2020年7月19日(日) 聖霊降臨後第七主日
聖書箇所 | 説教全文 |
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説教全文
「御国で太陽のように輝く」
マタイの福音書 13章24-30、36-43節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。
7月も後半に入り、梅雨の時期も過ぎつつあります。でもまだまだ油断なりません。時々、梅雨の最後の時期に大雨が降って、災害が起こることが多いからです。それにしても「令和2年7月豪雨」と命名された、九州地方の河川の氾濫による水害は、目を覆うものでした。多くの家屋が被災し、多くの方々が亡くなりました。暖かい南シナ海で発生した、水蒸気を多量に含んだ雨雲が、停滞した梅雨前線に沿って北上し、最初に出会った九州の山岳地帯で冷やされて、一挙に豪雨となり、河川を氾濫させたのです。テレビの天気予報では、線状降水帯発生が予報され、警戒が叫ばれていました。集中豪雨を予想させる赤く色づけられた雨雲が1日中同じ場所を通過していくのを見て、恐ろしくなりました。
この様な豪雨は、海洋に囲まれた日本独特の災害かと思っていましたら、先日テレビで中国の揚子江が氾濫し、多くの家屋が水害で被災している様子が報道されているのを見て、目を疑いました。乾燥しているはずの内陸部でも大雨が降るのかとびっくりしたのです。インターネットで確認したところ、今年の中国は異常気象に遭遇しているようで、東北部ではイナゴの大群の襲来があり、長江流域の各都市では記録的な大雨が続き、広範囲に洪水が発生し、浸水被害や土砂災害が相次いでいるようです。
また、昨年9月から今年3月まで続いた、オーストラリアの森林火災による消失面積は、日本全国の面積の約半分だそうで、半端ではありません。試算によれば、コアラやカンガルーなどを含め、10億以上の動物の生命が失われたと推定されているそうです。
それに今年は新型コロナ・ウィルス感染症の世界的大流行、パンデミックが起こっています。これら今まで経験したことの無いような自然災害やパンデミックに遭遇すると、この世も終わりに近づいているのかなと言う気持ちにさせられます。
しかし、この世はまだまだ続き、この世の終わりは、まだまだ来ないと考えられますが、災害に巻き込まれて亡くなった方々や、コロナ感染症で亡くなった方々にとっては、この世の終わりが来てしまっております。私たちも、何時この世に別れを告げるようになるのか分かりません。そういう訳で、本日、どのようにしたら「天の御国で太陽のように輝く」ことができるようになるか、御言葉に聞いて参りましょう。
さて本日の第二日課で私たちはローマ人への手紙8章18~27節を読みました。その続きの19節から21節にはこのように書いてあります。「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。」この使徒パウロの言葉から、この世の終わりには、私たちの生活を支えているこの大自然も、神の子供たちの現れと共に、滅びから救われ、神の子供たちの栄光の自由を、共に与れるようになる、と述べています。
その大自然が救われる状態を、預言している場面が、イザヤ書に記されています。イザヤ書11章6節から9節です。そこをお読みします。「狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」
このような人間だけでなく、大自然も救われるようになるこの世の終わりが必ず来ることを、イエス様は本日の福音書で説明されました。本日の聖書箇所であるマタイの福音書13章24節は人間の創造、25節はこの世における悪魔の働き、26節は信仰者と不信仰者の共存、27節~29節はその共存の理由、そして30節はこの世の終わり、即ち最後の審判を表しています。
イエス様はこの良い麦と毒麦の例え話によって、この世は良い麦である信仰者と、毒麦である不信仰者の共存社会なので、一見複雑に見えるけれども、収穫と言う最後の審判の時には天使達によって分離され、毒麦は火の中へ投げ込まれ、良い麦は倉の中に納められるという単純な世界なのであると言われました。
しかし、28節で僕たちが主人に、「それでは、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。」と提案すると、29節と30節で主人は次のように答えるのです。「いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。」この主人の言葉は何を意味しているのでしょうか。この世は毒麦の不信仰者と良い麦の信仰者の、共存社会であるだけでなく、毒麦の不信仰者であっても、最後まで育つための理由が有る、ということを私たちに告げています。
聖書の創世記第3章は、最初の人間であるアダムとエバが、蛇に化けた悪魔に騙されて、堕落していく場面が描かれています。この蛇に化けた悪魔については、創世記3章1節でこのように書いてあります。「さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。」これは新改訳聖書2017の翻訳ですが、新改訳第三版はこのように書いてあります。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」新改訳2017の「賢かった」という翻訳と第三版の「狡猾であった」と言う翻訳とでは、印象が天と地ほどの差があります。2017の「賢かった」と言う言葉には悪意は微塵も感じられませんが、第三版の「狡猾であった」と言う言葉には強烈な悪意が感じられるからです。私が持っているヘブル語大辞典には、今問題としている単語には、「狡猾」と「利口」と二つの訳が載っており、創世記3章1節の訳としては、「狡猾」と言う訳が適切とされています。ですから私は、「狡猾」と翻訳する方が正しいと思います。
神様はこの狡猾な蛇である悪魔を、創造の六日目に野の獣の一匹として造られました。この蛇がエバを誘惑して、禁断の木の実を食べさせ、そしてエバはこの禁断の木の実をアダムにも与えたので、アダムも食べました。表面上は蛇に化けた悪魔が、エバを誘惑していますが、蛇は神様が用いている「使い」にしかすぎません。ですから裏では神様が蛇を用いて、エバを誘惑していることが分かります。このことを使徒パウロはローマ人への手紙11章32節でこのように述べています。「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それは全ての人を憐れむためだったのです。」また、パウロは同じ内容の事を、ガラテヤ人の手紙3章22節で言葉を変えて言っています。「しかし聖書は、すべての者を罪の下に閉じ込めました。それは、約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。」聖書は神様の言葉ですから、聖書を「神」と言い換えることができます。ですから神様が全ての人を罪の下に閉じ込めたのです。この使徒パウロの言葉には、蛇の働きについて、一言も触れていませんから、先程も言った通り、蛇は神様の単なる道具に過ぎないということが分かります。
神様は悪魔を用いて、人間に罪を犯させただけではありません。神様は悪魔を用いて、人間に対して災害を及ぼしています。ヨブ記1章8節を読みますと、神様は義人ヨブが、いかに信仰深いか、べた褒めしています。「お前は、私の僕ヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて、悪から遠ざかっている者は、この地上に一人もいない。」それに対して悪魔は1章11節で答えています。「しかし手を伸ばして、彼の全ての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」それで神様は悪魔に、ヨブを痛めつけることを許します。1章12節です。「では、彼の財産を全てお前の手に任せる。但し彼自身には手を伸ばしてはならない。」神様の許可を得た悪魔は、シェバ人やカルデア人を用いて、ヨブの使用人たちを打殺し、ヨブの家畜を略奪させ、大風を吹かせて家を倒し、ヨブの子供たち全員を殺しています。そしてヨブ本人をも悪性の種物で打ち、苦しめます。けれどもヨブは、決して神様を呪いませんでした。この「ヨブ記」から分かることは、この世の災害や病気や死は、悪魔が神様の許可を得て起こしている、ということです。
なぜ神様は、悪魔に許可を与えて、この世の人々を、災害や病気や死に遭わせているのか、と言いますと、先ほど触れましたローマ人への手紙11章32節「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それは全ての人を憐れむためだったのです。」に述べられているように、「全ての人に罪を犯させたのは、全ての人を憐れんで、滅びから救うためである」ということが分かります。またガラテヤ人の手紙3章22節「しかし聖書は、すべての者を罪の下に閉じ込めました。それは、約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。」に述べられているように、「全ての人を罪の下に閉じ込めたのは、約束の救いが、イエス・キリストを信じる全ての人たちに与えられるためである」、ということが分かります。
この様な悪魔の働きである災害や病気や死によっても、神様に助けを求めて来ない人達に対して、神様は一体どのような態度に出られるのでしょうか。40節から43節に答が書いてあります。この様な人達は、悪魔が蒔いた毒麦、即ち、つまずきと不法を行う者達、と見なされ、御使いたちによって取り集められ、束としてくくられ、この世の終わりに、火の燃える炉の中に投げ込まれます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
しかし、悪魔の送る災害や病気によって悩み、苦しんで、自分の行った罪を悔い改め、神様に助けを求めて来る人は、良い麦と見なされ、神様は御使いを送って御国に導き、太陽に様に輝かせてくださいます。
この様にイエス様は、この良い麦と毒麦の例え話によって、全ての人間はアダムとエバの子孫である罪人、すなわち悪魔が蒔いた毒麦の子供たちなのだが、悪魔が与える災害や病気、その他の困難なことを通して、自分の罪深さを認め、悔い改めて神様に助けを求めるなら、良い麦となることを教えられました。今起こっている、未曽有の災害や病気などは、悪魔が起こしているもので、私たち全てが神様に助けを求める者となり、私たち全てに、良い麦となって欲しい、と切に願っておられる神様から来るものなのです。神様は公平な方ですから、良い麦になりたい、救われたい、と思って神様に助けを求めて来る人を拒むことなく、喜んで救ってくださいます。しかし神様に頼らず、「自分は毒麦のままでいい」、と望む人に対しては、その望むとおりに報いてくださいます。ですから私たちは毒麦のままでいるのでなく、謙虚になり、悔い改めて神様に助けを求めましょう。そうすれば私たちは良い麦となり、御国で太陽のように輝く者とならせていただけます。そして大自然も救われ、私達は安全安心な天の御国で、神様と共に光り輝く生活送る者とならせていただけるのです。ですから、あなたも神様に助けを求めましょう。神さまはあなたが来るのを絶えず待っておられます。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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