説教全文

2020年7月5日(日) 聖霊降臨後第五主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「キリストの荷は軽い」

マタイの福音書 11章25-30節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 今、日本のクリスチャン人口は、全人口の0.8%です。99.2%の人がノン・クリスチャンです。そのため、カレンダーの中には、「月曜始まり」のものが売られており、一週間が月曜日スタートで、日曜日で終わるような考え方になってきております。つまり日曜日は週の初めの日ではなく、土曜、日曜が週末なってしまっています。おまけに日曜日に祝日が重なると月曜日が休みとなり、事実上一週間が火曜日から始まるので、日曜日が週の初めの日と言う考え方からますます遠のいてしまいます。こうして日本人は行楽に余念が有りません。でも今年は新型コロナ・ウィルス感染症で、自粛が求められ、行楽も制限されました。
 行楽は悪くなく、人生に潤いをもたらす必需品です。しかしその行楽が、土日が休みだから遊びに行こうと言うだけのものであったら、人生を無駄に送ることになりかねません。そこには神様の祝福が見て取れないからです。人生の終わりになって、「自分の人生は充実していた」、と言える人がどの位いることでしょうか。天の御国に導いていただける人がどの位いるでしょうか。ですから神様は、聖書を通して私たちにこのように呼びかけておられます。詩篇37篇5節です。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」私たちは自分の人生を主なる神様に委ねることが求められています。本日はどのようにしたら私たちの人生を主に委ねることができるようになるか、聖書の御言葉に聞いて参りましょう。

 さて、イエス様は25節でこのように言われました。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵のある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。」このイエス様の言葉の中で明確でない言葉が一つあります。それは「これらのこと」です。「これらのこと」とは何のことでしょうか。「これら」と言う言葉は、直前に述べた複数の物を指す代名詞です。25節の直前に述べられた事とは、20節から24節に書いてある、イエス様が行われた数々の力ある業にもかかわらず、悔い改めなかった町々の事となります。その町々は3つあります。コラジン、ベッサイダ、そしてカペナウムです。いずれもガリラヤ湖周辺の町々です。ベッサイダの町からはイエス様の弟子が3人出ています。ペテロ、アンデレ、ピリポです。(ヨハネ1:43~44)またカペナウムの町は、イエス様がナザレから引っ越して、ガリラヤ宣教の拠点とされた町です。いのちのことば社の新聖書辞典によりますと、この三つの町は三つとも今は廃墟となっています。
 確かに、廃墟となった理由は、イエス様の滅びの預言が成就したからです。イエス様はコラジンとベッサイダの町にこのように預言しておられます。21節です。「お前たちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布(あらぬの)をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」又カペナウムの町に対してはこのように預言しておられます。23節です。「おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。」ソドムはゴモラと同じく、性的に乱れ、邪悪で甚だしく罪深いことで有名です。この町には、かつてアブラハムの甥ロトが住んでいました。(創世記13:12)この罪深い二つの町はアブラハムの時代に、御使いによって天から神の火が下され、滅ぼされています。イエス様は、カペナウム、ベッサイダ、コラジンの罪が、ソドムやゴモラのきわめて重い罪(創世記18:20)よりも重いと言われるのです。その重い罪とは、この3つの町の人々がイエス様の力あるわざを見ていながら、恐れおののかないで、イエス様を神様と認めず、悔い改めなかったことを指しています。
 このことから、カペナウムや、コラジンや、ベッサイダの人々はいかに、傲慢であったかが分かります。彼らは自分等が知恵ある者、賢い者であるかということを誇っていた、ということになります。とは言っても、これ等の三つの町の人々が全て傲慢で、自分たちは知恵が有り、賢いとみなしていたわけではありません。中には大人の言うことを素直に受け入れる幼子たちや、この素直な幼子のような心を持つ大人たちもいました。この素直な心持つ人たちは、イエス様の権威ある御国のお話とそのお話を裏付けるイエス様の奇跡を通して、イエス様は神様であることを知ったのです。そして「イエス様を信じれば、恵みによって義(罪が無い)とみなされる」と言う福音を受け容れたのです。ですから、「イエス様は神様である」ということと、「イエス様を信じれば義と認められると言う福音」の、この二つが「これらのこと」の中身となります。
 それでイエス様は26節で言われました。「そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」イエス様を信じれば義と認められる、これが御心なのです。というのは、聖書は一貫して、悔い改めてイエス・キリストを信じれば、恵みによって義と認められると教えているからです。イエス・キリストの誕生の約2,000年前に、神様がイスラエル人の先祖のアブラハムに現れて、アブラハムの子孫が星のように増えることを約束された時、アブラハムはその主の言葉を信じました。それゆえ、創世記15章6節には、「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」と書かれています。この様に「義」と認められるために必要なことは最初から「信仰」のみなのです。この信仰によって義と認められることを神学用語で「信仰義認」と言います。この「信仰義認」の反対は「行為義認」です。良い行いを積み重ねて、神様から義と認めてもらおうとする人間の考え方です。残念ながら、人間がいくら良い行いを積み重ねても、犯した罪を帳消しにするには全く足らないのです。ですから良い行いで義と認められることも、天の御国に入ることもできません。しかし、知恵ある人たちや賢いと自負する人たちは、その秀でた能力を捨てることができず、イエス様を信じようとしませんでした。
 そういう訳でイエス様は27節でこのように言われました。「すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現わそうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。」ここで語られているのは、「イエス様とはどなたなのか」と言うことです。まず全ての事が父なる神様から御子イエス様に渡されています。この御言葉から、「父なる神様と御子イエス様とは、同一のものを共同で所有しておられる方々である」ことが分かります。端的に言えば、「イエス様は神様である」と言うことを意味しています。次に「子であるイエス様を知っておられるお方は、父なる神様しかおられない」と言うことです。つまり知恵ある者や賢い人は誰も、イエス様がどなたなのかわからないと言うことです。ですからカペナウムやベッサイダやコラジンの人々は、イエス様の数々の力ある業にもかかわらず、イエス様がどなたであるのかが分かりませんでした。しかし、25節を見ますと、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。」と書いてあるところから、幼子たちはイエス様がどなたなのかが分かったと言う事ができます。幼子は自分を愛してくれる人、自分を受け入れてくれる人を直感的に分るからです。これに反して大人、すなわち知恵ある者や賢い者は、知識や教養や経験が邪魔をして、人間の姿を取って来られたイエスが、どうして神様であろうかと考えてしまい、神様として受け入れることができないのです。父なる神様が人間に知恵と知識と経験を与えて、イエス様の本当の姿を隠しておられるのです。更に父なる神様は、イエス様以上に御自分がどなたなのかを全く隠しておられます。それは御子なるイエス様が、御父を現わそうと心に定めた者に、御父を現わすためです。イエス様が御自分の本当の姿を示された場面が聖書の中に有ります。ヨハネの福音書14章8節から11節でイエス様は、弟子たちに、誰が父なる神様なのかを、現わされました。その9節でイエス様は言われました。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」このイエス様の言葉から、イエス様は天と地を造られた、父なる神様でもあると言うことが分かります。そして今もなおこの世の人全ての面倒を見ておられるだけでなく、雀や、小さな虫に至るまで世話をしておられ、また私たちの髪の毛も全て数えておられる、お方なのです。

 このお方、父なる神様でもあるイエス様は、28節で言われました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」イエス様はこの言葉で、「あなたの全てのことを私に頼って行いなさい」、と言われました。人間が自分で全てを背負いこんでも疲れるだけで、大したことはできません。できることは限られています。人間の能力には限界があるからです。またどんなに頑張って重荷を背負っても、全てを運び切ることはできません。人間の一生には限りがあるからです。ですから私たちは、自分の力で行うのではなく、イエス様の力で行うのです。全てをイエス様に委ね、イエス様に頼るのです。そうすれば私たちは、楽ができるのです。
 こんなことを言うと、それはちょっと無責任じゃない。やってもらえなかったらどうするのよ。だれが責任を取るのよ。と言う声が聞こえてきそうです。私が言うのは、イエス様に全て丸投げしなさい、と言っているわけではありません。その間、遊んでいていいよ、と言っているわけではありません。イエス様は、ただ「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われただけです。当然私たちも頑張って働かなくてはなりません。でもその頑張り方が、一人で頑張るのではなく、二人で頑張る姿に代わっている所が重要なのです。一人目は私ですが、二人目は誰でしょうか。二人目は、天地を造られた父なる神様である、イエス様なのです。

 それゆえ、イエス様は29節で言われました。「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」イエス様の心が「柔和でへりくだっている」という意味は、「どんなに心が繊細で、おどおどしている人でも大丈夫ですよ。イエス様はその繊細でおどおどしている人の心に寄り添えるほど柔和で、へりくだっているから、安心していいですよ」、と言う意味です。イエス様は、あなたを造られた神様ですから、あなたの事は隅から隅まで良く知っておられます。ですからイエス様を信頼して、全てを委ねて良いのです。
 このイエス様を信じ、イエス様を信頼し、イエス様と共に歩むと言うことがイエス様のくびきを負うと言うことの意味です。くびきとは、二頭の牛を横に並べて、二頭の牛の首に置く一本の横木です。その横木の真ん中、つまり二頭の牛の間に、一本の轅(ながえ)と言う棒を通し、その轅に犂(すき)を付けて、畑を耕すのです。ですからこのくびきとは、二匹の牛が同じ力で引っ張ること前提とされている農機具です。イエス様のくびきを負って、イエス様と共に歩むことがイエス様から学ぶことになります。
 私事で恐縮ですが、私に學(まなぶ)と言う名前を付けたのは私の母です。生前、良く学ぶ子になって欲しいと願って付けたと言っておりました。その母の願いの通り、今もなおイエス様のくびきを負って学んでおります。
このイエス様のくびきを負う時、大変驚くべきことが私たちの心に起ります。大変な疲れが生じるのかと心配しがちですが、違うのです。「疲れ」とは全く反対の「安らぎ」です。この29節の「安らぎ」と言う言葉と28節の「休ませてあげます。」は同じギリシャ語です。両者の違いは29節が名詞で、28節が動詞であると言う違いだけです。28節の「休ませてあげます」は単なる「肉体的な休み」ではなく、29節で言っている「魂の休息」と言う、本質的な休息であることを、イエス様は伝えようとしておられます。魂とは、心とも訳せる言葉です。病んでいた心が希望に満ちた健康な心に変えていただけるのです。
 そしてどうしてイエス様のくびきを負うと魂に安らぎを得るのか、その理由をイエス様は30節で言われました。「わたしのくびきは負い易く、わたしの荷は軽いからです。」この「負いやすく」と言う言葉にアステリスク(星印)が付いています。それで脚注(新改訳聖書)を見ますと、「心地よく」と書いてあります。イエス様とくびきを共にすることは、心地良いのです。そしてイエス様の荷は軽いのです。その軽さは安らぎを与える軽さです。ですからイエス様と共にくびきを負うならば、私たちの口から楽しくて口笛が鳴り響き、嬉しさに溢れた笑いがこみ上げてくるのです。なぜでしょうか。それは私たちが全能なる神様であるイエス様のくびきを負って人生を歩み始めると、イエス様が私たちの人生を共に歩んでくださり、私たちの人生を導き、助け、楽しく豊かな人生としてくださるからです。

 こう言う訳ですから、私たちは自分の重荷を自分で抱え込むのではなく、悔い改めて、人生の全てを天と地の創造主であるイエス様に委ね、イエス様のくびきを負って、イエス様と共に人生を送らせていただきましょう。私たちの人生をイエス様に委ね、イエス様と共に歩むのです。そうするとイエス様が人生のガイドとして私たちを導き、イエス様が病気や、事故や、災害等の人生の困難な時を共に乗り越えさせてくださり、イエス様が私たちの人生を豊かで変化の富んだ楽しい物と仕上げてくださいます。そして終には、イエス様が私たちを天の御国に迎え入れてくださり、私たちに与えてくださったキリストの荷、即ち、私たちの地上の人生の荷は、本当に軽く、本当に心地良かった、という思いで満たして下さるからです。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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