安全であるということです。この道の通行券は信仰です。
そしてまたイエス様はすごいことを言われました。7節です。「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」弟子たちの中の誰もイエス様に、あなたはどなたですかと尋ねた者はいません。それなのになぜイエス様は、自らご自分の身元を明らかにされたのでしょうか。それはこの場面が最後の晩餐の場面であったからです。イエス様は、この後、イスカリオテのユダに案内されたユダヤ人たちに捕まり、明日は十字架に掛かり、お墓に葬られるのです。そのためにご自分の本当の姿を、弟子たちに知ってもらう必要がありました。それで弟子たちに質問させたのです。このイエス様の言葉に、すかさず反応したのはピリポです。ピリポはイエス様のことを「モーセが律法の中で書き、預言者たちも書いている方」と言い当てた、直観力の鋭い弟子です。即ちピリポは、イエス様が天地創造の初めから、預言されておられた救い主であることを知っていました。しかしそのピリポでさえも、イエス様御自身が、父なる神様であるとは知らなかったのです。それでピリポは言いました。ある意味でピリポは神学者です。イエス様が本当はどなたなのか興味津々でした。ピリポはイエス様に迫りました。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
しかしイエス様はこのピリポの質問にがっかりされました。そしてピリポに言われました。弟子たちがもう少し自分のことを知っている、と思っておられたからです。9節です。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」
この最後の言葉「どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」と言う言葉が、いかにもイエス様のがっかりされている様子が良く表されています。それにしてもイエス様の「わたしを見た者は、父を見たのです。」と言う言葉は衝撃的です。「私を見た者は父を見た」とは、イエス様と父なる神様とが同一であるということを物語っています。イエス様は父なる神様なのです。
皆様のお手元にある全訳讃美歌の表紙の絵は、トルコのイスタンブールにあるハギアソフィア大聖堂の天井に描かれているイエス・キリストのお姿です。一度本物の絵にお目にかかりたいものです。いやそれよりも本物のイエス様にお目にかかりたいですね。私は、畳に額をこすりつけて、悔い改めていた時、目の前に足首まで垂れた白い衣を着た方が現れ、「わたしもあなたに罪を認めない。」と宣言してくださいましたが、残念ながらそのお顔を拝見することができませんでした。天国に行ったらぜひお会いしたい気持ちで一杯です。
さらにイエス様は続けられました。10節です。「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言う言葉は、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。」このイエス様の言葉に、弟子たちはビックリしたでしたというよりも、違和感を覚えたのではないでしょうか。弟子たちは皆イエス様が人間だと思っていたのです。ところがそのイエス様が、ご自分は父なる神であると言われるので、とても信じられず、付いて行けなかったと思われます。それでイエス様は言われました。11節です。「私が父におり、父が私におられる、と私が言うのを信じなさい。」なかなか信じることのできない弟子たちの顔が思い浮かぶようです。
9節の「私を見た者は、父を見たのです」と言う言葉は平面的と言うか、写真的というか、父なる神様とイエス様を重ねると、ピッタリ重なり合うことを現しています。けれども10節「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。」それから11節「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。」この二つの節でイエス様が言われる言葉は、立体的です。父なる神様とイエス様とは、前後、左右、上下の3次元的に見ても、ぴったり重なると言われるのです。
それでも弟子たちは、なかなか信じられません。それでイエス様は11節の後半で言われました。「さもなければ、わざによって信じなさい。」この11節で言う業とは誰が行った業でしょうか。12節を見ますとその業は、イエス様を信じる人が行う業であることが分かります。イエス様は言われます。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」このイエス様が言われる業とはどんな業でしょうか。弟子たちが行った業はいろいろあります。ペンテコステの日、ペテロの説教によって、3000人のユダヤ人が改宗して、洗礼を受けました。(使徒2:41)また使徒たちは、地の果てまで福音を宣べ伝えました。そして使徒達は大勢の病人を癒しました。(使徒5:16)
説教の初めに述べましたように、イエス様は、13節と14節で、使徒たちが、御自分のお名前によって求めることは、何でもそれをします、と保証されました。現代の信仰者である私達は使徒ではありませんが、ペテロやヨハネやパウロと同じ信仰者です。イエス様のお名前で祈りつつ、何でも行いましょう。父なる神様が御子イエス様によって栄光を受けるわけですから、私達もどんどんイエス様のお名前を通して大きな技を行わせていただきましょう。私達が大きな技を行えば、父なる神様が御子イエス様によって大きな栄光をお受けになるのです。ですから私達も消極的にならないで、大胆に大きな技を行わせていただきましょう。そして父なる神様が多くの人々によって誉め称えられ、イエス様が多くの人々に信じられるように力を尽くしましょう。
こういう訳で、イエス様は、「私を見た者は父を見た」と言われました。イエス様は、父なる神様です。ですからイエス様のお名前を通して祈ることは、ダイレクトに父なる神様に届き、父なる神様からイエス様を通して、ダイレクトに私たちに大きな力が流れてきます。ですから私達はイエス様を信じ、何事もイエス様のお名前を通して大胆に行わせていただきましょう。小さいことから大きなことまで、大胆に祈るのです。神様に不可能はありません。問題が有るとすれば信仰者である私達の方です。いかに大胆にイエス様に頼る信仰であるかが問われています。イエス様を通して父なる神様を見つめ、神様に守り導かれた、素晴らしい実りある人生とさせていただきましょう。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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