2020年6月28日(日) 聖霊降臨後第四主日
聖書箇所 | 説教全文 |
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説教全文
「一杯の冷たい水を飲ませる人」
マタイの福音書 10章34-42節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。
本日の説教の聖書箇所は、先週の聖書箇所の続きで、マタイの福音書10章34~42節です。そして説教題は「一杯の冷たい水を飲ませる人」です。
私にとって「一杯の冷たい水を飲ませる人」で忘れられないシーンは、40年以上前に見た映画「ベン・ハー」でした。ユダヤ人の貴族だったベン・ハーがローマ総督暗殺未遂の罪で犯罪人とされ、炎天下の道をガレー船の漕ぎ手として連行されていく途中、ナザレの休憩所で水が与えられず喉の渇きに苦しんでいる所に、一人の大工が現れ、柄杓に冷たい水を汲んでベン・ハーに差し出す場面です。本当に印象的です。この映画の一番の目の引き所は四頭立ての馬にひかれた戦車競走ですが、それ以上に心に残る場面でした。それから数年後、奴隷の身から解放されたベン・ハーは、イエス様が十字架を負わされてゴルゴダの丘に歩いて行く姿を見て、かつて自分に水を飲ませてくれた方であることを思い出し、イエス様が倒れた時、すかさず柄杓に水を汲んで差し出しました。イエス様はベン・ハーを見上げ、その水を飲み干します。イエス様が十字架上で亡くなると、嵐が来て雨が降り、その雨に流されたキリストの血が、ハンセン氏病に侵されていたベン・ハーの母親と妹のところまで流れ下り、その二人の病を癒すと言うハッピー・エンドで終わっています。しかし、このハッピー・エンドは単なるハッピー・エンドではありません。柄杓一杯の水は、一時の喉の渇きを癒す働きしかありませんが、キリストにその柄杓一杯の水を差し出すという行為は、キリストを信じる信仰の結果であるとみなされるからです。
そこで、本日の説教箇所には、どのようにしたら私達の人生もこのハッピー・エンドで終わるようになるか、その方法が記されていますので、共に見てまいりましょう。
まずイエス様は34節でこのように言われました。「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。私は、平和ではなく、剣をもたらすために来きました。」イエス様は、その誕生の約700年前に、預言者イザヤによって、「平和の君と呼ばれる」(イザヤ書9章6節)と預言されたお方です。その平和の君であるイエス様がなぜ「剣をもたらすために来られた」のでしょうか。イエス様は「平和の君」ですが、このイエス様の「平和」とは人間相互の平和ではなく、父なる神様と人間の間の平和です。イエス様は、全ての人間が父なる神様と平和の関係を結ぶようになるために、この世に来られたのです。
それではイエス様が来られるまでの旧約時代はどうだったのかと言うと、父なる神様は神の人モーセを通してユダヤ人に律法を与えて、律法を通して御自分と人間との間に平和の関係を築こうとされました。それでモーセは申命記6章4節と5節でこのように教えました。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」この聖句は「シェマ聖句」と言って、この聖句を書いた紙を小箱に入れて、ひもで額に縛り付けたり、腕にひもで巻き付けたり、また家の戸口の柱と門に書き付けるようにと命じられていました。つまりモーセは、まず神様を愛して、その愛する心で律法を守るように教えたのです。
しかし、どのような法律であっても、100%カバーできません。必ず法律の目をくぐろうとする人が出てきます。そういう人が出ないように、まず神様を愛して、神様の気持ちに寄り添って律法を守るようにモーセは教えました。しかし、ユダヤ人はモーセの死後、モーセが教えたようには理解せず、ユダヤ民族が子供から老人に至るまで、全員が落ち度なく律法を守れるようにと、律法を細則化して、自他ともに守っていることが目に見えるようにしたのです。例えば第四戒は、出エジプト記20章8~10節にはこのように書いてあります。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたの全ての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」この規定から、安息日にしてはならないのは、仕事だけです。主人が休まないと、家族も奴隷も休むことができないからです。それなのにユダヤ人は、安息日に歩いて良い距離は1㎞以内であるとか、病気を治してはいけないとか、麦の穂を摘んで、そして手で揉んで食べてはいけないとか(ルカ6:2)、火を起こしてはいけなとか、食事の支度をしてはいけないとかと、法律の目を細かくして、いかにも真剣に、忠実に守っているかのように見せかけたのです。このように、ユダヤ人は神様を愛して律法を行ったのではなく、律法を具体的な細則に作り変えて、その細則を行うことによって、神様との平和を築こうとしたのです。しかしそれは神様の目に叶うものではありませんでした。そこで父なる神様は何人もの預言者を遣わし、行為によって律法を守ることが間違いであると示されましたが、ユダヤ人は聞く耳を持たず、預言者たちを次から次へと殺してしまいました。
それで父なる神様は、ユダヤ人たちに御子イエス様を遣わして、ユダヤ人が「平和の君」イエス様を信じることによって、ご自分と人間の間の平和を確立しようとされたのです。そのためにまず必要なことは、「平和」に対するユダヤ人の考え方を変えなければならないことです。人間相互の平和から、人間と神様との間の平和に変えるのです。それでイエス様は34節で「私は剣をもたらすために来ました。」と言われました。この剣とは、家族相互の平和が第一だと言う考え方を断ち切る剣です。
その具体的な内容が35節と36節に書いてあります。「わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」この御言葉でイエス様は、年取った親は頭が固くて御自分を信じにくいけれど、若い子供たちは柔軟で御自分を信じるようになる、と言われたのです。若い人たちは家族の事よりも、神様のことを第一に考えるようになるので、いままでのような家族相互の平和が第一という考え方は断ち切られることになるのです。そしてこの結果、発生することを37節で言われました。それはイエス様に対する愛です。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。」イエス様はこの御言葉によって、家族間に向けられていた愛が、御自分に向けられるようになると言われました。こうしてイエス様のもたらす剣の目的は達成されるのです。
イエス様は人々の御自分に対する愛の質をさらに一段高めるために、御自分を愛し始めた人々である弟子達に向かって言われました。38節と39節です。「自分の十字架を負って私に従って来ない者は、私にふさわしい者ではありません。」ここで言われていることは、最悪の事態である迫害が起こっても、イエス様に忠実に従って行くことです。イエス様は先週の説教箇所であるマタイの福音書10章23節で言われました。「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町に逃げなさい。」この言葉でイエス様は、「迫害が起これば逃げても良いのです。しかし、私に従うことを止めてはいけません」と言われたのです。そして更に言われたのが39節の御言葉です。「自分のいのちを得る者はそれを失い、私のために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」イエス様は神様です。神様に守られているほど安全なことはありません。どんなに力ある人間が頑張っても、神様に勝てませんから、だから安心して良いのです。ですから、イエス様に従って行くのは危険と恐れてイエス様から離れる者は、無防備となるので、その命を落とすことになり、イエス様に従って行くのは何よりも安全と理解して従い続ける人は、その命が守られるのです、と言われました。
そしてイエス様は、御自分を信じて、御自分に従ってくる人たちだけでなく、御自分が遣わした人々を、受け入れる人たちに対しても、次のように言われました。40節です。「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れるのです。また、私を受け入れる者は、私を遣わした方を受け入れるのです。」イエス様が派遣した弟子達を受け入れる人はイエス様本人を受け入れるのですよ、と言われました。これは人々が弟子たちを、イエス様の正式な使いであると受け取り、イエス様本人を迎えるように弟子達を迎え入れてくれますよ、と言う保証の言葉です。さらに驚くことは、イエス様を受け入れる人は、イエス様を遣わされた父なる神様を受け入れていることになる、と言われたことです。ですから、弟子達を受け入れる人とは、弟子達を遣わされたイエス様を受け入れるだけでなく、父なる神様も受け入れているのですと言うことになります。このことは、弟子達を受け入れる人たちには、父なる神様からの祝福が注がれるということを意味しています。ですからこの「受け容れる」という言葉は、「信じる」と言う意味に取ることができます。イエス様から遣わされた弟子を受け入れる人は、イエス様を信じているのであり、その人はまたイエス様を遣わされた父なる神様を信じていると言われたのです。
ですからイエス様は41節で、弟子達を受け入れる人々に注がれる、父なる神様からの報いについて、告げられました。「預言者を預言者だというので受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。」預言者の受ける報いと、義人の受ける報いにどのような違いが有るのか定かではありませんが、少なくとも、その人の罪が赦されて、天の御国に入れるようになるということは確かです。この天の御国への入国は、預言者を預言者だというので受け入れた瞬間に、また義人を義人だと言うことで受け入れた瞬間に発生します。決して死んだ後で天の御国への入国が決まるのではありません。信じた瞬間、すなわち生きている今、天の御国に入れていただけるのです。天の御国に入国が赦されると言うことは、この世での安全安心の生活が保障されると言うことを意味しています。
そしてイエス様は最期に言われました。42節です。「まことに、あなたがたに言います。私の弟子だからということで、この小さい者たちの一人に、一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」このイエス様の言葉は、たった一杯の冷たい水であっても、イエス様の弟子だからと言うことで、飲ませてあげるなら、その人の罪は赦されて、天の御国に入れるようになると言うのです。なぜでしょうか。イエス様はマタイの福音書25章40節でこのようにおっしゃっておられます。「これ等の私の兄弟たち、それも最も小さい者達の一人にしたことは、私にしたのです。」
これは行った行為の大きさが問題なのではなくて、イエス様の弟子だから飲ませてあげるという動機が問題なのですよと言われるのです。そしてイエス様はその一杯の冷たい水を飲ませてくれた人に感謝しておられるのです。このイエス様の感謝が水を差し出した人の罪を赦し、天の御国に導いてくださるのです。ですからイエス様の弟子達の働きは、自然の嵐や、人々の反発から守られているだけでなく、夏の暑い日の喉の渇きからも守られていることが分かります。神様の仕事をする人に対して、神様は細かいところまで、常に目を注いで見守っておられることが、良く分かります。
このように、イエス様の弟子だからと言うことで、この小さい者達の一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことが無いのです。これは神様が、心を見られるお方であることを表しています。第一サムエル16章7節にこのように書いてあります。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」この世の人は「たった一杯の水が、何の役に立つのだろうか。」としか見ません。しかしイエス様の目には、御自分に対する愛と映るのです。ですから、イエス様の弟子だと言うことで一杯の冷たい水を飲ませてくれる人を、イエス様はご自分の弟子と同じように報いてくださるのです。ですから、このようにイエス様を信じる全ての人達は、安心して、この素晴らしい神様であるイエス様を、人々に紹介しましょう。この紹介する人たちの働きに対してイエス様が何も報われないと言うことは決してありません。一杯の冷たい水を差しだす人にさえ、豊かに報いてくださる御方ですから、イエス様の働き人には、さらに豊かに報いてくださることは確かです。イエス様がメンツにかけてもその人の人生をハッピー・エンドで飾ってくださることは間違いありません。生きている内に天の御国に導き入れて下さり、事故やケガや災害から守ってくださり、日々平穏で充実した人生を送らせてくださるのです。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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