説教全文

2020年5月31日(日) 聖霊降臨祭

聖書箇所 説教全文

説教全文

「主の御名を呼ぶ者は皆救われる」

使徒の働き 2章1-21節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 新型コロナ・ウィルス感染症の流行は、今月末の緊急事態宣言解除で収束したのかと思いきや、1週間もたたないうちに、東京や北九州市で新たな患者が発生し、再び自粛が求められるのではないかという、いやな予感を感じさせます。この間、日本での感染者数は今朝までに16831人、死者数は894人です。目を世界に向けますと、感染者数は570万人、死亡者数は35万7千人です。このように世界規模で感染症が流行するパンデミックが起っております。
 この新型コロナ・ウィルス感染症の発生源はいろいろと取りざたされて、はっきりしていません。当初、中国武漢のウィルス研究所から漏れ出したものではないか、いや、アメリカから中国にウィルスが持ち込まれたのだなどと言ううわさもありましたが、これらが本当なら、中国やアメリカは細菌兵器ならぬ、ウィルス兵器の開発をしていることになり、大問題となります。
 でも私は、3カ月余りで約36万人近くの人が死に、世界経済が後退し、一時的にせよ世界中の人々の社会活動が制限されるという大災害は、人間の起こせるものではないと思っております。やはり全能の神様が悪魔を用いて為さっておられるのかもしれないと見ております。それは私達世界中の人々の目を神様に向けさせるためです。本日の聖書箇所である使徒の働き2章はこの世の最大のパンデミックならぬ、まさにこの世の終わりが示されています。この世には始まりが有りますから、必ず終わりが有ります。この世自体はまだまだ続くかもしれません。しかし私達が人生を楽しめるのは高々120年しかありません。私達にとって、この世は120年程の長さしかないのです。神様が決めたからです。私達の死は、それが病気であろうが、寿命であろうが、必ずやって来ます。まさに私たちが息絶える時、私達にとってはこの世の終わりなのです。私達がこの世に生きている間に、どうしてもしておかなければならないことを一つ、神様は私達に宿題として与えられました。その宿題を思い出させるために、神様は時々、「おい、學。宿題は終わったか。」とパンデミックのような、私たち人間が苦しむような出来事を起こされているとも見ることができます。その宿題とは、本日の説教の題であります。「主の名を呼ぶ者となることです。」どのようにしたら主の名を呼ぶことができるようになるのか、本日の聖書箇所に聞いて参りましょう。

 さて、聖霊降臨とは何でしょうか。聖霊降臨とは、一言で言って、神様が私達人間に宿ることです。私達人間の体は神様に似せて、神様によって造られたものですから、とても精密にできています。そして神様は御自分が宿れるように、人間に心をつくられました。でも人間は神様が宿ってくださらなくとも、それなりに生きていくことができます。しかし、神様の宿らない体は、神様と言う先の良く見える運転手がいませんから、あっちへぶつかり、こっちへぶつかりと事故ばかり起こす人生となってしまい、苦労ばかり多い一生となってしまいます。また野良犬が食べ物を求めて一日中さ迷い歩くように、苦労の絶えない人生となります。そして寿命が来た時には、スクラップとなって焼却炉の中に投げ込まれてしまいます。
 一方神様がその心に宿る身体は、神様がその体を何時も調子が出るように保守点検してくださり、事故やケガや病気に遭わないように運転してくださり、楽しい思い、幸せで平和な思いで満ち足らせ、人生を思う存分エンジョイさせてくださいます。そして体の寿命が来た時には、確実に天国に導いてくださいます。この様な意味で人間とは、神様の乗り物であるとも言えます。
 その人間の心に、今から約二千年前の五旬節の日である本日、聖霊降臨がおこり、聖霊なる神様が人間に宿るようになりました。その宿るようになった経緯が本日の聖書箇所使徒の働き2章1節から4節に書いてあります。五旬節とはユダヤ人の過ぎ越しの祭りの第一日目から数えて、50日目に開かれる刈り入れの祭りのことです。この刈り入れとは、大麦の刈り入れのことで、過ぎ越しの祭りの時に、大麦の刈り入れが始まり、約一か月半に渡って大麦の収穫が行われます。過ぎ越しの祭りの時には刈り入れた大麦の初穂を主に捧げ、五旬節の日には最後に刈り入れた大麦の束を主に捧げると定められています。この五旬節が過ぎると、今度は小麦の収穫が始まるのだそうです。この五旬節の祭りの規定はレビ記23章9節から22節に書いてあります。興味のある方はどうぞご覧ください。
 イエス様は昇天される前に、使徒の働き1章4節と5節で弟子たちに、このように命じておられます。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」イエス様の命令ですから、弟子たちはエルサレムから離れないで、日曜日ごとにある家に集まり、祈りを捧げていました。イエス様が「もう間もなく」とおっしゃっておられたので、弟子たちは、主が昇天された日から一番近い五旬節の日を第一候補として待っていたことと思われます。その予想は当たり、弟子たちが全員集まって祈りを捧げている時、本日の聖書箇所の2節から4節に書かれていることが起こりました。「突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」
 ギリシャ語で、空気と霊はどちらもプニューマと呼びます。ちなみにヘブル語でも風と霊はルーアハと言います。ですから、聖霊が天から下って来られる時、「天から激しい風が吹いて来るような響きが起こった。」と言うのは興味深い話です。聖霊降臨の時、聖霊は、天から激しい風が吹いて来るような「ゴー」という響きを立てて、下って来られたことが分かります。多分その音は、弟子たちが集まっている家の真上の非常に高い天の一角から始まり、最初は小さかったのですが、下って来るにつれて、その音はだんだん大きくなり、その家に到達する時には非常に大きな音となり、エルサレム中に響き渡ったことと思われます。そしてその家に到着するとその音は止みました。ですからその音はしばらく続いていたと思われます。その音が止むと、弟子たちが集まっている部屋の天井近くに炎のような分かれた舌の集合体であるクラスターが現れ、その炎のような舌のクラスターが分かれて一人一人の頭の上に留まりました。すると弟子たち皆が聖霊に満たされて、御霊が話させてくださる通りに、他国の言葉で話し出したのです。弟子たちの頭の上に留まった炎のような舌は、弟子たちの心の中に入り、炎のような舌は目に見えなくなりました。けれども弟子たちは御霊に満たされて他国の言葉で、神様の大きな御業を語り続けていました。

 この大きな音が下って来る様に驚いたのはエルサレム中の人々です。その音が大きくなりながらゆっくりと、天から下って来るので、皆家の外に出て、何処に落ちるのかと興味津々となり、大勢の人が、音に引き付けられて、知らず知らずのうちに弟子たちが集まっている家の周りに来てしまったのです。人々は、その音の起った結末が知りたくて、その家の中に入って見たくなりました。そして戸を叩いて中に入れてもらいました。そしてさらにびっくりしたのは、ガリラヤ人たちがさまざまな国の言葉で神様の偉大な御業を語っていたのを聞いたことです。
 この家の中に入ってきた人たちは、敬虔なユダヤ人たちで、天下のあらゆる国からやって来て、エルサレムで余生を送り、イスラエルに骨を埋めたいと願っている人たちでした。これらのユダヤ人がどれほどエルサレムをいとおしく愛していたかは次のような表現で証明されています。ある注解者は「イスラエルの地に埋葬された者は誰でも祭壇の下に埋葬されたのと同じくらい良い状態だ」と伝えています。この人たちはエルサレムに長年住んでいますから、世間の情報に長けていて、会う人がどこの出身者か分かるのでしょう。様々な国の言葉で神様の偉大な業を語っている人々が、ガリラヤ人であることを見抜きました。そのガリラヤ人の弟子たちの内に宿った聖霊が、弟子たちの目の前にいる外国からやって来たユダヤ人たちのそれぞれの母国語にあわせて、弟子たちの口を通して、神様の偉大な業を語らせたのです。聖霊の力ってすごいですね。私にも聖霊が宿っておられると確信しているのですが、語学は苦手です。

 集まって来たのは敬虔なユダヤ人だけではありませんでした。不敬虔なユダヤ人もいたのです。多分この不敬虔なユダヤ人たちがあざけったのでしょう。「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」このあざける者の言葉が引き金となり、ペテロが弟子たちを代表して弁明を始めたのです。「今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。」ユダヤ人がぶどう酒を飲むのは、主に夕食の時にお肉が食卓に上がると、ぶどう酒を飲むのだそうです。朝や昼は基本的に肉を食べないので飲まないそうです。
 ですから、ペテロの「今は朝の9時ですから」の一言で、皆があざける者に視線を向け、その口は塞がれてしまいました。

 そしてペテロはガリラヤ人たちの弟子たちが様々な国の言葉で話しているのは、預言者ヨエルの預言の成就であると説明し始めたのです。17節です。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」ペテロはこの言葉によって、ガリラヤ人たちが預言しているのは、神様が霊を注がれたからであって、この世が終わりの時代に入ったことを表しているのだと言いました。弟子たちが聖霊に満たされてから既に二千年近くが経ちました。ですから既にいつ最後の日か訪れてもおかしくない時代に突入しているのです。
 ペテロは預言者ヨエルの預言を引用して言いました。20節と21節です。「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」「太陽が闇となり、月は血に変わる。」とはこの世の最後の日のことです。誰が一体太陽が闇となると想像したでしょうか。誰が一体月が血に変わると予想したでしょうか。誰も想像も予想もしていません。想像も予想もできないからです。なぜなら太陽は私達が生まれる前から永遠に輝き続けており、月は永遠に太陽の光を反射して夜の地球を照らしているからです。しかし、形あるものは崩れて行き、私達の体は年とともに古びていくのです。何時神様が太陽のガス栓を占めてもおかしくない時代に入っているということなのです。ですからイエス様はマタイの福音書24章42節で言われました。24-42です。覚えやすい数字です。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」この目を覚ますとは、肉の目ではなく、霊の目です。私達が眠気を我慢しても、肉の目は自然と閉じていきます。しかし私たちが聖霊を心に頂くなら、聖霊なる神様が私の肉の目や心の目に代わって目を覚ましていてくださいます。
 この聖霊は、イエス・キリストを信じて、父と子と聖霊の御名によって洗礼を受ける時、与えられます。ですから、ぜひ罪を悔い改め、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けましょう。そうすれば聖霊が与えられ、私達は主イエス・キリストの御名を呼ぶ者となります。

 この様なわけで、この世は最期の時代に入っています。何時此の世の終わりが来てもおかしくない時代です。イエス様は目を覚ましていなさいと言われました。霊の目を覚ましていることがもとめられています。そのためには、先程も言いましたが、罪を悔い改め、救い主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けましょう。そうすれば聖霊が与えられ、私達は霊の目を覚ましている者となります。即ち、私達は皆、主イエス様がおいでになった時、主の名を呼ぶ者となるのです。主の名を呼ぶ者の生涯は、主イエス様の守りと、導きと、祝福に満ちています。その人の人生は導かれ、守られ、愛と喜びと平安とに満たされています。また、既に洗礼を受けている人は、此の世の終わりが必ず来ることをもう一度覚えて、霊の目を覚ましている者として日々を過ごしましょう。ほとんどの人にとっては、此の世の終わりよりも体の寿命の方が先に来るかもしれません。そしてそれはその人にとって此の世の終わりであることは確かです。主イエス様は体の寿命が来た時に、確実に天国に導いてくださいます。ですから、是非とも主の名を呼ぶ者とならせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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