2020年5月17日(日) 復活節第六主日
聖書箇所 | 説教全文 |
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説教全文
「私の教えを守る人は、私を愛する人」
ヨハネの福音書 14章15-21節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。
本日の説教の聖書箇所は、ヨハネの福音書14章15~21節です。そして説教題は「私の教えを守る人は、私を愛する人」です。
早いものでもう五月も半ばとなりました。新潟県では緊急事態宣言も解除され、外を歩くと、鶯が鳴き、野の花は咲き乱れ、美しい季節となっています。復活節も第六週となり、次週5月24日は昇天主日。そして31日は聖霊降臨祭です。
しかし、本日の聖書箇所の場面は、先週に引き続き、最後の晩餐の一場面となります。先週、イエス様は、ご自分が父なる神様と同一人物だと弟子たちに教えられ、本日は聖霊について教えてくださっています。そしてイエス様は本日のお話を通して、どのような心構えで聖霊降臨祭を迎えるべきかをお話ししておりますので、聞いて参りましょう。
イエス様は言われました。15節です。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」この御言葉の中で、イエス様が「わたしの戒め」と言われた戒め」について、マルティン・ルター博士は、このように解釈しています。全部で4つあります。
第一番目に、イエス様に関して忠実に説教すること。
第二番目に、弟子たちが御言葉と聖礼典を信仰者たちに用意すること。聖礼典とは洗礼と聖餐式のことです。
第三番目は、イエス様のために、信仰者たちの間で、愛と一致を保つこと。
第四番目に、どんなことが信仰者たちの上に降りかかろうとも耐え忍ぶことです。
このルター博士が説明される四項目は、本当に戒めでしょうか。どうも違うようです。イエス様が言われる「戒め」とは、モーセの律法の様な戒めではなく、「イエス様の教え」であることがわかります。「何々してはならない。」ではなくて、「何々しなさい。」です。イエス様について忠実に説教し、御言葉と聖礼典を執り行い、信仰者の間で愛と一致を保ち、どんな困難でも耐え忍ぶことです。この4つを忠実に行うには、イエス様に対する愛が必要です。特に4番目の「どんな困難でもイエス様のゆえに耐え忍ぶこと」は、イエス様を本当に愛してなければできません。イエス様を愛する愛だけが、私達をイエス様の期待に添うようにと促すことが分かります。まさに使徒パウロがコリント人への第二の手紙11章2節で言っている通りです。「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」クリスチャンとは、イエス・キリストの十字架の死によって、自分の罪が赦(ゆる)され、地獄の滅びから救われた人です。イエス様が自分の罪のために十字架に掛かってくださったと知って、その罪の赦しのゆえに、イエス様に深い恩義を感じている人です。あるいは、罪赦されて深い感謝に溢れている人です。この人がキリストの花嫁なのです。もうイエス様と離れることができない人、イエス様と愛で結ばれている人です。この様な意味で、イエス様とクリスチャンとは夫婦なのです。
それでは、イエス様への愛が有れば、それだけで良いのかと言うと、そうなのです。本当に愛だけが有れば良いのです。たとえ、知識や技量が伴っていなくとも、強力な助っ人をイエス様は与えてくださると言われるからです。16節です。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもう一人の助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと共におられるためにです。」強力な助っ人とは、ギリシャ語でパラクレートスという「助け主」です。新改訳聖書の脚注16節を見ますと、パラクレートスの意味が書いてあります。「ギリシャ語『援助のために、そばに呼ばれた者。とりなしてくれる人。』」と記されています。
また17節を見ますと、この「助け主」は「真理の御霊」である、とイエス様は言われます。イエス様はこのお方を「もう一人の助け主」と言われました。それでは最初の「助け主」は誰でしょうか。最初の助け主は、当然のことながら、イエス様です。最初の助け主イエス様が天に帰られた後、父なる神様は、もう一人の助け主「真理の御霊」を送ってくださるのです。
最初の助け主イエス様と、このもう一人の助け主「真理の御霊」との違いは、どこにあるのでしょうか。イエス様はこの世に3年半しかおられない短期滞在者でありますが、「真理の御霊」は弟子たちと何時までも共におられる、即ち永遠におられる長期滞在者であることです。
17節を見ますと、イエス様はこの長期滞在者「真理の御霊」を「弟子たちは知っている」と言われます。まだ会ったことも無い「真理の御霊」を、どうして弟子たちが知っているのでしょうか。その理由をイエス様は17節の後半で言われました。「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」この「真理の御霊」は、人間となられたイエス様とは違い、弟子たちの心の中に住まわれるお方であるからです。ですから弟子達の目には見えません。しかし、心の中に住んでくださるので、弟子たちには、前から知っているように受け取られているからです。
この真理の御霊の働きは、
第一に、弟子たちに神様のことを直感的にわかるように教え、
第二に、御父を弟子たちに示し、
第三に、弟子たちを御父に導きます。
こうして真理の御霊は、イエス様の去られた後、弟子たちの口を通して、イエス様の御言葉を宣べ伝えると言う任務を引き継ぎ、弟子たちの口を通して福音を語らせ、人々を救いに導くと言う任務を完成させます。
しかしこの真理の御霊は、弟子たちの心の中に住んでくださいますが、この世の人達の心の中には住んでくださいません。「この世は真理の御霊を見もせず、知りもしないからです。」とイエス様は言われます。この世の人々は、自分の罪を認めず、したがってイエス様にその罪の赦しを求めてこないからです。ですからイエス様を憎むことはあっても、愛することはありません。そういう訳でこの世は、第二の助け主である「真理の御霊」を見ることも、知ることも無いのです。
18節でイエス様は弟子たちに「わたしはあなた方を捨てて孤児にはしません。私は、あなた方の所に戻ってくるのです。」と言われました。どのような姿でイエス様は弟子たちの所に戻って来られるのでしょうか。イエス様は三位一体の神の第二格、人間の姿を持つお方です。しかし十字架の死の後、三日目に復活され、骨も肉もある人間の体を持っておられますが、その御体は、同時にお墓の壁でも、家の壁でも、自由に通り抜けられる霊の体でもあります。イエス様は復活されてから40日後に昇天されるまで、この骨と肉を持つ人間の体でありながら、岩も壁も通り抜けられる霊なる体を持たれて、弟子たちと交わりました。
こういう訳で、イエス様は19節の前半で言われました。「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。」この「今しばらく」とは、この最後の晩餐の後、十字架に掛けられて、お墓に葬られるまでの一日足らずのことを指していると言えます。そしてイエス様は19節の後半で言われました「しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」このイエス様の言葉は、復活の預言の言葉です。弟子たちは復活のイエス様に出会うのです。そして、復活のイエス様を信じる者は、イエス様が生きているように、生きるようになるとイエス様は言われます。即ち、イエス様と共に永遠に生きる者とされるということです。これは弟子たちだけに限りません。弟子たちの証言を通して、イエス様の復活を信じる人は、全て生きる、とイエス様は言われます。このことは弟子たちの当時だけでなく、現代においても、未来においても変わることが有りません。私達も弟子たちの証言を通してイエス様の復活を信じるならば、永遠に生きる者とされるのです。
そして20節でイエス様は言われました。「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」イエス様が言われる「その日には」とは何時の日を指すのでしょうか。その日とは、イエス様の昇天後10日経ったペンテコステの日、即ち聖霊降臨日の事です。復活祭の日から数えて50日目の日です。使徒の働き2章3節と4節には、その日、どのように聖霊降臨が起こったのか書かれています。「また、炎のような分れた舌があらわれて、弟子たち一人一人の頭の上に留まりました。すると弟子たちは皆、聖霊に満たされて、御霊が話させてくださる通り、他国の言葉で話し出したのです。」
この聖霊降臨により、聖霊に満たされた弟子達は、イエス様が父なる神様におり、弟子たちがイエス様におり、イエス様が弟子たちにおる、と言うことが弟子たちに分ったのです。つまり聖霊に満たされると、父なる神様とイエス様と弟子たちとは一体になると言うことです。神様によって造られた人間が神様と一体となるなんて、どこかの新興宗教のような感じがしないでもないですが、ペンテコステ、即ち聖霊降臨祭は、神様と人間が一体になった日であるということです。なんと素晴らしいことではないでしょうか。
これは現代でも起こることでしょうか。現代でも起こるのです。人が自分の罪深さを認めて、神の裁きを感じ、救い主イエス様に罪の赦しを求めると、イエス様は二つ返事でその罪を赦してくださいます。この経験を牧師に話すと、牧師は洗礼を授けてくれます。するとそれを天から見ていた父なる神様が、聖霊をその人に与え、神様の子供としてくださいます。即ちその人は神様と一体となるのです。聖霊と言う神様がその人の内に住まわれるからです。本人は神様と一体となったという感覚を持たないでしょう。でも御言葉を通して信仰生活を続けていくうちに、聖霊がその人の内に働かれるようになります。使徒パウロが、ガラテヤ人への手紙2章20節で、このように言っているからです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
イエス様は15節で「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と言われましたが、21節では逆の言い方をしています。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。」15節の御言葉は、これからクリスチャンになろうとしている人の姿を現しています。自分の罪深さを知って、悔い改めて、イエス様に罪の赦しを願うと、イエス様がその罪を赦して下さいます。これがクリスチャンになる第一歩です。イエス様に罪を赦されると、もうイエス様から離れられなくなります。イエス様を愛するようになるからです。その人はクリスチャン生活を通してイエス様の教えを守るように成長します。ですから21節の御言葉は、イエス様の教えを守る成長したクリスチャンの姿を現しています。
この成長したクリスチャンにイエス様は言われるのです。21節の後半の御言葉です。「わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」イエス様を愛する人は、イエス様の父なる神様に愛され、イエス様もその人を愛し、さらにイエス様御自身がご自分の姿をその人に現してくださる、と言われるのです。イエス様が弟子たちと交わった西暦30年ごろから、今ではほぼ2000年経っています。今でもイエス様は現れてくださるのでしょうか。イエス様は神様ですから、いくら年代を経ても存在されるお方です。ですから現代でも表れてくださると言うことできます。多くの人にイエス様が御姿を現わしています。
ですから、まず私達は悔い改めて、罪の告白をしましょう。そうすれば罪を赦していただけます。これがイエス様と関係を持つ唯一の道です。なぜならイエス様は私達の罪を赦すためにこの世にお生まれになったからです。私達の罪の身代わりとなって、十字架に掛かり、全人類の罪の代価を支払ってくださいました。罪を悔い改めて、イエス様を信じる人は誰でも、たとえどんなに大きな罪でも赦され、真理の御霊が与えられ、天国に導かれます。その人は成長してイエス様の教えを守る者となり、イエス様を心から愛する人となります。この様な人にイエス様は現れてくださいます。それゆえ、イエス様を信じ、イエス様を愛し、イエス様の教えを守り、多くの人々にイエス様を伝える、素晴らしい人生を歩む者とならせていただきましょう。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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