説教全文

2020年7月12日(日) 聖霊降臨後第六主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「御言葉を聞いて悟りなさい」

マタイの福音書 13章1-9、18-23節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 先週私たちはテレビや新聞やネットなどメディアの報道を通して、九州地方で起こった集中豪雨による水害の激しさを目にしました。線状降水帯による降水量は半端ではなく、多くの河川が氾濫し、山崩れが発生し、多くの人が亡くなり、多くの家屋が被災しました。被災された方々の心情を思いやる時に、どんなに切ないことかと思わずにはいられません。特に地方は若者が少なく老人世帯が増えております。終の棲家のつもりが、洪水や山崩れで失ったら、一体どこに住めばよいのでしょうか。この様な人間の力を超えた災害に接するたびに、私は人間の力の小ささを感じてしまいます。私はこのような災害が神様から下されているのではないかと見ております。日本人がご自分を受け入れないので、神様の守りが無いのではないかと感じているのです。これは恐ろしいことです。そうでなく、私達は神様から守られなければなりません。聖書はこのように教えています。詩篇121篇です。

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのか。
  私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。
 (中略)
  主は、すべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。
  主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

 この様に、どうしたら神様から守っていただけるようになるのかを、本日の聖書箇所が教えておりますので、これから聞いて参りましょう。

 さてイエス様は、本日の聖書箇所の中で、家を出てガリラヤ湖の岸辺に座っておられました。イエス様が家におられると、大勢の人が家の中にまで押し掛けてくるので、尋ねて来たご家族の者のいる場所が無かったのかもしれません(マタイ12:46)。それで弟子達と共に家の外に出られ、ガリラヤ湖の岸辺に座っておられたのだと思われます。イエス様が弟子たちとガリラヤ湖の岸辺にいることは、すぐに人から人に知れ渡りました。たちまち大勢の人がイエス様のお話を聞こうと集まって来たのです。
 イエス様は群衆がご自分に押し寄せて来ないようにと、舟に乗り、腰を下ろされました。群集は皆、岸辺に立っていましたので、後ろの人々はイエス様が良く見えなかったのではないかと思われます。でもイエス様は神様ですから、全ての人が聞き取れるように話されたことは確かです。
 イエス様はこの群衆に向かって、多くのことを例えで語られました。その最初の例えが「種を蒔く人の例え」です。この最初の例え話が終わると、弟子達が近寄って来てイエス様に聞きました。本日の聖書箇所には入っていませんが、10節で弟子たちはこの様に言っています。「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか。」多分弟子たちもこの例え話が理解できなかったのでしょう。同じ例え話が書いてあるマルコの福音書4章10節を見ますと、この様に書いてあります。「さて、イエスだけになったとき、イエスの周りにいた人たちが、十二人とともに、これらのたとえのことを尋ねた。」この弟子たちの質問の様子から、弟子たちも例え話の意味が理解できなかったことが分かります。しかしイエス様はこのように答えておられます。同じくマルコの福音書4章13節です。「このたとえが分らないのですか。そんなことで、どうしてすべてのたとえが理解できるでしょうか。」一般の人達よりも、高度の理解力が求められる弟子と言うものは、つらいですね。
 でもイエス様は優しい御方ですから、叱責もしますが、求める人には必ず答えてくださる御方です。イエス様御自身が、マタイの福音書7章7節で、私達に命じておられるからです。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」ですから、私たちも、恥も外聞も気にしないで、分からないことは何でも率直に、「イエス様、教えてください。」とお願いしましょう。そうすれば教えてくださいます。しかしお願いしなければ何も教えていただけません。神の国の事は人間にはわからない事ばかりですから、イエス様に聞くのが最善の道です。ですから私は、聖書クラスの準備や説教を書くときは、いつも教えてくださるように、イエス様に頼みっぱなしです。そうでないと、間違ったことを教えてしまう可能性が有るからです。

 さてイエス様はマタイの福音書13章18節から、「種蒔きの例え」の説明を始められました。でもこの福音記者マタイの説明は少し端折っておりますので、詳しく書いてあるマルコの福音書の記事を参考にして説明します。マルコの福音書4章14節に「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」と書いてあります。ここから、「種蒔く人」は「イエス様」で、「種」とは「御言葉」であることが分かります。そうすると種が落ちる「道端」とか、「岩地」とか、「茨地」とか、「良い地」とかは、「御言葉を聞く人」のことである、ということが分かります。

 マタイの福音書13章19節でイエス様は「道端の人」の説明をされました。「だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。」このイエス様の説明から、マタイの福音書13章4節の種を食べる「鳥」とは「悪い者」であることが分かります。マルコの福音書4章15節では「サタン」、つまり「悪魔」と説明されています。
 イエス様がこの「道端の人」を「御言葉を聞いても悟らない人」である、と言われるのは、心が足で踏み固められたように固くなって、どんな御言葉をも跳ね返してしまう心を表しています。つまり心が邪悪な状態に陥ってしまって、神様に敵対している人です。例えばパリサイ人とか、サドカイ人のことで、イエス様に反対して、十字架に付けてしまうほどイエス様を憎んでいる人々のことです。彼らは神様から遣わされた預言者を何人も殺しました。彼らは悪魔に取りつかれている人たちで、この様な人々は、イエス様の救いから最も遠い人と言えるでしょう。

 次にイエス様は、マタイ13章20節と21節で「岩地の人」のことを説明されました「また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」この岩地の人は御言葉を聞くと、喜んで受け入れますが、問題はその心に、御言葉の種を受け入れる土が非常に薄いことです。その薄い土の下は堅い岩です。この岩とは、その人の心の中に隠されている堅さです。つまり表面的には御言葉に賛成ですが、決して御言葉を自分の物として取り込もうとしない人です。自分自身を神様に任せることを極度に警戒している人ではないでしょうか。この心の堅さゆえに、御言葉を全面的に受け入れません。キリスト教に好意を持っていますが、決して深入りしようとしない人です。ですから御言葉が根を出して、その人の心の中に、入り込むことができません。御言葉は喜んで受け入れますが、信仰が育たないのです。ですから太陽に照らされると、種が弱ってしまうように、困難や迫害が起こると、御言葉を、いとも簡単に捨ててしまい、すぐに信仰を失ってしまうのです。

 また次にイエス様は、22節で「茨地の人」のことを説明されました。「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」御言葉を聞くという姿勢が有ることに関しては岩地の人と同じです。然し違う所は、岩地の人は太陽と言う明るいところを好む性格なのに対して、茨地の人は、この世の煩いと富の誘惑と言う。日陰を好む性格であることです。つまり、御言葉よりもこの世の煩いと富の誘惑の方に関心がある人です。はっきり言えば、御言葉よりもこの世の楽しみや金儲けに興味がある人です。使徒パウロは、テモテへの第一の手紙6章9節と10節で、このように注意を喚起しています。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」ですからこの茨地の人が実を結ぶことは期待できません。

 そしてイエス様は23節で、御言葉が蒔かれた「良い地」について語られました。「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」「良い地」とは畑の事で、本来、種が蒔かれるべき場所のことです。今までお話ししてきた道端とか岩地とか茨地とかは、畑周辺に位置する場所で、本来そこに種を蒔くつもりではないのに、誤って蒔いてしまっただけの場所です。農夫でなくとも、誰もそのような畑でない所からの収穫を期待してはいません。期待している場所は畑である良い地です。
 良い地のような人とは、御言葉を聞いてそれを悟る人の事であるとイエス様は言われました。「悟る」とは「心で理解する」ことです。御言葉が何を言っているのか、分かることです。このことはこの分厚い聖書を繰り返して読むことにより分かって来ます。つまり、この聖書の中では、同じような内容のテーマが、時と場合と姿を変えて、何度も繰り返して教えられており、聖書のある個所の言葉が他の箇所では言い換えられていたり、説明されたりしているので、繰り返して読むと、だんだんと分かって来るのです。この意味で聖書自体が教科書であり、同時に註解書なのです。

 ですから聖書を読む時は、父なる神様によく理解できるように、まず祈ることが求められています。祈り無くして聖書を読んではいけません。そして、決して聖書を自分の頭で理解しようとして読んではいけません。聖書は神様から理解させていただく書物です。祈りが必要なのは神様に教えていただくためです。そうすれば神様が、私達の理解を深めてくださり、ある人には100倍の実を結ばせ、ある人には60倍の実を結ばせ、ある人には30倍の実を結ばせてくださいます。祈るだけで、少なくとも30倍の実を結ばせてくださると言われるのですから、祈らないと言う手はあり得ません。もったいないです。祈りましょう。そして聖書が良く理解できるようにさせていただき、100倍の実を実らせていただくのです。
 この聖書の言う100倍の「実」とは何でしょうか。それは神様からくる完全な守りであり、導きであり、祝福です。説教の冒頭で述べた詩篇121篇の言葉、神様の御言葉の守りが、私たちの周りを取り囲むのです。「主は、すべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」イエス・キリストを信じ、イエス様の蒔かれる種と言う御言葉を受け入れる時、私達は全能の神様であるイエス様から守っていただけるのです。御言葉を聞いて悟り、100倍の実を実らせ、100%神様から守っていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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